今よりも色に溺れることの多かった時代
草薙流星
今よりも色に溺れることの多かった時代
今よりも色に溺れることの多かった時代、とても見事な歌を詠む大夫がいた。
歌集に名を残すほどの歌人であったのが、国司に任じられて地方へ行っているとき、道端から遠目で見たうら若い女に恋をした。
鮮やかな朽葉の単衣に水のような髪を垂らして、遠くをぼんやりと見ていた。あれほど立派な身なりのひとが、なぜ地方の家の中に閉じこもっているのか。
不思議に思い傍仕えの者に聞いたところ、彼女は都のとても身分が高い人の女官で、病気の療養のために暫くのあいだ故郷に帰ってきているという話だった。
大夫は夜、西の空へ浮かぶ月を見て筆を取りながら、こっそりと女官に向けた歌を作り、身分を隠すよう部下に命じて部屋へ届けさせた。
好意を寄せる相手に向けて書く歌だったので、普段みたいに易々とはいかなかった。
若い女官は朝になると寝所へ届いていた恋文を怪しく思ったけれど、封を解いて読んだところ、歌の出来栄えに驚かされてしまった。
そこで、拙いながらも考え尽くした返歌をその日の間に作り、寝所の同じ場所に置いておいた。
部下が夜にそれを持ち帰ると、大夫は封を解くより先に返事のあったことを喜んだ。
それから手紙を一通読んで送るたびに、惹かれる気持ちがどんどん強くなっていき、女官が体を病んで故郷に帰ってきていると知ってからは、昼夜を問わず想い人のことを気遣うようになった。
春が近づくにつれて病気の具合は好くなったので、お互いを大切に想いながら、他愛のない話のやり取りをした。
しかし気付けば除目の日が迫り、大夫が国司の座に就いていられる時間も、残り少なくなってきている。
どのように切り出せばいいのかと、思い悩みながら2.3通の手紙を送った。
女官も庭の花の季節から、別れが近いことをなんとなく気づいていたが、2人ともはっきりと紙の上に落とすことはないまま、更に日が過ぎていった。
ついに除目の前日となって、大夫はようやく決心して人を呼び、都へ報告するために病の様子が知りたいと言って、女官の家の者を出払わせた。
それから部下を使いに遣り、裏口から出ていくのを見届けてから、自分は「歌を詠みに行く」と言って人気のない場所に向かう。目的地の野原に着くと、すぐ御者に綱を解かせ、牛と共に姿を隠すよう命じて、籠の端に座り、あれこれ思案しながら待っていたところ、入れ替わるように別の牛が鼻を鳴らして歩いてきて、目の前に止まった。
大夫はやはりその牛の御者にも綱を解かせてから、ゆっくりと籠に近寄り、宝石の箱を開けるような気持ちで簾を捲ると、新雪かと見紛うほど美しい女性の姿があった。
暫く恍惚と見蕩れていたところ、好意が相手にも伝わった。さりとて慣れないことであるから、真面に受け止めるのも恥ずかしいらしく、扇子を取り出すのも忘れて俯いたまま2人向き合っていた。
大夫は相手の様子が想像した通りだったので嬉しくなり、籠の端に座り、横笛を取り出して吹き始めた。清らかに澄んだ音色が静かな野原に響いて、女官も嬉しくなった。
「都の歌を聴かせてください」と言うので、京の曲を吹いたところ、病気になる前の、若々しく、華やかだった日々が鮮明に思い出されて、知らず知らず涙が流れた。
吹き手がその涙に気づくと、ハッとしたように演奏を止め、穏やかに笑ってから、紙と硯を取り出し、「あなたの涙は玉のように美しい」というような意味の歌を詠んだ。
やはり見事な出来栄えだったが、歌にされた若い女官は赤くなった。
初めて会ったばかりの二人はすっかり親密になって、日が傾くまで同じ籠の中に並んで座ったり、寝そべったりしながら幸せな時間を過ごした。
だんだん空が暗くなり、遠くから御者が牛を連れて戻ってくるのが見えたとき、女官は大夫の着物の裾をひしと掴んで、「うばたまの 羽根だにともしき なきものは 煙となりて 飛ばまほしと」(カラスの黒い羽根さえ羨ましい。羽根のないものは、死んで焼かれて煙になるくらいしか都まで飛んでいく手立てはないのだから)と真剣な様子で口にした。大夫に自分を見初めて都まで連れて行って欲しいという意味であった。
張りつめた言葉であったけれども、大夫は落ち着き払った様子で、「ゆふさりに 鳴きし烏や
さぶしかる かたを思へば 空を飛べるに」(夕方に鳴くカラスが寂しいものでしょうか。帰る場所があるから空を飛ぶというのに)とあっさり答えて籠から出ていってしまう。
あなたはには自分で自分の居場所へと飛んでいく翼があるのですよ、という意味だったが、ともすれば、女官は自分を見捨てられたように感じた。
大夫と別れてしまってから、女官は以前よりも更に伏せりがちになり、食事も喉を通らず、ただただ自分だけ捨てられたという思いが夜毎に増して、痩せ衰えていった。都の主人の家から何通かの手紙が届いたと聞いたけれど、読む気力すら湧かず、内容を知ることもなかった。
いよいよ布団から起き上がることができなくなり、家のものが常に側にいて看病するようになったころに、見覚えのある結び方の手紙が届けられた。
女官は祈るような気持ちで封を解いてひらいてみると、たった一首「黒玉に 映りし夕陽 ほろり落ち
我が指先を 濡らしたりけり」(君の瞳に映った夕日が涙となってほろりと落ちて、歌を詠む私の指先を濡らしてしまった)とだけ書かれていた。
女官はひどく嘆き悲しみ、「指先にすぎないのでしょうか」と震える手で恨みを込めた歌を書き、
枕元に置いたけれど届けることもできず、悔し涙に泣き濡れているうちにとうとう死んでしまった。
それは、魂にも等しきものであったというのに。
今よりも色に溺れることの多かった時代 草薙流星 @kusanagiryuusei
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