無題

花葉優時

1章 過ち

 優しい子だった。誰に対しても笑顔で振舞い、決して人を悪く言わず見下さず、全ての人から愛され、彼女もまたすべての人を愛した。


 「希未ちゃんおはよー!」と複数の生徒が彼女の名前を呼び朝の挨拶をする。声を駆けられた少女もまた幸福に満ち足りたような、まるで天使のような微笑みで「おはよ!」と挨拶を返す。それから彼女の元に引き寄せられるようにして大勢の生徒が集まり、彼女と朝の会話を楽しんでいた。

彼女というのは安藤 希未という名前で、現在近所の小学校に通う4年生である。学校の成績もよく、父親は内科の開業医を営み、母親は元看護士で結婚後は専業主婦という裕福で幸せな家庭で育った。

彼女はいつも純白のフリルのついたブラウスを着ており、緩く巻いた茶髪を腰まで伸ばしている。その様子は誰が見ても童話に登場するお姫様のようで誰もが憧れていた。

 「おはよ。」彼女はまたその天使のような笑顔でこちらの顔を覗き込んだ。

驚いた。私のような教室の端で誰にも認知されないまま卒業式を迎えるような人間にまで目を向けていたのだ。

「あ、、、。おはよ。」とか細い声でこちらも応えると、彼女は満足そうに私の前の空席に腰掛け、そのまま会話を続ける。

「あなたの家、私の家の近所だよね?いつも私の前を歩いているのが見えていたの。もしよかったら今度から一緒に帰らない?」

「今日の宿題難しかったよねー。これはね、、、。」と一寸の隙もないまま彼女は会話を自然に成り立たせてしまうため、私は大変焦りながらもなんとか会話になる程度で過ごしていたのだが、彼女の取り巻きの視線が何よりも恐怖であったのを覚えている。

そうして私は彼女の取り巻きたちの視線に怯えつつも数月過ごすと、彼女と打ち解けられたようで、会話も以前よりは自然にできるようにまで成長した。

 もうすぐ夏休みが始まるため、彼女と夏休みにも会う計画を立てようという話になり、彼女が部屋から自由帳を持ってきてくれるというので、彼女の家の前で待つことにした。

それにしても開業医の親がいるだけのことはあり、豪華な家で閑静な住宅街には異様な雰囲気であった。

周辺ではそろそろ蝉が鳴き声を上げ始め、蝉の声が激しくなるほどに暑さを増していき、じわじわと背中が汗ばんできた頃、彼女の家の裏の方から何かがぶつかるような音がした。その音が妙に気になり、不躾であると理解しながらも確かめなければならない気になってしまい、彼女の家の庭に回り込みカーテンの開いているリビングにそろりと顔をのぞかせたあたりで、先ほどまで苛つかせるほど聞こえていた蝉の鳴き声が止まり、流れ続ける汗がひしと止まり涼しさまで感じられた。

そこには彼女の母親と思われる女性がおり、彼女は床に倒れていた。

その女性は彼女の長く柔らかい髪を強くつかみ、何か叫びながら彼女を再び床にたたきつける。彼女が床に倒れ、女性は彼女の頭を踏みつけしたところで彼女と目が合ってしまった。

私は先ほどまで何か動かなければ、あるいは助けるべきかと張り詰めたような空気が一瞬で解けるような感覚を今でも鮮明に覚えている。

彼女はこちらを見て、笑っていた。いつも私に向けるような何かを愛しているような幸せそうな笑顔を見せたのだ。

 しばらくして彼女をいたぶるのにも飽きたのか、女性がリビングの扉を思い切り閉める音でハッと我に返り、私はあわてて玄関先に走った。

彼女は何事もなかったかのように髪や服装を整えた状態で約束通りノートをもって出てきた。

「お待たせ―時間かかっちゃってごめんねー」彼女はいつもの調子で笑う。

「ううん、全然大丈夫...。それよりさ、さっきのってお母さん?ごめん、家に勝手に入るつもりじゃなかったんだけど、その...音が聞こえて、気になって...。」

「え!嘘、聞こえてた?あはは、そっか!ごめんごめん!気をつけなくちゃ!」そう言って彼女は笑う。そうではないのだ、私が彼女に言いたいことは音がどうこうの話ではないのだ。

「そうじゃなくて...あの人、女の人はお母さん?たたかれてたけど...怪我とか...大丈...」

「あー...やっぱ見てたよねー...っていうか目合ったしね!あはは」彼女は諦めるように乾いた声で笑い、ぽつりぽつりと話し始めた。

親の関係がうまくいっていないこと、父親からも母親からも成績の事や友達関係を管理されていること、暴力、暴言、それらを隠すために夏でも長袖を着ていること、この状態が小学校に入学した直後から始まったこと、家に時々父親ではない知らない男が入ってくること、母親はその日は寝室から出てこず、彼女はその日ご飯も食べずに眠るしかないこと、部屋に鍵をかけないと男が部屋に入った来ようとすること、月に一度担任の明美先生が家に来ていること、父親はその日だけが優しいこと、明美先生は家に来る時だけ彼女を冷たい目で見ること、両親はそれでも彼女に愛していると話すこと...。

「でもね、やっぱりパパとママは私が好きなんだって!私のために働いて私のために頑張ってるんだって!だからね、私もパパとママが大好きなの!」話している間、彼女はずっと幸せそうであった。だから私も笑った。彼女は両親を愛しているのだ。


 夏休みが始まり、私と希未は隣町にあるショッピングモールに遊びに来ていた。

希未と一緒にプリクラを撮ったり、ゲームセンターでクレーンゲームをしたりした。

また別の日には一緒にプールにも出かけた。いつも私とばかりいることが気がかりになり、思わず「いつも一緒の子たちとは遊んでないの?」と聞いてしまった。

すると彼女は「いーの!あの子たち人の悪口しか話さないから、パパやママはあのこと達と仲がいい方が良いって言うんだけど、内緒で遊ぶの断ってるんだよね、あはは!なんか君と要る方が気が楽でつい親に内緒で割ることしちゃうなー」と楽しそうに話す彼女を見て、天使のように思っていた彼女が初めて人に見えた。

その日、彼女の父親の迎えをバス停で待っている間、彼女は私に長袖の下にある傷を見せてくれた。深い傷やひっかき傷、打撲痕が目立ち、痛々しかったのを覚えている。

「これ痛いんだけどね、パパとママが私は優しいから許してくれるって思っちゃうんだって。やっぱり私はパパとママに必要なんだよ!これ見てると大丈夫って思えるんだよ。」彼女は笑顔で話した。

私は上手く笑うことが出来なかった。知ってしまったからだ、彼女の事を。

今度は彼女をまっすぐに見つめて話した。後悔のないように。失わないように。これからを一緒にできるように。

「君は両親からいじめられてる。一緒に逃げよう。もう笑うのやめよう。」言った。心臓が強く脈打って痛く感じる。彼女の瞳が私の言葉で一瞬にして光を失う。怖い、逃げたい、言わなきゃよかった。そもそも人様の家庭に口出しするなんて非常識だ。

今ならドッキリです!で済むかな...。なんてことを考えていると「本当に...一緒に逃げてくれる?」その言葉でハッと彼女の眼を見る。涙が流れていた。いつも笑っていた希未が涙を流して、私にすがるように見つめているのだ。

私はなぜか冷静さを取り戻し、「遠くに逃げよう。もうやめよう。」とも一度強く言った。

彼女は今度は大きな声で泣いた。

しばらくして彼女が落ち着いたころ、丁度バスが目の前で停車し、どこに向かうバスかも確認せずに彼女の手を引いて乗り込んだ。



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無題 花葉優時 @__soltar0843

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