芽を刈り取って
蒼澄
第1話 芽を刈り取って
「No9643 君は今日からここで働いてもらう。皆も分からないことがあれば教えてやってくれ。」
目の前にいるのは黒い服に身を包み、軍人のようにガタイの良い男性だった。
私は真っ白な作業着に身を包み、その場に立っている。
周りには私と同じような格好をした人達が並び、みんな笑顔で私のことを歓迎しているようだ。
「不束者ですが、よろしくお願いします。」
私はそう一言だけ残した。
職を失ってからどうしようか迷っていた私に、舞い込んできたこの仕事。内容はただ花を育てるという簡単な仕事だ。それで時給は5000円、ボーナスもでる。なんと破格な仕事だ。寝泊まりで長期間働く仕事らしいが、1日3食とお風呂まで入れると聞けば、こんなものを逃すわけが無い。生活に困っていた私はアパートのポストに入れられていた募集を見た瞬間に応募していた。
その応募の3日後だ、面接も何も無いまま採用のメールが届いた。
「採用おめでとうございます。○月○日に指定の場所までお越しください。」
あまりにもあっさりとしたメールに一瞬不安を感じた。けれど、私には後がない。もうこれ以上何もしないままではいられなかった。
私は指定された日時にそこへ向かった。
真っ黒なビルにスーツを着た男性が2人立っている。2人はこちらに気づくと、にこやかに笑い「○○様こちらです。」と案内され、建物の中のエレベーターで地下に向かった。エレベーターの階数表示はない。扉が空いた先には研究室のような白で統一された空間が広がっていた。
「○○さんですね。お待ちしておりました。こちらのカードがここで働く際の名前とルームキーになっております。本日研修等がありますので、カードに書かれた部屋番号に行って頂き、部屋の中にある作業着に着替えてください。」
受付の女性は笑顔で手を振ってくれた。
そして今の私に至ると言うわけだ。周りからは消毒液のような鼻を指す匂いがする。人工的な明かりが照らすこの空間は花を育てるには不向きだろう。
「よし、ではこのまま君にこれを授けよう。これはこの仕事をする上で非常に大切なものだ。自分の命と同じくらい大切に扱ってもらいたい。」
黒の服の教官かそう言って手渡したのはただの植木鉢だった。上から覗き込んでみるとふわっとした土が敷き詰められていて、真ん中が少し盛り上がっていた。
「この植木鉢に花を育ててもらうのが君の仕事だ。この植木鉢はここで働いている者全員が持っている。どのように花を育てるかはまた後ほど説明しよう。ひとまず、自室に戻り荷物を整理してきてくれ。従業員がまた呼びに行くまでゆっくりしているといい。」
教官はにっこりと笑い、私の手を握った。
「これからよろしく頼むよ。私のことは教官と呼んでくれ。」
握った手から相手の体温が伝わってくる。教官の手はその笑顔から想像できないくらい冷たかった。
部屋に戻ってきた私は、ひとまずベットに横になった。白い部屋の中には、やや硬いマットレスのベットと机、そしてテレビに簡易的なキッチン。大学生時代一人暮らししていた部屋を思い出す。
「なんだこれ。」
部屋の真ん中には筒状の機械が配置されていた。その機械の中央には丸い空洞があり、上から暖かい光がさしていた。
「これを入れるのか?」
先程もらった植木鉢をその空洞にいれると、その茶色の植木鉢はすっぽりとはまった。まさに「ここに入れて育てろ」と言わんばかりだった。不思議な機械だ、こんな小さな植木鉢にどんな花が咲くのだろう。まだ状況を飲み込めていない私は、ただ場の流れについていくしかなかった。
「9643様、研修の準備が整いましたのでお部屋の外までお願いします。」
その声とともに、インターフォンのような音が室内に響き渡る。
私は、白い作業着のようなものに着替え外に出た。扉の先には受付のお姉さんが待っていた。
「では、私についてきてください。」
数時間この空間で過ごすうちに気づいたことがある。ここの従業員はまるでロボットのようだ。表面上は笑顔でも、その裏には感情が一切感じられない。まるで、笑顔であることを強制させられているようだ。私は少し寒気を感じた。
「やぁ、先ほどあったばかりだね。9643君。部屋は気に入ってくれたかな。」
受付のお姉さんに案内されたのは、小さな教室だった。机と掛け時計だけが置かれた簡素な部屋だ。部屋に入ると教官が教卓で待っていた。
「はい、大学生のころを思い出しました。」
「そうか、そうかまぁみんな最初に来たときはそんな感じさ。今は慣れないこともあるだろうが、この仕事が終わるころにはここを出るのが寂しくなっているだろうよ。」
教官は微笑みを見せ、私に声をかけてくれた。
「さて、9643君。君は仕事の内容をどれほど理解しているかね。」
「花を育てる仕事とは聞いています。」
私はそう答えた。教官は、「ふむ」とうなずき説明を始める。
「その通りだ。9643君。君には先ほど植木鉢を渡したと思う。その植木鉢に毎日コップ1杯分の水をあげてほしい。そうすれば、植木鉢に芽がでて、蕾がつき、花を咲かせる。君にはその植木鉢に花をいっぱいにしてほしいのだ。」
教官の言葉に、私は驚きを隠せなかった。ただ水をあげているだけでお金が貰えるなんて願ったりかなったりだ。あまりにも簡単すぎる。
「しかしだ。9643君。」
教官の声色が急に低くなり、その視線は私の両目をはっきりと捉えた。まるで獲物を狙う猛獣のような目だ。
「絶対に忘れないでほしいことがある。それは、花の種類だ。」
「はっ…はい。」
つい教官の存在感に圧倒されて言葉に詰まる。
「この植木鉢には様々な色の花が咲く。しかし、咲いてはいけない花もあるのだ。それがこのリストに書いてある花だ。」
そういって、教官は教卓からA4の紙を一枚取り出した。
「処分リスト…」
そのように書かれた紙には、数字と英語で名前付けされた花が写真と共にリスト化されている。ざっと見た限り10種類くらいはあるだろう。花の見た目は正直言って綺麗とは言えなかった。全体的に寒色が多く、形と色が合っていないような「出来損ない」の花というのが私の印象だった。
「そこに書いてある花が咲いてきた時は、部屋にあるハサミで刈り取ってほしいのだ。刈り取った花は部屋にあるダストシュートに捨ててほしい。これはなるべく早い段階で行ってくれ。最初は花が咲くまでわからないかもしれないが、仕事に慣れてくればどれが咲いてはいけない花か分かるようになる。それまで頑張ってほしい。」
「わ…わかりました。」
「あ、それに…」
教官は私のほうに一歩近づいた。大きくそびえたつ門のような存在感が私を襲う。
「君に渡した植木鉢、あれは『壊さない』でくれよ。何があっても絶対に壊してはいけない。もし、壊してしまったその時には…。」
「その時には…。」
その場に訪れる沈黙、この空間だけ時間が止まっているような感覚が不安をあおる。
「まぁ、植木鉢の値段分は君の給料から引かせてもらうからね。」
そういって、教官はからかうように言った。本当にここにいる人間は何を考えているかわからない。しかし、仕事内容は私にでもできるようなことでほっとした。私はとりあえず部屋に戻って横になった。
「今日は初日だ。少しゆっくりしよう。」
そうつぶやくと、体の緊張がふっと解けた。自然と瞼が重くなる。私は眠気に体を預け、意識を手放したのだった。
次の日、目が覚めると、部屋の扉に付けられた配達物入れに手紙のようなものが入っているのに気が付いた。
手紙の内容は、予定表だった。基本的に仕事は自室で行うらしいが、3日に一度全体でのレクリエーションがあるらしい。どうやらそこで花の育ち具合を確認したり、情報共有をしたりするみたいだ。
今日は一日自室で好きにしてもよいと書いてあったため、私は植木鉢に水やりを済ませてこの施設を探索することにした。
「お風呂とか、娯楽室とかいろいろあるらしいからな。」
部屋の外にでて、受付があったほうに行くと来た時と同じ受付の人がそこにはいた。
「あら、9643さん。どうされましたか?」
「あの、この施設を見て回りたいんですけども、案内図とかありませんか?」
「あぁ、なるほどですね。わかりました。施設の全体図をお渡ししますね。」
そういって受付の人は、1枚の案内図をくれた。施設全体は病院のフロアくらいの大きさがあった。
私はその案内図を持ち、フロアを回り始めた。フロアの中を回っていくと、私はどんどん恐怖を覚えた。
それはなぜか。
この施設にいる人間は不気味なほど「笑顔」に包まれているからだ。
私がまず行ったのは食堂であった。食堂は学校の食堂のような空間で、バイキング形式になっていて和食、洋食をはじめとして中華やイタリアンなどの料理がびっしりと並んでいた。
味も格別だった。正直怖くなるくらいだった。これまでに食べてきたどんな食べ物よりもおいしかった。
食堂には私以外にもバイトの人がたくさんいた。ご老人、大学生、社会人、性別も年齢も全く違う。
私はその中で、年が近そうな人に声をかけた。
「すいません。新しくここで働かせてもらっている9643なのですが…。」
眼鏡をかけ、コーヒーとパンを食べていた彼は私の声に気づいて、こちらを向く。そして笑顔でこう言った。
「こんにちわ、僕は1013番さ。」
「1013番さん、はじめまして。少しお話いいですか?」
「君、このパン食べないか?すごくおいしいぞ。」
「そうなんですね~。また今度いただきますね。」
「そんなこと言わず、早く食べなさい。おいしいから。幸せな気分になれるぞ。」
その男性はそう言いながら顔にパンをグイグイと押し付けてくる。まるで、会話が成立しない。そのあとも、彼は一方的に言葉を投げつけてくるだけだった。
「あの人はなんなんだ。」
私は違和感を感じた。もしかしたらあの人がたまたまおかしい人だったのかもしれないと自分を納得させる。心の奥で何かがざわめき始めた気がした。
そのあともいろんな所へ行った。娯楽室には卓球台やゲームなどが置かれていて多くの人で賑わっていた。大きなテレビがある部屋や、体育館なども施設にはあり、豪華なホテルにいるような感覚だった。そう、見た目だけをみれば。
雰囲気は別だった。たくさんの従業員はほかの人と会話することはなく、ただ遊んでいるだけだった。笑顔を絶やすことなく、まるでロボットのように。「統制された感情と行動」というにふさわしい印象だった。
それに、自分が話しかけて、会話を続けようにも相手は自分の言葉を一方的にぶつけてくるだけだ。私は宇宙人とでも話しているのだろうか。ただ気が狂いそうだった。
私は一通り施設を回って部屋に戻った。部屋の扉をしめた瞬間、不思議と安心感に包まれる。こんなにも独りがいいと感じたのは久しぶりだ。家で一人でいる時は、あんなにも独りが嫌だったというのに。
「そういえば…。」
ふと朝に植木鉢に水やりをしたことを思い出して、植木鉢の様子を見た。
「えっ。もう、花が咲いている。」
一日で花が咲いたことなんて私は見たことがなかった。それに一輪だけではない、数本の花が植木鉢に咲いていた。それに花の見た目に見覚えがあった。
教官に渡された処分リストを手に取り、目の前の花と照らし合わせる。
「これか。」
目の前に咲いた花たちは、すべて処分リストにあった花たちだった。
「初日から全部処分なのか…水やりが良くなかったのか。」
教官から渡されたのは処分リストのみ、「花の育て方のマニュアルくらいくれてもいいのに。」と心の中で鬱憤を漏らしながら、私ははさみを取り出し花の茎を切った。
「硬いな…」
切ろうとはさみを茎にかけたがすんなりとは切れなかった。私は、手に力を込め思いっきり切った。
プツンと耳に残る音がして、茎が折れた。その後、ほかの花も同じ要領で切った。
「で、これは処分しないといけないんだな。」切った花を束ねてダストシュートに入れようとする。
部屋の端に付けられた金属の開閉式のごみ箱。奥を覗いてみたが、視界の先は真っ暗でゴォーと不気味な音が聞こえた。
肌に寒気を感じた私は、そのゴミ箱をさっと閉めた。
「初めて咲いた花だ。今日の終わりにでも処分したらいいか…」
花をすぐに捨ててしまうのに気が引けた私は、花を水の入ったコップにさした。
処分リストで見た時は綺麗とは思わなかったけれど、実際に見てみると悪くない。
スマホを見る。時計は午後5時を指していた。確か午後7時から夕食だったはず。私はスマホでさっきの花を調べようとした。けれど、無理だった。スマホの右上には圏外と表示されている。
「この施設は不気味だ。」素直にそう感じた。まるで監獄だ。この施設は外界と完全にシャットアウトされている。不安が私を襲い始める。
「帰りたい。」心の中で抑えていた感情が湧き上がる。明らかに怪しい仕事なのはわかっていた。けれど私は金に目がくらんだのだ。自業自得言われても仕方ない。もう私は引き下がれない。
「寝よう。」もしかしたら、慣れない環境に不安を感じているだけかもしれない。明日受付の人に圏外のことを聞いてみたらいいのだ。「大丈夫だ、何とかなる。」私はそう自分に言い聞かせた。
その後、食事が届いた。私はその食事に口をつけなかった。すべてが不気味に見えてしかたない。私はベットの中に潜り込んだ。暗い空間の中でずっとずっと時間が経つのを待った。
でも、待っても待っても頭の中で大きくなった不安の塊は私を眠らせてはくれない。むしろ、不安は大きくなって発狂しそうなくらいだ。
寝れなかった私は、部屋の中にあった紙にこれまでの出来事を書いていった。「もし帰れたなら…」そんなことを考えながら、私はただひたすらに書き続けたのだ。
そのあとのことは覚えていない。ただ、途中で誰かが部屋の扉を開けた…そんな気がした。
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目が覚めると、机の上に突っ伏していた。目の前には書きなぐりの文章が並んでいる。
私は体を起こした。
「今日も水やり水やり。」
ひとまず水やりを済ませ、私はベットの上に座った。
「そういえば、テーブルの上に置いていた花、処分したんだっけ?」
テーブルの上に置いてあったはずの処分リストの花はなくなっていた。結局、私は処分したのだろうか?昨日のことをあまりはっきりと思い出せなかった。
「あっそういえば、昨日なにか書いたな。」もしかしたら、昨日のこと思い出せるかもしれない。そんなことを思った私は、書きなぐりの文章に目を通した。
その文章をみた私はただ驚いた。
ここは不気味だ。恐ろしい。帰りたい。無理だ。怖い。そのような言葉が文章の中に散らばっていた。
「なんだこれ?」私は疑問に思った。筆跡は確かに私のものだが、不気味?恐ろしい?そのような感情に身に覚えにない。
それに今日はとっても気分がよかった。霧がかかっていた視界が晴れるように、私の頭も「すっきり」としていた。
私は、その書きなぐりの文章を丸めてゴミ箱に捨てた。
それからというもの、私の生活は充実したものになった。
毎日花に水やりをするだけで、それ以外は何をしていても怒られない。おいしい食事を食べ、運動をし、懐かしい映画を見て心を躍らせる。
こんなにも気分がいいのは久しぶりだった。そんな気持ちに呼応するかのように、最近植木鉢にはきれいな花がたくさん咲いていた。そしてそれは処分リストに載っていない花だ。
「こんなに楽なことがあっていいのか。」
この仕事を始めてから、大体1か月くらい経ったのだろうか。ここにはカレンダーがないため日付感覚は狂ってしまっている。
そういえば私は仕事をこなしていくごとに、処分リストの花を芽の段階から見分けれるようになっていた。初日はたくさん処分リストの花が咲いていた記憶があるが、今では3日に1度咲くくらいで、日に日に数は減ってきている。それに、処分リストの花の芽を見ると、心の内からぞっとするような感覚に襲われるのだ。だから私はその芽を刈り取る。芽を刈り取ると、ぞっとした感覚はどこかへ消えていく。
「これでお金が入ってくるなら無限に仕事ができそうだ。」
私はそんなことを呟いた。けれど、そんな楽しい日々は唐突に終わりを告げたのだった。
ある日、新しい従業員が入ってくるため全員が集合する日があった。そんな日が1週間に数回あった。毎回、顔がやつれた社会人が4~5人入ってきて、皆植木鉢をもらっていた。しかし、今回は少し違った。4~5人の中に、1人の少年がいたのだ。
鍔がついた帽子を深くかぶり、口を堅く閉ざして表情をあまり変えない、それが私の第一印象であった。
「115番、君も今日からここで働く仲間の1人だ。君はほかの人より若いから部屋は相部屋でいいかな。」教官は少年に尋ねた。少年は下を向きながら軽くうなずく。
「9643番君、君は確かもともと教師だったかな?君の部屋にこの少年を相部屋させたいのだが。いけるかね。」私は教官からの急なお願いに驚いた。確かに私は昔教員だった。ある事件が起こるまでは…。
「いいですけど…。1人のほうが気が楽なんですが。」
最近、人とのかかわりが無かったせいか他の人が同じ空間にいることが嫌だと感じ始めていた。
「まぁ、そうかもしれないが、最近君の仕事ぶりは優秀だからこの子にも教えてほしいのだよ。」
「そうなんですか。まぁそういわれてしまったら仕方ないですね。」久しぶりに人に褒められるのは気分が良い。気分が良かった私はつい教官の頼み事を受けてしまった。
「ありがとう。君の部屋にもう1つ寝具を届けさせるよ。」
「では皆、解散だ。仕事に励んでくれ。」
従業員はぞろぞろと列を作って自分の部屋に戻っていく。一切しゃべり声は聞こえない。聞こえるのは床を靴が踏む音だけだった。
誰もいなくなったホールに私と少年が残された。少年はこちらの顔をみると、ゆっくりと近づいてきて「これからよろしくお願いします。」と声をかけてきた。めんどくさいと思っていた私は「よろしく」とだけ言葉をかけ、自分の部屋に戻った。少年は私の後ろを恐る恐るついてきているようだった。
それから少年との共同生活が始まったのであった。
初めは、お互いに何も話さなかった。少年はたまに私のほうをみて何かを話そうとしていたように見えたが、私は自分の楽しい時間を邪魔されたくなかった。だから少年もしだいに何も話そうとしなくなった。同じ空間にいるのに、お互いがお互いをいないものとして扱っていた。
少年が入って数日がたった。少年の植木鉢を見ると、処分リストの花で埋め尽くされていた。その花を見た時、私は「処分しなければ」という強い思いに駆られた。
はさみを持ち、少年の花を切ろうとしたその時だった。
「やめてください。」少年の小さな腕が私の手を遮った。
「これは処分リストの花だぞ、処分リストの花は捨てる。これが私たちの仕事だ。」
ついかっとなってしまった私は、勢いよく少年の手を振りほどいた。
少年は、あまりの勢いに床に倒れた。
少年はうずくまっている。私はふっと我に返り、感情的に振り回された行動をしてしまったことを後悔した。
「すまない。つい、手を出してしまった。」
少年のそばに立ち寄り、少年の体を起こす。
「いえ、大丈夫です。ここではそれが当たり前ですから。」
「ここでは」と妙に強調された少年の言葉に私は違和感を感じた。
「君は、なぜその花を捨てたくないんだ?」自然と口から言葉が出た。私はその少年になにか特別なものを感じていたのかもしれない。
少年は私の言葉に少し目を見開いて、口をぽかんと開けた。そして少し黙り込んだ後、「今日の食事後、僕の後についてきてもらえますか?」とだけ言葉を残し、部屋の外へ行ってしまった。
私は、時間が過ぎるのをただベットの上で感じていた。
この1か月ほどを振り返ってみると、「楽しい、嬉しい」という感情だけが思い返され、具体的な出来事はぼんやりとしか思い出せなかった。
「私はなにかを忘れている気がする」
頭の中ではその問いが繰り返された。
食事の間もずっと考え事をしていた。
正直ご飯の味はまったく感じられなかった。ただ物を体に入れているような気分で、おいしさはどうでもよくなっていた。
ご飯を食べ終え、部屋に戻ると少年が待っていた。
ここの仕事場の少ないルールとして、1日で3回目のご飯のあとは各自の部屋で過ごさなければならない。部屋に取り付けられたスピーカーから音楽がながれ、教官の挨拶が入る。それが終わった瞬間から部屋からでてはならないのだ。
今日も終わりを知らせる放送が入る。今日の放送はやけに長く感じた。
放送が終わると、少年は臆することなく扉の向こうへと歩きはじめた。
「どこにいくかだけでも教えてくれないか?」
そう言っても、少年は歩みを止めなかった。
私は、一瞬部屋に留まるか迷った。してはいけないことをしようとしている罪悪感と、少年がもつ不思議な魅力がせめぎ合っていた。
しかし、私は少年についていくことにした。少年が隠している何かが、私にとって大切なものだと感じたのだ。
少年は暗い廊下を落ち着いた足取りで進んでいく。廊下は非常灯の緑の光と火災報知器の赤い光だけがはっきりと見えていつもとは違う雰囲気をかもしだしていた。
少し歩いた後ついた場所は、初めに教官と話したあの教室だった。
「ここに何かあるのか?」その問いかけに少年は「見ていてください」とだけ返す。
少年は教官の教卓を音を立てないようにずらした。そしてその下引かれたマットをめくる。
「こんなところに…」
マットの下に表れたのは、金属でできた扉だった。ゆっくりとその扉を開けると地下に繋がる梯子が見える。
この下には何か待ち受けているのか、それだけが私の思考を支配していた。梯子の下は先が見えないくらい真っ暗で足を踏み外してしまったらどうなるかわからない。
少年はその梯子の奥へ消えていく。暗い闇の中へ吸い込まれていく。
私は少年の後に続いて梯子を下りていく。
靴が金属の梯子を踏みしめる。金属が響く音は下まで伸びていった。
梯子を下りた先は、薄暗い廊下の端だった。
「ここはどこなんだ?」その言葉に少年は私のほうを振り返る。
「ここは教官しか入れない特別な場所です。」
まるですべてを知っているかのように、さらっと少年は言葉を返した。
「君はここに何をしに来たんだ。」
「それはこの後わかります。」
暗い通路の先に、ぼんやりと薄明かりが見える。長く続くその通路の先には、得体のしれないなにかがあることは間違いない。奥へと歩いていくごとに、心の底のざわめきは大きくなっているような気がした。
「この扉の先が僕の行きたかったところです。」
暗い廊下の行きついた先は、金属でできたいかにも厳重そうな扉だった。
「こんな扉どうやって開けるんだ。」
私は、扉のレバーを何回かひねったが、扉はびくともしない。
「大丈夫ですから、静かに」
そう言って少年は、扉の横の暗証番号を入力するキーパットを慣れた手つきで操作した。
電子音が鳴り、ドアのロックが解除される。
「君はいったい、この仕事の何を知っているんだ。」
少年とは思えない、落ち着きと行動に私は驚きを隠せなかった。
少年は無言のまま、扉の先へ歩いていく。私は恐る恐るその扉の先へと向かう。
部屋に入ると天井から無数のダクトが下へ伸びていた。
そしてそのダクトは、1つの容器に集められている。
少年はその容器の前に立ち、蓋を開ける。
私はその容器の中身をのぞきこんだ。
「うっ」
容器を覗き込んだ瞬間、私は吐いた。
そしてこれまでに感じたことのない寒気が体を覆い、足が震え、視界がぼやけた。
私は立つこともできなかった。ただその場に埋め尽くした。
なぜなら、そこには大量の「処分リストの花」があったからだ。
赤、紫、青、様々な色が交じり合ったその花たちは、まるで画用紙一面をクレヨンでぐちゃぐちゃに書きなぐったような見た目をしていた。私は、頭を押さえながら必死に立ち上がろうとする。しかし、足が生まれたての小鹿のようにうまく動かせない。
怖い。
「これは、誰の記憶だ…。」
声もうまく出せないような状況で、私は肺の奥からその言葉をひねり出した。
嫌だ。
「これは私?」
やめて。
「私は…」
死にたい。
「なぜ、ここにいる?」
痛い。
「こんな〝恐ろしい″ところに」
憎い。
「なぜ、忘れていた?」
外に戻りたい。
「ここはすべてがおかしい。」
フラッシュバックのように、私は「忘れていた何か」を思い出した。この仕事に来て初めての記憶。そう、私が捨ててしまった日記に書かれていたあの感情が示していた私の不安と恐怖を思い出したのだ。
それに加えて、ほかの従業員たちの感情も流れてきたのだ。
この施設に来た時にみんなが感じていた。「この施設は、不気味なほどに幸せにあふれている」と。まるで、自分以外がロボットであるかのような感覚。まわりの人はどんな状況、どんなときでも笑顔だった。そして笑顔の奥にはその人の感情が一切感じられなかった。ただ幸せという感情を植え付けられたように、幸せしかない世界がそこにはあったのだ。
「大丈夫ですか?前島先生。」
少年はそう言って手を前に差し出した。
なんとか、私は呼吸を整え、体の震えを両手で抑えながらゆっくりその場に立ち上がった。
「どうして、私の名前を知っている。」
「先生は、僕を忘れてしまったんですか?」
そう言って、少年は帽子を脱いだ。
「君は・・・どうしてこんなところにいるんだ。」
「お久しぶりです。前島先生。」
彼は、神崎幸翔。私が教員であったときの教え子であった・・・・
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私が教員だったころ、それはほんとに「幸せ」そのものだった。
私は、大学を卒業した後、すぐに教員になり、必死に働いた。
自分で言うことではないが、私は児童たちに慕われていた。クラスの中では笑顔が溢れ、児童たちは生き生きとしていた。私は、そんなクラスのなかの中心に立てていることが幸せだった。児童たちの笑顔を見るたび、私は生きていることを実感した。
私は、一日一日が楽しみで仕方なかった。こんな日が続けばよいと心から思っていた。
しかし、ある出来事がクラスに変化をもたらした。
ある日、私のクラスに転校生がやってきたのだ。その転校生が神崎幸翔だった。
彼の最初のイメージは大人しく、しっかりしていて、周りにやさしい子だった。そしてどこか大人びた雰囲気を感じさせるような子であった。
転校生はめずらしいのでクラスに馴染めるかどうか不安であったが、そんな不安は数日のうちに感じることがなくなった。
クラスは彼のやさしい一面を知り、すぐに仲良くなった。彼が初めて来たときの大人しそうな表情にも笑顔を見ることが増えた。
私はそっと胸をなでおろした。転校生の彼、神崎くんはクラスから疎外されることはなく、むしろクラスの中心人物へとなっていったのだ。
その後、クラスはすっかり神崎君を中心に回るようになった。神崎君がクラスをうまくまとめるようになり、クラスの雰囲気はより明るくなっていた。
そんな時だ。クラスの中である事件が起こった。
隣のクラスのある女子が着替えをしている際に盗撮されたというのだ。その噂はたちまち広がり、調査が行われた。その結果、更衣室から小型のカメラが発見された。
もちろん、誰が盗撮をしたのかの議論が繰り広げられた。
だが、犯人はなかなか見つからず議論は途中で行き場を失ってしまった。
そんな中、私は校長先生に呼び出された。
私は校長先生に呼び出される覚えがなかった。
おそるおそる校長室に入ると、校長先生が真っ直ぐこちらを見ていた。まるで厄介者を見るような目で。
校長室に緊張感が走った。
私はぐっと唾を飲み込んだ。
「前島先生、あなたが盗撮の機械を設置しているところを見たと進言したものがいましてね。あれだけ良い先生だったのに、そんな一面があるとは・・残念ですがあなたには仕事をやめてもらうしかありません。」
校長先生の言葉を私は理解できなかった。
「どういうことですか、私はそんなことしていません。誰がそんなことを言ったのですか?」頭の中がぐるぐるとして思考がまとまらない。でも、言えることはただ一つだ。「私は何もやっていない。」ということだ。
「誰が告発したのかは言えません。それが本人の希望なので。ただ、あなたが犯人である決定的な証拠はここにあります。」そういって校長は資料のようなものを差し出した。
「指紋鑑定結果?」
「そうだ、発見された小型のカメラを警察に届け、君には内緒で検査してもらったのだよ。その結果、君の指紋が確認されたのだ。」
「こんなカメラ私は知りません。何かの間違いです。」
「前島先生。私たちとしても事を大きくしたくはないのだ。盗撮された女子児童の保護者はこの事件を公に出したくないと言っている。それに君は児童からも信頼が厚い。だから、女子児童の保護者に謝罪にいって、辞職してくれないか?君の児童には真実は伝えないでおくから。」
「・・・」
私は言葉を失った。私は誰かに嵌められたのだろうか?それとも私が本当にやったのだろうか?何が真実なんだ?これは夢なのかもしれない。悪い夢だ。私はそう感じながらも「はい」としか答えることができなかった。
私はそのまま校長室を後にした。そしてクラスに戻ることなく、盗撮された女子児童の保護者へ謝罪しに行った。そこに感情はなかった。
保護者の対応はとても簡素だった。まるでご近所さんと話すかのように、さらっと謝罪を受け入れられて、それで終わった。
その後、家に戻った。
いつも軽く感じる家の扉は、やけに重く感じた。
ベットに体を預け、目を閉じた。
目を閉じると、クラスのみんなの暖かい笑顔が脳裏をよぎる。
「なぜ。私はこんな仕打ちを受けなければならないのだ。」
あの時、私の幸せは完全に奪われてしまった。
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「君はなぜこんなところにいるんだ。」
「なぜ?ですか。それは、先生を助けるためですよ。」
彼は自信ありげにそう答えた。いつの間にか帽子が脱げ、顔がはっきり見える。彼の顔は、笑顔だった。
「私を助けてくれるのか?」
私はここに彼がいることを疑問に思いながらも、恐る恐る尋ねる。
「もちろんです。先生をここから助けるために来たんですから。」
「そ、そうなのか?私と君とはあまりかかわりがなかったような気がするし、それに私はもう教員をやめてしまったのだ。なぜ君は私を助けようとする?」
私は段々と目の前の彼が私の知る彼とは異なるような気がしてきた。この施設のせいで何も信用できなくなっているのかもしれない。
「それに君はこの施設のことをよく知っている。いや、知りすぎている。君はまだ小学生だ。なぜ君がここまで施設のことを知っているんだ。」
私は彼の顔をじっと見つめた。目の前に立っているのは紛れもない神崎幸翔だ。しかし、彼の表情には笑顔に反した感情があるように見えた。
「まったく、今の先生なら騙されてくれると思っていたのに…」
彼の表情が一瞬にして変わった。彼の顔からは笑みは消え、私を鋭い目つきで睨みつけた。
「先生は素直に僕のことを信じていたらこのまま幸せだったのに、まったく残念です。はぁ…やっぱり少し急ぎすぎたかな。せっかく先生をこの施設に招待したのに…」
「君が私をこの施設に招待したって、どういうことだ。」
「先生って勘はいいのに、肝心なこと何もわかってないんですね。この物語はすべて仕組まれていたものだったんですよ。せっかくですから答え合わせとしましょうか。」彼は笑みを浮かべた。私はグッと息を飲む。私が少年に感じていた何か、それが明らかになる。真実という名の恐怖が私の背後からじりじりと距離を詰めてきているようであった。
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僕は裕福な家庭の一人息子だった。
父は世界的にも有名な医者で多くの人の命を救っていた。
母は大企業を取りまとめる経営者だった。
そんな凄い両親の間に生まれた僕は、生まれた時からずっと期待されて生きてきた。
「お前はたくさんの人を幸せにするんだぞ」
「あなたはやりたいことに向かって翔けていけばいいのよ。」
父と母はそんなことをよく僕に呟いた。だから僕の名前は幸翔(ゆきと)なんだろう。
僕はそんな父と母の思いにそってすくすく成長した。
小さいころから英才教育を受け、小学生になるころにはもう中学生のことができた。
スポーツもたくさんやった。サッカー、野球、テニス…数えだしたらきりがない。
ピアノなどの音楽関係、絵をかいたりする芸術関係。たくさんの賞をもらえるくらいには努力した。
世間では少し有名になるくらいだった。「天才少年」という肩書でよく僕は新聞などに取り上げられた。
正直「天才」だとかそんなことはどうでもよかった。一番うれしかったのは「これができた」「こんな賞をとった」と言うたびに両親が喜んでくれたことだ。僕の存在が誰かの喜びになっている、誰かを幸せにしている。その実感が僕はとても嬉しかった。
小学校に入ってからは、周りの人をどのようにしたら幸せにできるのか考え続けた。
誰かの幸せの一部でいれることが僕の幸せだった。
そんな僕は小学校で過ごすうちにクラスメイトからは慕われ、先生からも頼りにされた。
成績は当たり前のように学年1位であった。
そんなある日だ。僕はたまたま父の部屋である資料が落ちているのを見つけた。
「人間から負の感情を切り離す方法~感情の花原理の活用~」
それは父が研究していた内容がまとめられた資料だった。
父は最近増えてきた心の病と呼ばれる病気に対しての対応策として様々な研究を積み重ねた。その中で生み出したのが、人の感情を花にする方法だ。
特殊な植木鉢に感情を花にしたい患者の一部をいれることで、感情という実体のないものに花という実体を与えることができる。患者の一部はなんでもよい、髪でも、爪でも体の一部なら何でもよかった。
この方法は画期的だった。なぜなら感情に直接治療を施せるからだ。感情は多種多様だ。だから花もたくさんの種類の花が咲く。ただ傾向として幸せな感情を伴った花は暖色で温かみのある花に、憎しみや不安などの負の感情を持った花は寒色で見たものに違和感や不快を感じさせる花になることが明らかになった。
そして、植木鉢から切り離された花に対応する感情はその人からきれいさっぱりなくなってしまう。この特性を利用することで、負の感情を刈り取り、幸せな感情だけを残すことができるらしい。
「父さんはこんなことまでできるのか…」
僕は正直その資料を見ても、凄いとしか思わなかった。「そんなこともできるんだ。」という興味だけが頭の中で広がっていた。
けれど、この研究に対する興味はある時、別の方向へと変化した。
「幸翔、今度父さんの研究の都合で引っ越すことになる。この1学期が終われば転校になると思う…。幸翔には申し訳ないが、いいだろうか?」
父さんはある日、家族での晩御飯でそんな話をした。
僕は今の生活に慣れていたから、引っ越すということが少し嫌だった。でも、ここでわがままを言って両親を困らせるわけにはいかない。僕は自分の感情を押し殺し、引っ越しを受け入れた。
引っ越しをしてから、両親はこれまでより忙しくなった。
「父さん、今日は転校先での初めてのテストでね。満点取った!!」
「ほう、そうか。偉いな。」
「でね、今度は…」
「幸翔すまない、ちょっと今から会議があるんだ。また聞かせてくれ。」
「うん…わかった。」
父さんは僕の話をあまり聞いてくれなくなった。
「母さん!ピアノのコンクールで1位を取ったよ。」
「そう。凄いわね。」
「母さんもピアノうまいもんね。ねぇ、前みたいにまた教えてよ。」
「幸翔、もうあなたも中学生なんだからお友達と遊んだら?私たちも暇じゃないのよ。」
母さんは僕の話を鬱陶しそうな顔で見つめた。
何も僕は変わっていないのに、僕は父さんと母さんの笑う顔が見たいだけなのに…
「父さん、今度遊びに行こうよ。」
「あぁ、また今度時間がある時な。」
何で‥
「母さん、今日は母さんのためにご飯作ってあげる!」
「ごめんね、今日は会社の友達とご飯食べたの…幸翔もこれで何か食べてきなさい。」
僕のことを見て、僕のことを置いていかないで!!!
「幸翔?大丈夫?顔色悪いよ。」
「そうだぞ、幸翔ちゃんと寝てるのか?」
「ねぇ男子、あんたたちが幸翔にちょっかいかけるから疲れてるんでしょ。」
「そんなことねぇよ。俺たちは、幸翔のこと心配してるだけだよ。」
「ほんとに~?幸翔なんかあったら私たちにすぐに言ってね。」
引っ越してから僕は自分の存在価値がわからなくなっていた。両親は僕の前でまったく笑わなくなった。でも、僕がなんとか頑張れていたのは、転校した先のクラスメイトだった。
「みんな、ありがとう。みんなも困ってることがあったら僕に言ってよ。」
「おう、当たり前だぜ。いっつも助けてもらってるからな~」
「私たちもよ。幸翔が来てから学校がもっと楽しくなったもんね。」
周りのみんなの笑顔が僕の心を支えてくれていた。僕はやっぱり誰かの幸せの一部にいるべきなのだと確信した。
「お~い、お前ら授業だぞ~。そろそろ座れよ~。」
ただ僕はひとつだけ気に食わないことがあった。
「は~い!」
「男子、前島先生困らしたらダメでしょ!」
「わかってるって、でも先生は優しいからそんなことでは怒りませ~ん」
「もう、男子はいつもそうなんだから」
「まぁまぁ、みんな授業は始まってるから静かにね」
転校してきた学校の担任、それが前島先生だ。
僕は先生が気に食わなかった。
なぜなら、先生を中心にこのクラスが存在していたからだ。
前島先生は誰に対しても隔たりなく接し、話もクラスメイトと同じ目線で話してくれる。ただ優しいだけでもなく、ちゃんとダメなことは叱る。まさに教師と呼ぶにふさわしい先生だ。だから、僕の周りの子たちも先生が来たら、僕なんかそっちのけで先生と話に行く。みんなの口からは先生の名前ばかりが飛び交う。
僕は先生の存在が妬ましかった。
幸せそのものといった風な顔が、僕の心をえぐる。
「僕がみんなを幸せにする。それが僕の幸せなんだっ。父さんも、母さんも、僕を見てくれない。みんなも先生じゃなくて僕を見てくれよ。」
心の中でずっと叫んだ。
そんな時、父の「感情の花原理」の資料を思い出した。僕の頭の中で、何かドロドロとしたものが生まれた瞬間だった。
「そして僕は父さんの会社からその研究を盗んだ。もともと僕は父さんの会社でも名前は知られていたし、父さんの仕事が見たいと言えば、会社の人は何の疑いもなく見せてくれた。」
「もしかして、君はその研究を使って…」
その原理を使えば、人の感情を自分の思い通りにコントロールすることができる…。
彼は勝ち誇ったような目で私を見つめた。
「そうですよ先生。僕はこの花を使って、父さんと母さんを幸せにしたんだ。負の感情なんて父さんと母さんにはいらない!僕のことだけ見ていたら、幸せなんだっ!」
「君…どうしてそんなことを…」
「どうして?それは僕はみんなを幸せにしないといけないからですよ。この花があれば、父さんを、母さんを、クラスメイトも幸せにできる。それに、社会のどんなに不幸な人だって僕が幸せにできるんだっ!実際にここにいる人はみんな僕が幸せにしたと言ってもおかしくない。みんな僕のおかげで笑顔を取り戻したんだっ!」
「それは…」
「先生だって、僕が幸せにしてあげられる。もうあんな事件なんてパッと忘れられる。先生だってあの事件のこと忘れていないはず。僕がいれば、僕を頼ってくれれば先生の悩み、辛さ、悲しみなんて消してあげられる。僕がいれば…僕が幸せの中心であればみんな幸せになれるんだっ!」
「幸翔くん。君が私をここに連れてきたんだね。」
「そうだよ。僕が盗撮事件の犯人とされてしまったかわいそうな先生を助けてあげるために、ここのチラシを先生のもとへ届けたんだ。」
「そうか、やはり君が私のアパートに来たんだな。」
「それが何だっていうの?」
「いや、おかしいなと思ったんだ。だって私が仕事を辞めた理由があの事件だとは世間には公開されていないんだから。なぜ、君がそのことを知っている?」
私は理解した。彼、神崎幸翔があの事件にかかわっていることを。
「それは…。」
彼の自信に満ちたまなざしが一瞬で戸惑いに変わる。彼の目が私の眼差しを避けようとしたのがはっきり分かった。
「君が私に盗撮の罪を擦り付けたんじゃないのか?そして、心が病んだ私をここに連れてきたんだろう。」
沈黙が部屋に流れる。一定間隔で光る赤い非常灯だけが時間のながれを感じさせた。
「そうだ!僕があの事件を計画したんだ。先生が僕にとって邪魔だったから!僕の幸せを盗んでいくから!」
彼の心はずっと不安だったんだろう。自分の信じていた両親が自分を見てくれない。自分の存在価値がわからなくなる。そんな思いが彼の心を蝕み、どうにかして自分の存在価値を見つけようとした。その結果がこれなんだろう。
彼はまさしく「天才」にふさわしい子だ。自分の実力を驕ることもなく、ほかの人のために役立てようとする。そんな彼を両親は変えてしまったのだ。私はこんな状況でそんなことを考えている、やけに私は冷静だった。
ずっと我慢してきたのだろう。自分が「みんなを幸せにするために」。自分のわがままをずっと心の奥に抑え込んで、ほかの人のためにずっとずっと頑張ってきた。でも、その裏で彼の心には負の感情が着実に蓄積されていた。
そしてその蓄積が解き放たれた今、彼はこのようなことをしてしまったのだろう。
私はただ彼がかわいそうに感じた。彼の努力を認めてあげたい。と素直に感じたのだ。
「幸翔くん、君のやっていることは間違っている。こんなやり方で本当の幸せは得られない。君もわかっているはずだろう。刈り取られて統制された偽りの感情なんて意味がない。虚しくなるだけだ。」
「うるさいっ、先生は何も分かってない。僕は他人を幸せにできる、いやできないといけないんだっ。それが僕の生きる意味だから、それがたとえ偽りでも、僕はやるしかないっ」
「幸翔くん...」
私は彼の両親にただならない怒りが込み上げていた。小さな彼にとって、親の言葉は最も信頼できる言葉であり、逆に言えば彼を縛る言葉である。彼の両親は他人の「幸せ」という言葉に縛り、彼自身の「幸せ」をまったく考えていない。
「君の言いたいことはわかった。でも君自身は幸せなのかい?」私は彼の目をじっと見つめ、返答を待つ。彼はその言葉に、意表をつかれたのかきゅっと唇を噛み締める。
「君の他人を幸せにしたいという気持ちは素晴らしい、そんなことなかなかその年齢では言えないよ。君は相当悩み、考えてきた。でも、君は幸せじゃない。幸せどころか、君はずっと自分に槍を突き立て、傷つけている。」
「...」
「現に君の植木鉢は処分リストの花でいっぱいだった。でも君はそれを刈り取ろうとはしなかった。それは、君が苦しみや悲しみを忘れないためじゃないのかい?君の大事な大事な思いを忘れないためだろう?」
悲しみや苦しみは彼にとっての原動力だ。悲しみや苦しみに沈み、ただ人生を悲観するわけではなく、彼はその悲しみと苦しみを払拭しようと行動し、努力している。
その悲しさが苦しさが彼を奮い立たせている。いつか自分の思いが伝えたい人に伝わるように。
彼の表情が少し緩む。築き上げられた土砂の壁がボロボロと崩れ去るように、彼の強張った頬が徐々に崩れ、そして一筋の涙が零れ落ちた。
「じゃあ、どうしたらいいっていうんだっ!!教えてよ。誰でもいい、僕を‥‥僕を助けて。」
私の言葉が彼の心に届いた瞬間だった。彼は涙を止めることなく、その場に塞ぎ込んだ。
「もう一度やり直せばいい。君はまだ子供だ。子どもは失敗をして成長する。その失敗の責任をとるのが私たち大人だよ。」
私は彼の前に手を伸ばした、彼は顔を上げ、泣きながら言う。
「僕は先生の幸せを奪った。僕は人の人生を狂わせた。それでも先生は僕を助けようっていうの?」
「その事実は変わらないよ。もちろんやったことの責任はいつか取るべき時が来る。でも、それは君を見捨てる理由にはならない。私はあくまで教育者だからね。君のような子をほっとけないんだ。」
彼の眼差しが私の顔をじっと捉えた。そして何かを決断したような顔で、私の手を取った。
「先生、もうこんなこと辞めます。僕はもっと違う方法で幸せを作りたい。」
「そんなこと、ダメじゃないか幸翔。」
私たちが通ってきた暗闇のなかから、声が聞こえる。
「誰だ。」
硬い靴が地を踏みしめ、コツコツと音を鳴らす。
「この施設は私のものだ、お前のものじゃない、幸翔。」
声がだんだんと近くなる。暗い闇の中から人影が近づいてくるのがわかる。
「教官」
黒い服に身を包み、のっそりとそびえ立つあの教官がそこに立っていた。
「ちがう、その声は父さんだ。」
幸翔くんが声を上げる。教官の顔がにんまりと笑みを帯びるのがわかった。
教官は後ろから植木鉢を取り出し、こちらに突き出して見せた。植木鉢には処分リストの花がたくさん咲いている。そう、幸翔くんの植木鉢である。
「こんなに処分リストの花を残したままにして、ダメじゃないか」教官はそう言ってにんまりと笑った。不敵に笑うその態度に私は寒気が走る。
教官は服のポケットからはさみを取り出し、処分リストの花の茎にその刃を突きつけた。
「父さん、やめて」
幸翔くんは声を荒げる。
「なぜ、私を止めるんだい?幸翔、幸せはいいことだ。悲しみも憎しみも感じない、不自由のない暮らし。この世の中の皆がそうなれば、争いも差別も、自殺だって無くすことが出来る。」
「それは...」
幸翔くんは、言葉に詰まった。
確かに彼の言うことは正しいかもしれない。辛さ、悲しさ、憎しみ、不満、そんな負の感情が存在しない世界は生きやすいかもしれない。でも、そんな負の感情があるからこそ、人は成長できる。
だから負の感情を刈り取るのではなく、負の感情と向き合うことが大切なのだ。
「それは違います。」
私ははっきりと言い切った。前を向き、まっすぐ教官を見つめた。
教官は僕を黒い眼差しで見つめた。光を失ってしまった瞳はまるでブラックホールのように吸い込まれそうな不思議な力を持っている。
「面白いことを言うじゃないか、9643君。いや、前島先生。では、先生は悲しみや苦しみがある世界の方が良いというのかね?」
「もちろん、悲しみや苦しみはない方が楽でしょう。でも、幸翔くんを見てあげてください。彼は自分の存在価値をみつけようと苦しみ、辛い時間を過ごした。その時間は決して無駄ではありません。確かにやり方は間違っていたかもしれないけれど、彼は貴方が消そうとした負の感情によってここまで努力し、彼なりに成長してきたんだ。」
自然と拳に力が入る。私は今、怒っているのだと強く自覚する。
「私に貴方の考えは分からない。でも、幸翔くんの担任だった私にはこれだけはわかる。幸翔くんの葛藤と努力に意味がなかったわけが無い、ダメだったのは彼を正しく理解し、導けなかった私たち大人だ。」
教官はあざ笑うかのような笑みを浮かべ、口をゆっくりと開く。
「まさに、前島先生は教育者にふさわしいお方だ。しかし、私はあなたとは違う、あなたの言葉は理想論でしかない。確かに、負の感情は時にいい方向へと進むこともある。でもそれは稀なことだ。大抵は負の感情に支配され、感情のままに妬み、嫌い、憎しみ、そして最後には暴力や争い、事件に発展する。それが人間だよ、前島先生。それを変えるためには、その諸悪の根源である負の感情を取り除くのが一番なのだ。」
教官は、幸翔くんの植木鉢を持った手を大きく振り上げる。
「前島先生、あなたがここに初めて来たとき私が言ったことを憶えていますか?植木鉢は絶対に壊してはいけない。それが何故か今ここで見せてあげましょう。」
大きく振り上げられた手が、地面に向かって一気に振り下ろされる。私の体は、本能でそれを止めようとする。
でも間に合わなかった。暗い部屋に響く植木鉢の割れる音、私の指先で幸翔くんの植木鉢は粉々に砕け散った。飛び出した、処分リストの花からみるみるうちに根が伸び始め、周りを侵食していく。
「なぜ植木鉢が必要なのか、それは感情を抑制するためですよ、前島先生。感情というのは多種多様で、膨大なエネルギーがある。人はそのエネルギーをうまくコントロールすることで成長する。でも、そのエネルギーがコントロールできなくなるくらい大きくなってしまえば、人は感情に駆られて行動してしまう。植木鉢はそんな感情のエネルギーを抑えるための装置なのです。植物も、成長したら大きな鉢植えに変えないとうまく成長しないでしょう?それと同じです。」
「では、その植木鉢が壊れたらどうなるか…。抑え込まれた幸翔の負の感情が一気に成長し、負の感情に飲み込まれる。自分ではどうしようもないまま、感情のままに暴れる。あぁ…本当に負の感情と言うのは醜いでしょう??」
教官はそう話しながら、笑みを浮かべている。教官は、この状況を楽しんでいるのだ。人の感情を自分の思うがままにコントロールできる力に愉悦し、自分がまるで世界の中心であるかのように振舞っている。
「自分の息子をそんな風に扱うなんて…」
目の前に立っている教官が人間の皮を被った化け物に見える。恐ろしい、ただそう思った。
「幸翔くん、大丈夫か?」
そばに駆け寄り、耳元で声をかけ続ける。幸翔くんはただその場にうずくまり、唸り声をあげている。
「先生…僕は…どこで間違えてしまったんでしょう。」
幸翔くんは、私の体にしがみつきながら言葉を発する。
「幸翔くん、君は間違えてなどいない。選択自体に間違いなんてないんだ。間違いになるかどうかは、最後の最後に決まることだ。まだ、君は諦めていないんだろう?」
「はい…このまま負の感情にコントロールされるわけにはいかない。僕は誇れる形で周りの人を幸せにしたいっ」
彼の強い感情がしがみつく手からも伝わってくる。彼は、一生懸命自分の感情と向き合ってきた。彼はきっと自分の感情をコントロールするのではなく、受け入れることができるはずだ。
処分リストの花が徐々に色を変え始める。辺り一面に広がった花たちは暗く不気味だった雰囲気から一変し、暖かく調和のとれたものへと変化していく。処分リストの花も、そうでない花も関係ない。それぞれの花が互いを引き立たせ、美しい空間を作り出している。
「まさか…植木鉢がなくても自分の感情をコントロールし、負の感情を受け入れるなんて…」教官の不敵な笑みが初めて崩れた瞬間だった。
「幸翔くん、君は変われるよ。そして、必ずみんなを幸せにできる。でもまずは君自身が幸せになる方法を考えてみないとね。」
幸翔くんは自然な笑みを浮かべた。その笑みはきっと「幸せな」ものに違いない。誰かに作られた「幸せ」なんかじゃない。彼自身が作り上げた「幸せ」だ。
そのあと、事はあっという間に進んだ。教官、幸翔くんの父親はあの後あっさりと考えを改めた。よっぽど息子の変化に驚いたのか、それはわからない。感情の花原理は世間でも危険性が主張され、研究されることもなくなった。
そして、私も教職に復帰することができた。おそらく幸翔くんがすべて説明してくれたんだろう。幸翔くんはその件もあって、停学処分を下されている。クラスの中の1つの空席がより一層悲しさを引き立てている。
でも、彼にとってもこれは1つの区切りだ。また戻ってきた時には、新しい生活が待っている。彼の成長が楽しみだと強く感じる。
「せんせ~幸翔まだ帰ってこないの?」
「先生も急にいなくなっちゃうし、私たちびっくりしたんだからね!」
「ほんとになぁ~神隠しにあったのかと思ったぜ。」
今日もクラスは「幸せ」に満ちている。彼らも今後の人生で負の感情を経験することがあるだろう。でも、そんな時に私はそばに立ち、彼らを支える義務がある。負の感情を刈り取るのではなく、向き合えるように、私たちは彼らの心の支えになる必要があるのだ。
チャイムがなり、授業が始まる。
黒板にチョークを滑らせたその時、扉が勢いよく開く。
私はハッとなって扉の方を見た。
「ただいま、前島先生。」
「あぁおかえり。みんなまってたぞ。」
授業が始まったというのに、クラスがどんどん賑やかになっていく。あちこちから声が飛び交っていた。そして笑顔も。
あぁ、目の前の光景こそが自分にとっての「幸せ」だ。
この幸せをかみしめながら、私は今日も黒板にチョークを走らせるのだろう。
教卓の窓際に飾られた小さな植木鉢には可愛い芽が出始めていた。
芽は暖かい光に包まれながら、生き生きと葉を伸ばしていた。
きっと数か月後には綺麗な花を咲かせるだろうと内心思いながら、私は授業に意識を戻した。
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芽を刈り取って 蒼澄 @books2525
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