Ⅲ 最後の仕上げ
「──ここなら暗いし広いし静かだし、儀式を行うにはもってこいの環境ね。そこらの廃墟なんかよりもずいぶんと好条件だわ……」
ランタンの仄かな明かりだけが灯る真っ暗な船の底……そこに広がるガランとした空間を見渡しながら、メデイアは独り呟く。
その小さな家一個分くらいはある場所は船倉であり、本来は食糧や武器弾薬、その他航海に必要な物資で埋め尽くされているはずなのであるが、今はまだ何も積み込まれてはいない。
それ故に実際の容積よりも広く感じられたりもするのであるが、この新造船の場合、船倉のスペースはむしろ狭くとられている。
一般的に、この手の遠洋航海船は海運目的で使われるため、船体内の空間の多くは積荷を入れるための船倉に割かれているのが常だ。しかし、この軍船は戦闘及び将兵の輸送を第一義として設計されてるため、前後に立てられた隔壁の向こう側は団員達の部屋になっているのである。
その点でいえば、無論、待遇には段違いの差があるものの、コンセプトは少し〝奴隷船〟と似ているのかもしれない……。
「人によっては
また、その船倉を貫くようにして、大きな丸木の柱が一本、床から天井へと真っ直ぐに伸びて聳え立っている……一見、構造材の柱のように思えるかもしれないが、実はそれ、この船のメインマストなのだ。
この船倉は最下層の甲板にあり、さらにその床下には
「さ、始めましょうかね……」
下げていた肩掛け鞄から燭台を取り出し、そこへランタンから火を移すと、明るさの増した薄闇の中でメデイアは準備にとりかかる。
「地面も板床だから描き易いわね……」
まず、彼女はメインマストの前に跪き、その平らな木製の床の上に縄と鎌で作ったコンパスと、縄先に結えた
それは、〝ソロモン王の魔法円〟とその筋では呼ばれる、魔導書『ゲーティア』の記載に則って悪魔を召喚するための魔術図形である。
そう……メデイアが任された〝最後の仕上げ〟というのは、魔導書の魔術を用いて悪魔を召喚し、その力でこの船に魔術的武装を施すことなのである。
このエウロパ世界において、神聖イスカンドリア帝国を始めとするプロフェシア教圏の国々は、「悪魔の力に頼る邪悪な書物」として魔導書を禁書扱いにし、教会や各国王権によって許可を与えられた者以外、その使用はおろか所持することすらも厳格に禁じている。
しかし、それはあくまでも表向きの方便で、魔導書の魔術は農業や工業、政治や軍事、その他あらゆる方面においてたいへん有益な技術であり、今や人々が生活してゆく上で必要不可欠なものとなっているため、実際には教会や王権がその力を独占する目的で思いついた、極めて独善的で強権的な施策であった。
それは、本来、神への祈りを捧げて生きる修道士の中に、魔導書を専門に研究して用いる〝魔法修士〟なる存在がいることでも容易に証明ができよう。
例えば、海や風の悪魔の加護を船に与え、嵐や荒波などの海難から乗船者を守り、航海が無事に行われるようにするのも魔法修士の仕事である。
同じく、今回のように軍船へ魔術的武装を施すのも、やはり通常は国よりの依頼を受けて教会が派遣した魔法修士が行う。
だが、白金の羊角騎士団には並の魔法修士なんかよりもはるかに腕の良い、魔術担当官であるメデイアという人材がいたために、自前で彼女が執り行うこととなったのだった。
メデイアは放浪の民〝ロマンジップ〟の出身で、魔術を
故に彼女は魔導書の魔術に加え、もともと身につけていた魔女術も使えるという稀有な人材なのだ。
じつは今描いている〝ソロモン王の魔法円〟にしても、〝五芒星〟を
とはいえ、もっとも教会は〝魔女〟の存在を絶対に認めないため、表向きは〝魔法修士の修行をした修道女〟ということにしていたりするのであるが……。
「さて、次はペンタクルと
魔法円を描き終わったメデイアは、それぞれ異なる幾何学紋様の刻まれた小皿程度の金属円盤を秋刀魚取り出し、それをメインマストへと各々に釘で打ち付ける……。
それは、魔導書『ソロモン王の鍵』に記された火星第四、火星第六、そして太陽第五のペンタクルである。
火星第四は武運長久、火星第六は防御力の向上、太陽第五は速度を上げる力が込められており、『ソロモン王の鍵』の作法に則って、メデイアが事前に製作しておいたものだ。
「新品の船を傷つけるのはちょっと気がひけるけど……」
続けて、今度は柄が黒檀でできた魔女の短剣〝アセイミ〟を腰の鞘から引き抜き、円盤にあるのと似たような幾何学紋様を三種類、マストの真ん中辺りにその刃で彫り込み始める……こちらは特定の悪魔を表す
先程の三枚の
ちなみにこうした軍船や公的な貿易船、王侯貴族や大商人所有の船などには、航海中、乗船した魔法修士や許可を得た航海士が魔術を行うための儀式部屋が設けられており、当然、この船にもプロフェシア教の礼拝所式のそれが用意されているのであるが、施す対象を目の前にした方がより確実のため、今回のような場合はマストや
「これでよしと……では、聖別を……」
メインマストに
「さ、いきますわよ……」
すべての準備が整うと、ハーフアーマーの左胸に金の
「ス〜……」
そして、甘ったるい香の煙が立ち込める中、プアァァァ〜…! と一回、儀式の開始を告げるラッパを高々と吹き鳴らした後。
「霊よ! 現れよ! 月と魔術と冥府を司りし偉大なるヘカテー女神の名において、我は汝に命ずる! ソロモン王が72柱の悪魔序列43番! 堕落の侯爵サブノック!」
ラッパを弓型の
それは、〝通常の召喚呪〟と呼ばれるものを彼女の魔女術風にアレンジしたものだ。本来はプロフェシア教の奉じる〝神〟の威光を後ろ盾とするところ、メデイアは魔女として信仰する冥界の女神ヘカテーの力を借りている。
「……霊よ! 現れよ! 月と魔術と冥府を司りし偉大なるヘカテー女神の名において、我は汝に命ずる!」
香に煙る薄闇の中、その召喚呪を幾度となく繰り返し唱えていると、やがて何処からかヒヒィィィーン…という馬の
「ずいぶんと奇妙な召喚呪だと思えばやっぱりあんたかい……冥界の女神を祀る魔女の娘」
その半透明に透けた騎士はメデイアを見下ろし、そう告げるや獅子頭を模した兜をおもむろに脱いでみせる……すると、その兜の下からは長い銀髪に蒼白い肌をした、意外にも美しい女性の顔が露わとなった。
「ようこそおいでくださいました。堕落の侯爵サブノック」
その美しくも妖しげな存在に対して臆することもなく、メデイアは慇懃に挨拶をする……それは魔導書『ゲーティア』に記される、伝説の王ソロモンが使役していたという72柱の悪魔の内の一柱なのだ。
「まあ、誰でもいいさね。さあ、なんでも望みを言いな。対価として魂をもらえれば、どんな願いでもかなえてあげるよ……て、言うだけ無駄だね。あんたに手を出しちゃあ、あの怖い女神さまに睨まれちまうからね」
召喚された悪魔の常道として、その女騎士も術者と契約を結ぶためのお決まりの台詞を口にしようとするが、途中でその言葉を切るとあっさり対価の魂を諦める。
魔導書を用いた召喚魔術を勉強する際、メデイアは一度、サブノックも呼び出したことがあるため、彼女がいかなる人物であるかを向こうもよく存じているのだ。
「よくわかってるじゃない。それじゃ、無駄話もなんだし早々にいくわよ…… ソロモン王が72柱の悪魔序列43番・堕落の侯爵サブノック! ヘカテー女神の名において我は汝に命ずる! 汝の力を以て、この船に堅固な城砦が如き守りを与えたまえ!」
気怠るそうに言う投げやりな悪魔の態度に、薄布のベールの下で不敵な笑みを浮かべたメデイアは、女騎士の眼前に弓型
「はいよ。あたいの要塞化の力なら造作もないことさ。ま、こんな割に合わない仕事、簡単な願いでよかったよ……」
特に何かするわけでもなかったが、悪魔がそう言うとマストに刻まれた三つの
「じゃ、用が済んだんならあたいはもう行くよ? いいね?」
「ええ。ありがとう、サブノック。助かったわ」
そして、さっさと断りを入れながら闇の中へ消えて行く女悪魔に、メデイアは笑顔を浮かべると労いの言葉を述べた。
「ふぅ……船の守りはこれでよしと。あとは速度と賊の捜索能力ね……後が控えてるし、ちゃっちゃと次にいかなくきゃ……次はセエレね…… 霊のよ! 現れよ!──」
悪魔サブノックを見送った後、小さく溜息を吐いたメデイアは、休む間もなく次の悪魔召喚を開始する……。
この後、彼女は先程と同様に儀式を執り行うと、ソロモン王の悪魔序列70番・願いの貴公子セエレの〝一瞬で世界を廻る〟ほどの速さと、序列72番・正義の伯爵アンドロマリウスの〝賊を捕え、悪を罰する〟力も船に宿し、このただでさえ強力な自分達の軍船を、さらに最強のものへと変えたのだった。
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