第8話
彩夏と優菜が、久江ママの家に来た。
「材料全部揃っているよね。これでいいのかな」
以前買った材料を家から持ってきて、そのまま使ってもらうことにした。
彩夏と優菜、共同作業で初めて二人で作るそうだ。私も手伝おうか、と言ったけれど、親子水入らずの時間を過ごしてと言われて、ママと二人、ソファーに座っている。
「えーっと、あ、鶏がら入れるの忘れた。今から入れても大丈夫かな」
彩夏の声が聞こえる。
「大丈夫だよ。混ぜちゃえば全部同じだよ」
優菜は能天気にそんなことを言っている。本当に大丈夫かな。私は少しハラハラしながら台所へ行くが、澪は座っていて、と彩夏の厳しい声が飛んだ。
すごすごと戻って、ママの隣に座る。
「ふふ、お友達頑張っているみたいね」
「うん。真剣な表情をしていた」
「楽しみね、また担々麺が食べられるなんて」
ママはすごく楽しそうに笑っている。
「私がいる限りいつでも食べられるから。食べたいときは言ってね」
「ええ」
「それにしても、にぎやかね。たまにはにぎやかなのも、いいものね」
台所を振り返り、言った。
ママは博パパが死んでからはずっと独りぼっちだった。静かな家にいて暗くなり、二人の遺影を見て気が狂いそうになったことだってあったかもしれない。
恵理子も子供を失ったら理性をなくすと言っていたし、さらに旦那を亡くせば気が狂うかもしれないとまで言っていた。
「時々、連れてきてもいい? 本当にいい子たちなの。いじめとか嫌うし、彩夏は性格もさっぱりしていて。優菜もおっとりしているけど、嫌なことは嫌ときっぱり言う子だし」
ママは頷いた。
「もちろん構わないよ。澪ちゃんの友達が見られて私も嬉しいし」
担々麺独特の辛みのある香りが漂ってきた。
「澪、お願い。味見よろしく」
「はーい」
私は台所まで行って、お玉でスープを小皿にすくい、味を見る。
「ちょうどいい。一度でこんなに美味しく作れるのはすごいね」
彩夏は頭を掻く。
「すごいでしょ。一発で作れたよ」
「ほんとすごいよ。私は最初の時なんか薄くて大変だったもん」
心を込めて言うと、彩夏は顔をくしゃりと歪ませた。
「って実は嘘。澪みたいに家で少し練習していた」
「あー、嘘ついた」
優菜が言う。
「だって初めて食べて貰うのにまずかったら嫌じゃん」
そうして三人で、なにがおかしいのかもわからずに顔を見合わせて笑った。
「澪の頼みどおり、砂糖は入れていないからね。じゃあ、そろそろ麺を茹でるよ」
「うん、よろしく」
言って私は再び畳部屋に戻る。私が作ったわけじゃないけれど、ママに食べて貰うのは楽しみだ。彩夏も優菜も、ママのために作っているから。
「ほんと、いい子たちだね。それに可愛い」
この可愛いは、若い子を見て可愛いと言っているのと同じだろう。大人になって年をとると、若い子が全員可愛く見えてくるのだとか。
「できました」
しばらくして、彩夏と優菜の揃った声が聞こえて来た。私は返事をしてリビングへ行く。私が教えたとおりの見た目だった。今日は小松菜ではなくチンゲン菜がどんぶりの中に存在を放って入れられている。どんぶりの内側の縁が、かすかに赤くなっていた。
「ああ、この匂い。いいわね」
ママはしばらくの間香りを味わっているようだった。そうして割り箸を取り出し、席につくと、みんなも座って、割り箸をとる。
「じゃあ、頂きましょうか。その前に」
スマホを取り出し、写真を撮っていた。
「私なんかの作ったものに写真を撮るのですか」
「私なんかとか言わないで。澪ちゃんの友達が作ったものですもの。大切な思い出として記憶しておくわ。澪ちゃんが作ったときにも撮ればよかったんだけれど、あの時は心に余裕がなくて」
「そうですか……」
彩夏は少し不安そうな顔をしていた。ママが一口食べた後で、私たちも箸をつける。
しばらくは無言で麺をすする音が聞こえていた。そうしてママは口を開く。
「美味しい。甘みがない分、辛さが際立つけどさっぱりと食べられるわ」
彩夏はほっとしたような顔を浮かべていた。
一口食べては、「はぁ、美味しい」とママは呟き、味わっているようだった。
彩夏と優菜の作った担々麺は私もおいしいと感じられた。坦々スープにからめとられたチンゲン菜とシャッキリとしたもやしがまた程よい味になっている。
「美味しいよ、彩夏、優菜」
「澪が教えてくれたおかげだよ」
「彩夏が練習したからでしょ」
ふふん、と彩夏は少しだけ得意げな顔になる。
「でもさ、澪もたくさん練習したんでしょ、お兄ちゃんの家に行って」
「そうだよ。毎日食べると太るというお兄ちゃんの言い分で、毎朝一時間ジョギングしながら作っていた。ジョギングは苦行だったよ」
優菜は一時間もジョギングなんてすごーい、と言った。
「えー、私なんて運動しないで作っていたよ、太るかな」
「大丈夫じゃない? 体育の授業頑張れば」
「体育苦手」
そう言って彩夏は笑った。
「まあ、私はそのおかげでママに担々麺が作れるようになったんだけどね」
「もしかして熱を出したのって、そのせいなの」
ママは目を見開いた。
「うん、ジョギングによる免疫力の低下。でももう治ったし」
あらあら、という声が響く。
「ごめんなさいね。まさか担々麺を作るために体壊したなんて」
「どんなことがあってもママに食べて貰いたかったからね。ねえ、砂糖ありとなし、どっちの味が好き」
私はあえてそう訊ねてみた。確認したいことがあったからだ。
「あー、私たちの前でそんなこと訊く?」
彩夏が叫ぶ。私はちょっといたずらっぽい顔をして見せた。
「どっちも同じくらい好きだけど、個人的な好みで言えばやっぱり甘みがあったほうが好きかな。あ、でもどちらも本当に好きよ」
確かめたかったのは親子の絆。転生しても、まだ残っている。私も甘みのあるほうが好きだから、味の好みは同じだ。
彩夏はがっかりしたように項垂れる。優菜が慰めるが、顔をあげて笑った。
「嘘だよーん。別にがっかりしていないから。今度は砂糖入りのを作ればいいだけだし」
そう言ってまた笑う。ママは温かなまなざしで私たちを見つめていた。
「また大好物のものが食べられるようになって、我が家がこんなに賑やかになるとは思ってもみなかったわ。少し前じゃ考えられなかった。今、ものすごく楽しい」
ママは終始笑顔だ。
「じゃあ、また来ますよ」
言ったのは彩夏だ。
「いい秋刀魚が手に入りそうなの。ご馳走するから、近いうちにまたいらっしゃい」
やったー、と彩夏ははしゃぐ。
「今秋刀魚って高いんじゃない?」
私は言った。この前スーパーで見たとき、かなり高騰していた。
「値段なんか気にしないで、旬の美味しいものをみんなで食べましょう」
「じゃあ、また遠慮なくお邪魔しますね」
優菜が言った。
「その時はうちに泊まりなよ。隣の家」
「そうだね、またお泊り会しよう」
彩夏と優菜は嬉しそうにしながら、残りの坦々麺を食べていた。私も食べる。辛さはやっぱり病みつきになって、一口スープを飲むと止まらなくなる。みんな同じような様子だ。私もスープがなくなりそうになるまでずっとれんげを口に運んでいた。
後片付けをし、彩夏と優菜を駅まで送る。寒さが身に染みる。
「今日はどうもありがとう」
吐く息も、いつの間にか白くなっている。
「こちらこそありがとう。楽しかったよ」
優菜が微笑む。
「前世のお母さん、元気そうでよかったね」
彩夏が真顔で言った。話をしてから彼女なりにずっと心配してくれていたのだろう。
私のことも、ママのことも。こうして陰ながら心配してくれる友達がいるのは、本当にありがたいことだと思う。
「また来てね。秋刀魚食べに」
「絶対行く」
「寒いから気を付けて帰ってね。風邪ひかないように」
「澪と違ってバカだから風邪ひかないよ」
彩夏が冗談めかした表情で言う。
「またそんなこと言って。本当に気を付けてね」
じゃあ、と言って二人と別れた。街はもうすっかり暗い。
空にはくっきりとした半月が出ていた。来た道を引き返して――
不意に私の中から道行く人の雑音が消えた。そうして一瞬だけ、二十八年前の光景が目の前に広がる。
いつも贔屓にしていたお弁当屋。奥さんと旦那さんが忙しそうに働いている。そして今はもうないはずの食品スーパー。二十八年前のファッションや髪形で歩いていく人たち。
なんだろうこれ。そう思っている間に目の前の景色は消え、現代の雑音が再び耳に入る。クラクションの音や、車の通る音。辺りを見てみる。もうお弁当屋さんも食品スーパーもない。お弁当屋さんがあったところは美容院に、食品スーパーのあったところはマンションが建っている。小さな横断歩道で信号無視をした車が通りすぎていった。
「危ない」
呟いていた。注意を払っていたからよかった。でもまだ、信号無視をする車があるのだ。ため息をついて、ふと、胸の疼きを感じた。
なんだ。史子がなにか言いたがっている。私は足を止めた。家に帰るまでの数分間で、史子が何を言いたいのか考えなければならない。一瞬過去の光景が見えたのは、史子が澪に何かを伝えたかったのだろう。
なにを伝えたい?
頭をフル回転させ、これまでのことを思い出す。一つ思い当たることがあった。
初めてママに坦々麺を作った日、作ることに意識が行ってしまって言えなかったことがある。追体験をしようとしたのに、私はその一言を言いそびれてしまった。
胸に手を当てる。多分史子が言いたがっているのはこれだ。
「そうだよね?」
訊ねてみると目覚めている史子の魂が喜んだような気がした。
夜の灯りを縫って、細心の注意を払いながら走り出した。色々な顔が浮かんでは消えていく。お弁当屋さんのご夫婦。よく見かけていた食品スーパーのパートの女性。
唐揚げ屋の店主。お肉屋さんの白い帽子をかぶった男性。みんな、史子が見知っていて、今はもう亡くなったり見かけなくなったりした人達の顔だ。名前までは覚えていないけれど、史子は様々な人々の顔を覚えていた。博パパの顔も。文化祭で会った大学時代の友達の顔も。もう誰にも、なんの声もかけられない。でもママには言える。言っていなかったことを、史子が言えなかったことを言える。これも史子の心残りだったのだ。
言わなきゃ。言わなくちゃ。白い息を弾ませて久江ママの家に戻る。
「あら澪ちゃん? 家に帰らないの。どうしたの、そんなに慌てて」
玄関前に立つ私を、久江ママはびっくりしたような顔で見つめている。友達と別れた
ら、金沢家に帰るものだとばかり思っていたのだろう。
「ここも私の家だよ」
「――そうね」
優しい口調でママは頷く。
「ごめん。私、伝えていなかったことがあるの」
「なに?」
息を整えて、私は笑顔を作った。そうして、大きな声で言った。
「ただいま!」
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