コイネガウ

幻夢

1話完結


その恋を、願う。誰でもない貴女のために。




貴女と出会ったのは暖かい春の日だった。桜吹雪にさらわれそうになりながら落としたハンカチを探している貴女を見て、そして見て見ぬふりなどできず声をかけてしまった。


お気に入りで、大切に使っていたというハンカチ。薄いレースで作られていたそれは、桜の花弁と共に舞い上がって木の枝に引っかかっていた。背が高いのだけが取り柄だった僕だが、その桜の木は他と比べてもとても大きくて。僕の身長でもなかなか届かなくて苦労した。


やっとの思いで掴んだハンカチには繊細な刺繍が施されていて、はかなげな雰囲気を持つ貴女にぴったりだった。


「これ、どうぞ」


僕が捕まえたハンカチはもともと貴女のものなのだから、どうぞ、だなんて言い方には少し違和感がある気がする。でも、貴女の存在に緊張していた僕はそこまで気を回せる余裕がなかった。


まるで花が風で舞い散るかのような、花弁が綻ぶかのような、そんな貴女の笑顔に心奪われた。貴女は、花が似合う人だった。それこそまるで、桜の妖精じゃないかと疑わしくなるほどに。



──ああ、これが俗に言う「一目惚れ」というものか。


「すみません、ありがとうございます」


オルゴールの音色のような透き通る声に心臓が跳ねあがる。怪しい挙動にならないよう、僕は必死に平然を装っていた。


ハンカチを受け取ろうとしたのだろう。そっと差し出されたその手は不健康に真っ白で驚いたのを覚えている。これじゃあまるで、どこか体が悪いみたいじゃないか。そんな固まった僕の様子を見て、貴女は「ああ……」と小さく声を漏らす。僕の考えを悟ったらしかった。


また先刻の桜のような、だが今度はどこか深く傷ついているような笑みで。二声目にはこう告げてきた。


「わたし、多分そんなに長くないんです」


───沈黙、納得。


桜の妖精へ抱いた僕の淡い恋心は、その瞬間に永遠に実らないものとなった。





あの日貴女は、こっそり散歩に出ていたのだという。病に蝕まれ、日に日に衰弱してゆく己の身体。そのまま動けなくなってしまうのが怖かった。だから、せめて、動けるうちに動いていたかったのだ、と。


あの後、なんとなくそのまま別れる雰囲気にはならず、近くの公園に移動した。ベンチに二人並んで、自己紹介と、他愛もない会話を繰り返す。人ひとり分のスペースを空けた僕の隣でお喋りする貴女の様子は、いたって健康体のように見える。肌だけはやはり病的な白さだったが、それ以外は特に変わった様子はない。死期が近い人間だと言われても、どこか信じがたかった。


「それじゃあ、ここには毎日?」


「はい。天気の良い日は必ず」


会話の流れで気になったことを色々と訊いてみる。病気はどれほど良くないのか、こっそり抜け出して病院からは怒られないのか、どいしてわざわざ病院から少し離れたこの河川敷まで来ているのか。妖精のような微笑みは崩さず、貴女は一つ一つ丁寧に質問に答えてくれた。


「ドラマで見るような余命宣告なんて、実際はされないんですよ。ただ、同じ病気で同じ進行具合だった人がどれくらい生きたのかを伝えられるだけです」


「先生には、よく怒られます。安静にしてないと病気の進行が速くなるからやめなさい、って」


「でもわたし、どうしても会いたい人がいるんです。幼いころに何度か会っただけで、名前も住んでいる場所も知らない人。今じゃないと会えないから。わたしはこのまま余命を平均的に生きるより、その人に会って早死にする方が嬉しいんです」


ただじっと、前だけを見据えてそう語る貴女。先程自動販売機で買って渡した緑茶のペットボトルを、揃えた膝の上で両手で包むように握っている。


声のトーンは変わらないが、その「会いたい人」について話すときだけ、貴女は柔らかい表情をする。きっと、特別な相手にだけ向ける、特別な表情。ああ、なんだ。病のせいで僕のこの恋は実らないと思っていたけれど、最初から僕に勝ち目なんてないじゃないか。


ほんの小さな嫉妬心が芽生え、僕は貴女に質問を続けた。

そんな奴より僕の方が、なんて淡い期待を添えて。


「会いたい人というのは、一体どんな方なんですか?」



そのとき初めて、貴女は僕の方へ視線を向けた。その瞳には、若干の動揺と戸惑いが入り混じっている。


そんな表情を見て異様に胸が高鳴るのだから、僕も相当歪んでいる。


どう説明すべきか、と悩んだ様子の貴女は言葉を詰まらせながら一つずつ音を紡ぐ。


「どんな人、といわれると説明に困りますね。あの人は、一言で表現できるような人じゃないから」


すると突然、子守歌のような穏やかさで、貴女は僕に昔話を聞かせてくれた。






──あの人は、いつも決まって大きな桜の木の下に立っては、ぼんやりと流れる川を眺めていました。


幼かったわたしは、いつも同じ場所で同じものを見つめるあの人に興味を持っていました。子供特有の好奇心からくる興味。あの人のことを知りたいだとか、あの人と喋ってみたいだとか、そういう欲求はありませんでした。ただずっと同じ場所にいる、その理由だけが気になっていたんです。それを知れたら満足してあの人への興味も薄くなると思っていました。


でもある時から急に、あの人は姿を見せなくなったんです。毎日毎日わたしは同じ場所を訪れましたが、あの人に出会うことは叶わなかった。それが、どうしようもなく悲しくて苦しくて、家に帰ってから流れた涙に気が付いて、そこではじめてわたしは自分の感情を自覚しました。


あの人は、とても綺麗な人でした。目を逸らした隙にふっと消えてしまいそうな儚さを持っていました。風が強くて荒れる桜吹雪に乗せられて、花弁と共に空に溶けてしまうような錯覚にさえ陥ったこともあります。だから余計に、跡形もなくあの人がいなくなってしまったというのが、怖かったんです。


姿が見えなくなるなんて嫌だ。あなたと喋ってみたかった。話しかけてみればよかった。そんな後悔ばかりが押し寄せて、ただぼんやりとその一年を過ごしました。


でも、次の年の春に奇跡が起こったんです。あの人が、去年と同じ場所に立っていました。桜が舞い散る中、またぼんやりと川を見つめるその姿は、去年と何の違いもありませんでした。どうして、なんて疑問はすぐに消えました。今度は後悔したくない、その一心で、気づけばわたしはあの人に声をかけていました。


「あ、あのっ」


「……ん?」


たった一音でも分かる、優しくて穏やかで包み込まれるような声。一瞬で胸が高鳴りました。あの人の視線は、今はわたしに向いている。その事実がとても嬉しかったんです。



「あなたは、いったい誰なんですか?」


「僕?僕は──」


あの人が自己紹介してくれようとしたその時、急に風が強く吹きました。小さく悲鳴をあげたわたしは、風に攫われないように必死でした。ようやく風が止んだ時、あの人は目の前から消えていました。


文字通り目の前が真っ暗になったことだけは覚えています。またいなくなってしまった。もう一度会えるかもわからないのに。どうしよう、どうしよう。軽いパニックになりながら辺りを見回しましたが、もちろんあの人の姿はありません。でも代わりに、優しく握った自分の手の中に違和感を覚えました。何か中に入っている。


そっと開いたその手の中には、小さな紙切れと四枚の桜の花弁がありました。紙切れには、細く流れるような文字で〝答えてあげられなくてごめんね。次の桜が咲いたときにまたおいで〟と書いてあったのを覚えています。


次の桜、というのが一体何なのか。それにはさんざん悩みました。でもその日以来あの人はまた姿を消してしまったから、なんとなく察しはつきます。わたしは小さな望みをかけて一年待ちました。そしてその次の年の桜がまた咲く頃、あの人の姿を探しにこの河川敷を訪れたんです。それまでと変わらない、ひと際大きな桜の木の下に、変わらずあの人はいました。


わたしを視界にとらえたらしいあの人は、優しい顔で笑いかけてくれました。


「やあ、きてくれたんだね」


「ずっと、あなたに会いたくて待っていたの」


「それはありがとう。僕も、君と話ができてうれしいよ」



まるでわたしの心を弄ぶような物言いでしたが、そんなことは気になりませんでした。やっと、やっとあなたと話ができる。それだけでわたしの心は十分に満たされていました。その頃には、わたしはあの人にすっかり恋焦がれていたんです。あなたといつまでもこのまま会話をしていたい、ただそれだけを望んでいました──。




「……」


「でも、その願いだって長くは続きませんでした。あの人とは、なぜか毎年、春にしか会えませんでした」


貴女の話を聞いてなんとなく想像はついていた。メモ書きの手紙だけ残して、桜吹雪にまぎれて一瞬で目の前から消え去るなんて、あまりにも人間離れしている。

そこでやっと理解した。昔話を聞かせてくれる前に貴女が放った「今じゃないと会えない」という言葉の意味を。もう長くない貴女にとって、今年の春が、最後になるかもしれないのだ。



「桜が咲く間だけ会える不思議な人。もしかしたらあの人は桜の精霊さんなんじゃないかと、そんな風に思ってしまいます」


考え込む僕をよそにそう語った貴女の言葉に、どきりと心臓が音をたてる。それを悟られないように必死になろうとして、やめた。


──いや、でも、お似合いかもしれない。


そんな風に、思ってしまったから。桜の妖精と桜の精霊。話を聞く限り、その「精霊さん」とやらも桜に溶けてしまいそうな、桜吹雪が似合う人なのだろう。


貴女は桜の妖精みたいですよ、だなんてわざわざ気障ったらしい言葉を吐くつもりはないが、貴女がその人のことを「精霊さん」と呼ぶのであれば、「桜の妖精」も悪い意味にとられることはないだろう。どうせ報われない恋心だ。変に気を張ってまで隠す必要なんてない。



そんなことを、ぼんやりと考えた。



「……しばらくして、わたしが病気になって入院することになってしまい、それからは会えなくなってしまいました。ずっと、会えることを希っているのにあの人はあの桜の木の下からは動かない。だからこうやって、病院からここに通っているんです」


そこまでで、貴女の話は一区切りついた。午後の暖かかった風が、段々と夜の冷え込みに変わっていく。そろそろ終わりの時間だ。


貴女と別れる直前、僕は気になっていた質問を投げかけた。


「そういえば、どうしてそんな大切そうな話を僕にしてくれたんですか?初対面だというのに」



貴女は飴玉のような綺麗な目を丸くすると、言葉を選ぶようにゆっくりと答えを教えてくれた。



「どうしてでしょう……。きっと、あなたになら話しても良いと思ったんだと思います。わたしでも驚いています。なんだか、あなたが凄く──精霊さんに、似ている気がしてしまって」


申し訳なさそうに下がる眉と行き場を失ったように萎む声。ああ、そんなのを見せられたら期待してしまう。叶わないこの恋を、願ってしまう。


このまま別れるのが惜しくなってしまうが、だからといって貴女を引き留める権利なんて持ち合わせていない。



これだけは許されるのではないかと、意を決して僕は貴女にひとつお願いをした。


「あの、今度お見舞いに伺ってもよろしいですか?」


「……え?」


「あっ、えっと、すみません。不躾なお願いであることは分かっています。ただ、こうして会ったのも何かの縁でしょうし、それに、僕だけが一方的に貴女の昔話を聞くのはなんだか不平等な気がしてしまって。今度は、僕の昔話を聞いてくれませんか」


下手な口説き文句のような言葉だ。そこに隠した本心は「貴女とできる限り近付きたい」だけだというのに。こうもすらすらと仮初の言葉ばかり出てくる自分の口に感心する。


だが言葉というものは、発した後に後悔するもので。さすがにこれは距離感がおかしいだろうと、自分を叱りたくなる感情が徐々に押し寄せる。貴女の返答を聞くのが怖い。そう思っていると返ってきた言葉は意外なものだった。


「お見舞い、嬉しいです。ぜひいらしてください」


「えっ、ですが……いいんですか?」


「わたしのことを心配してくれたってことですよね。そんな厚意を無下にだなんてできませんよ。それに……こういうのは、縁が大切でしょう?」


その返答に安堵した。少なくとも、僕に対して悪い印象は持たれていないようだった。

病院の場所と部屋を教えてもらい、今度こそ別れる。




きっと、貴女が今でも想っているのは精霊さんなのだろう。その恋を邪魔するつもりは毛頭ない。僕は自分の気持ちに蓋をして、「縁のあって知り合った話し相手」に徹するつもりだ。この恋心は隠すから、少しでも貴女の近くに居たい。


この想いが、傍から見て正常なのか歪なのかは分からない。帰路につきながら、僕はひたすら貴女のことを考えていた。



───



貴女と出会った桜並木の河川敷を通り過ぎて病院へ向かう。お見舞いに行くのはこれが三回目だ。見慣れ始めた病院の外壁が段々と近付いてくる。病院のエントランス付近にも、桜の木は植えられていた。


花弁はもうほとんど散り、木は全盛期の淡いピンク色から赤色へと変化している。ところどころ緑色さえ見えているのだから、季節の流れは速い。


貴女の病室に辿り着いてノックをする。「どうぞ」なんて綺麗な声が聞こえてから、そっと扉を開けて体を滑り込ませた。出会った頃の無理な散歩が祟ったらしい。貴女は外に出歩くことが出来なくなっていた。



僕が病室に入った時は、ただ切なそうな瞳で、窓から見える桜の木を眺めていた。結局あの後、貴女は精霊さんに出会えなかったようだ。桜が散れば、精霊さんは絶対に姿を現さない。会えるとしたら次はまた来年の春。体の具合からして、貴女があと一年耐えるのは難しい話だった。



「……桜、とうとう散ってしまいましたね」


「ええ……もう一度でいいから、会いたかったのに」


相変わらず綺麗な声だったが、心なしか覇気のない声色でもあった。


「また来年、チャンスはありますよ」


「無理ですよ、こんな体じゃ」



白くて細い腕を上にかざす。点滴が動かないように巻かれている包帯が痛々しい。とてもではないが、健康な人間の腕には見えなかった。


けれどそれでも、貴女にはどうしても生きてほしくて、その恋を叶えてほしくて。僕には叶えることのできないものだから、と。自分のチクチクとした胸の痛みには気づかないふりをして貴女の恋が実を結ぶことを僕はひたすら願っていた。



「そんなこと、言わないでください。貴女が諦めてしまえば、それこそおしまいですよ」


励ましのつもりでも、健常者の口から出た意見などただの綺麗事にしか聞こえないだろう。それでも僕は、自分の口を止めることができなかった。


酷く悲しそうな顔で僕の言葉を聞いていた貴女は、瞳を伏せてこう呟いた。


「……もう一度会えたのなら、悔いなんて残らないのに」


その言葉と態度もまた、貴女には知られていない感情を抱いている僕の心を痛めつけるだけだった。



───



さらに次のお見舞いの時。病院に向かう途中、ふと河川敷に視線を向けると例の一番大きな桜の木の下に不思議な雰囲気の男性がいた。木の幹に片手をついて、ただ川のほうを見つめている。長い前髪に隠れて、僕のいる場所からは表情は読み取れない。


いたって普通の格好をしていて特に目立った様子もないが、なんだかその人から目が離せなかった。なんだ、この人──



「っ……、え?」



訝しげに見つめていると、突然強い風が吹いた。とっくに散って、地面に散乱していた花弁が不自然に宙に舞う。目に入らないようにぎゅっと視界を閉ざしてやり過ごした。そして風が収まって視界が開けた時にはもう、先刻の男性は姿を消していた。


まるで狐にでも化かされたような気分だ。あの男性は、僕の幻覚だったのだろうか。だが、それにしてはなんだか引っかかる。特別大きなあの桜の木の下で川を見つめるだなんて、まるで貴女が僕に話してくれた精霊さんみたいじゃないか。



そんなありえない想像をして首を振る。精霊さんは桜の咲く時期にしか姿を見せないという話だった。季節が移って花が散ってしまったこの時期に現れるはずがない。やはり、あの姿は……。


悶々とした気持ちのまま歩き、病室に到着してしまう。あの男性のことを、貴女に話すべきだろうか。いやしかし、これでもし貴女がまた無理して病院を飛び出してしまっては大変だ。それに──精霊さんは僕にとっては紛れもない恋敵だ。僕の想い人が恋焦がれている相手そのもの。僕が絶対に手に入れることのできない貴女からの感情を受けているくせに、貴女に苦しみだけを与える存在。そんな酷い相手にわざわざ塩を送る必要があるのだろうか?



僕の中で、どす黒い感情が渦を巻く。そのままその黒さに呑まれてしまいそうになる。こんな醜い感情を抱いてしまう自分が怖くて、こんなにも醜い人間が貴女の隣に立つなんて絶対に許せなくて。今日はすぐに帰ろうと、やや重苦しいノックをしてから病室の扉を引いた。



「また来てくれたんですね。今日は……えっと、何か、ありました?」


僕の心の内を暴いてきそうになるまっすぐで綺麗な瞳。貴女は何も知らないはずだ。ここでボロを出すわけにはいかない。


「いえ、特に何もないですけど……どうしてですか?」


「何もないのなら、良かった。扉の前で暫く立ち尽くしていたでしょう?それに、なんだかノックもいつもみたいな軽やかさがなかった気がしたので心配しました。わたしの気のせいでしたね」



……心配、してくれていたのか。平然と嘘をついたことに少しばかりの罪悪感を覚えた。だが、僕の心にはまだ、貴女に精霊さんのことを教えたくないという黒い感情は残っている。


貴女が病院を飛び出してしまわないように、という建前で僕は口を噤ぐ。そしてこの感情を悟られる前に立ち去ろうと、もう一つ嘘を重ねた。


「すみません、今日はお見舞いを持ってきただけで、あまり長居はできないんです」


「そうなんですか?それなのにわざわざありがとうございます」


貴女はいつも通りの柔らかい微笑みを向けてくれる。嘘を重ねた後ろめたさでどうも居心地が悪くなり、足早に病室を出ようとする。


「すみません、また明日、来ますね」



「あ、それなら少し待ってください」


そう僕を呼び止めた貴女は細い上体を起こすと、今にも折れてしまいそうな腕をなんとか動かしてベッド横の引き出しから何か白いものを取り出した。


「これ、どうかもらってくれませんか?」


差し出されたそれを僕は受け取る。丁寧に折りたたまれたそれは、あの日、風と共に飛ばされたレースのハンカチだった。


「これ、あの時の……どうしてこれを、僕に?」


「身辺整理をしているところなんです。家にしまってあるものは家族に任せていますが、よく使っていたものは自分で譲る相手を決めようと思っていて。そのハンカチがあなたとの縁を繋いでくれたので、会えるうちに渡しておきたかったんです」



僕と貴女の関係は、不安定で曖昧なものだ。友人とも、恋人とも違う。もし仮にこのまま貴女が亡くなったとしても、僕はきっと葬儀にすら呼ばれない。だからその前に、ということだろう。


貴女の覚悟が垣間見えて苦しくなった。死なないでほしい。生きてほしい。だからこれは受け取れない。そうやってきちんと断ることができればどんなによかったか。

でもその感情と相反するように、貴女が大切にしていたものを遺品として受け取れることにある種の高揚感も生まれていたのだ。貴女が生きていた証をずっと手元においておける。それが嬉しかった。精霊さんの元にはない、僕だけのもの。そんな優越感もあったと思う。


叶わないと悟って隠し通すことを決めた僕の恋愛感情は、自分でも気が付かないうちに随分と汚い方向へ育ってしまったようだ。その事実に内心嘲笑する。綺麗な貴女が知るべきものではないが、どうせ最後までこの想いを吐露する機会は訪れない。自分の中で飼い殺しておくにはちょうど良い醜さであろう。



そんな醜い感情だけを綺麗に隠して、僕はハンカチを受け取る決意をする。


「……そうだったんですね。あの、本当にこれをもらうのが僕でいいんですか?」


「あなただから、いいんです。今まで、精霊さんの話をすることができた人はあなただけでした。わたしの思い出話を聞いてくれて、ありがとうございました」


「そんな、やめてください。まるで遺言みたいな……」


僕の言葉に貴女は寂しそうに微笑むだけだった。嫌な胸騒ぎがしたが、その原因については考えたくなかった。


結局、その日の僕は貴女のハンカチだけを手にしていつもより早く帰宅した。



───



宣言通り、次の日もまた病院を訪れようと歩いていた。そしていつも通り河川敷に差し掛かったころ。なんだかその場所が騒がしいことに気がついた。人が多い。皆、群がるように一点に注目している。


──例の、特別大きな桜の木だ。


昨日の男性の姿が脳裏によぎり、緊張で鼓動が速くなる。微かに震える足取りで人の群れに近づくと、警察の規制線と現場を隠すブルーシートが張られていた。一体、この場所で何が?



近くにいた二人組の会話が聞こえてきて、今度は嫌な汗が伝った。


「男性の白骨遺体だって」


「白骨って……じゃあもう何年も前のものってこと?」


「そうなんじゃない?そういえばこの桜の木だけ変に大きく綺麗に育ってたけど、もしかしてそういうこと?ほら、あるじゃない。アジサイの苗の根元に動物を埋葬すると花が赤色になる、みたいなやつ。あれと同じじゃない?」


「ちょっと、やめてよ。毎年ここで花見をやってたんだから」



男性の、遺体。白骨化するほど古いもの。憶測だと分かっていても、嫌な想像をしては呼吸が乱れた。


ブルーシートの隙間から見えた光景では、木の根元が深く掘り起こされ、泥に汚れた衣服や小物が並べられていた。大方、警察の人が捜査として掘り起こしたのだろう。遺体発見現場としてあまりにも生々しいその光景は、暫く脳裏に張り付いて忘れられそうにもなかった。




桜の木の下には死体が埋まっているとはよく言ったものだ。その発見されたらしい男性が埋められていたから、この木だけひと際大きく綺麗に咲いていたのだろう。動物の死体は、植物にとって何よりの栄養となる。


死人に口なし。あの遺体の男性が誰で、どうして桜の木の下に埋められていたのか。その事実を、僕たち生きている人間が知る術はない。



貴女の言う精霊さん、そして僕が昨日見たあの男性が遺体と同じ人なのかは分からない。だが、貴女の耳に入れられるような綺麗な話ではないことだけは明白だ。確定要素が何もない今の状況でこのことを伝えるのはあまりにも無責任。ニュースで報道されるまで、僕の口から何かを話すのはやめよう。そう決めて、僕はそっと河川敷を離れて病院へと向かった。




たどり着いた病院の受付はなぜかいつもよりバタバタと慌ただしかった。一人で対応していた看護師さんに貴女の部屋番号を伝えると、その看護師さんは驚いた顔で僕を凝視した。


「何も、連絡が入っていないのですか」


「えっと……なんの、ことですか……?」



続けられた言葉を聞いて、一瞬にして頭が真っ白になった。世界中の時が止まったような錯覚にさえ陥ってしまった。





「今朝、容態が急変して、先程亡くなられましたよ」


 



ポケットの中に入れていた、昨日のハンカチを力を込めてぎゅっと握る。貴女が、死んだ……?


あまりにも唐突に訪れた現実に、脳が考えることを拒否している。だって、おかしいじゃないか。昨日まで、普通に会話できていたというのに。僕にはまだ、貴女と話したいことが沢山あったというのに。また明日来ますって、そう告げておいたのに。これじゃあまるで……




──貴女が、精霊さんの後を追ったみたいじゃないか。




呆然と立ち尽くす僕の様子を不審に思ったらしい。「失礼ですが、ご関係は……?」という看護師さんの問いかけに対して、僕はぼそぼそとした声で「……話し相手です。恋人でも友達でもありません」と伝えたところまではなんとなく覚えている。


だが、そこからは記憶が曖昧で。

気が付けば僕は、病院の外に設置してあるベンチに座って、ただぼんやりと空を眺めていた。カラカラになった喉を潤そうと、途中で買ったのであろう緑茶のペットボトルは、僕の体温でとっくに温くなっていた。


ひたすら頭に浮かぶのは、昨日まで何事もなく過ごしていた貴女の顔と、貴女の想い人へ対する、相変わらずなどす黒い嫉妬心。そして、貴女にこれ以上嘘を重ねずに済んだという一抹の安心感だった。



僕は心の中で、河川敷で発見された遺体は精霊さんのものであると確信していた。根拠などはなく、ただ直感で。だからこそ、このタイミングでの貴女の死にはある種の運命的な何かを感じていた。

人が二人も亡くなっているのにそこに「運命」を感じるなんて相当イカれている。だが、なんだかこれで良かったとさえ思ってしまうのだ。精霊さんは数年越しに自分の亡骸を人に発見してもらえ、貴女は長年恋焦がれていた相手の後を追うように天寿を全うし、僕は醜い感情を持ち合わせるこの恋に終止符を打てる。



ポケットから取り出したハンカチを見ていると、貴女と出会ったあの日のことを思い出す。ああ、貴女は本当に綺麗な、僕にとっての桜の妖精だった。僕のこの恋には応えてくれず、だが去る直前にはこうして僕に出会いの日を思い出させる呪いをかけていった、悪戯好きな妖精。きっとこの先僕は、春が訪れて桜吹雪を見るたびに貴女に縛られる。それで構わない。実らなかった恋の代わりだと思えば、愛おしささえ芽生えてしまう。貴女の存在は、僕の骨の髄にまで沁みこんで消えることがなくなっていた。


果たして、そんな僕が抱くこの感情は、「恋」という一言で片づけてよいものなのだろうか。些か疑問だが、その謎に答えをくれる人はいない。

そしてこの世界に取り残された以上、僕はひとりで生きなければならないのだ。




春の終わりを告げるかのように緑が生い茂り始めた桜の木を僕は見上げた。自分の想いに、整理をつける時間だ。


貴女が向こうで精霊さんと出会う恋を願って。そして貴女がむこうで僕のことを思い出してくれることを希って。


自分の歪な感情を自覚しながら、僕は貴女のハンカチに火をつけた。

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