二段ベッドの旅

明里よしお

二段ベッドの旅

「ただいま!」

 そう言ってナクは黄色いカバーのついたランドセルをベッドに放り投げると、玄関から飛び出した。

「いってきます!」

「今日もツィン君のお家に行くの?」

 ナクの母が窓から顔を出して、道路を走る我が子に問いかける。ナクは足を止めずに大きく頷いた。彼の母はすでに遠くなってしまった息子の後ろ姿に、さらに言葉を投げかけた。

「夕ご飯までには帰るのよ。気をつけてね」

「はーい」

 大声で返事をすると、ナクは元気よく大通りの向こうへ駆けて行った。


 ツィンのお母さんに挨拶をすると、ナクは勢いよく親友の部屋の扉を開けた。もう二段ベッドの操縦席にスタンバイしていたツィンは、ピースのかけた白い歯を見せてニカッと笑った。

「おせーぞ。もう俺たちの船が出発する時間だ」

「まってよー!すぐ乗るから」

 そう言うのと同時にナクは彼らの船、もとい二段ベッドに飛び乗った。お互いの小さな拳をコツンとぶつけ、出航の合図を同時に叫ぶ。

『しゅっぱつしんこう!』

 水飛沫を上げて二段ベッドは海を突き進み始めた。外には水平線が広がっている。もちろん、二人の世界では、という話だが。

「僕、畑の様子を見るね!」

 そうナクが上の段に続く梯子を登りながら言うと「じゃあ俺は魚を釣るよ」とツィンは柱に括り付けられている設定の釣り竿をベッドの端から床に垂らした。お気に入りのマイエア釣竿だ。

大雑把に二階は菜園、一階は操縦室兼寝室と決められている。そして二人は謎の組織デス・キラーに追いかけられていて、彼らから逃れるために旅をしているのだ。

 それ以外はその時々で必要な物が出てきたり、備え付けられていたりする。しかし、それらは必ず何らかのロジックを持って現れる。つまり、空から雨の代わりにお金が降ってくるような事は起きない。

なんでもありの世界はつまらないだろう?

ナクはツィンと旅をするこのごっこ遊びが一番好きだった。

はしゃぎ過ぎたのか、しばらくすると眠気がナクを襲ってきた。つい、こっくりこっくりと船を漕いでしまう。ナクが意識を夢に委ねるまでには、時間はかからなかった。


 よく知る人の大きな声でナクは目を覚ました。不思議な香りがする。まだ重い瞼をゆっくりこじ開けると、眩しい光が飛び込んできた。

「この部屋、こんなに明るかったっけ・・・」

しっかり言い終わらぬうちにナクは口を開けたまま言葉を失った。

穏やかに波打つ、空よりも青い水がどこまでも広がっている。ナクは美し過ぎる景色に、恐怖と不安を覚えた。しかし、そんな感情は一人の歓喜の声で消し飛んだ。

「海だ!」

 下の階から体を大きく乗り出して、ツィンはナクを見上げながら叫んだ。その目は嬉しそうにキラキラ光っている。

「本物の海だぜ、ナク」

 ナクの口の端が上がった。ツィンに負けず劣らず、喜びに溢れた声で返事をする。

「うん、海だ!僕達の、海だ」

 二人は本物の海を今まで見たことが無かった。自分たちの遊びの舞台にする程、海に強い憧れを抱いていた。

「あれ?」

 しばらくしてからナクは異変に気付いた。自分の足元は見慣れたツィンのぬいぐるみで溢れたマットレスでは無かった。そこには土、色とりどりの野菜、そして真水が入ったタンクが置いてあった。

「ツィン!僕たちのベッドが想像した通りの形になっている!」

 興奮を抑えきれず弾んだ声でナクは捲し立てた。すぐにツィンの返事が飛んでくる。

「操縦席がある!俺の釣竿も」

二人は顔を見合わせて、満面の笑みを浮かべた。


「なあ、ナク!何がしたい?今の俺たちは何でもできるぜ」

 ツィンが興奮した声で話しかけた。少し考え込んだ後、ナクは「海に潜りたい」と答えた。今まで泳いだことが無かったが、なぜかどこまでも潜っていける気がしていた。当然、溺れずに。

「りょーかい!」

 ツィンは錨を下ろすと、飛び込んで良しの合図をした。ナクは服を脱いで、勢いよく二段目から海にダイブする。

「じゃあいってきまーす」

 大手を振って挨拶をすると、ナクの姿はすぐに海の底に消えていった。

ツィンは畑の点検を済ますと、タンクから水をコップ二杯分汲み出し、パンと二人の好きな野菜一種類ずつをもぎ取ると、操縦席横のミニテーブルに置いた。

続けて、レバーを引いて焚き火台を畑横に出す。流石に木製のベッドの上で火を起こすわけにはいかない。

 ちょうど火の粉が木屑に飛び、燃料が炎を噴き上げた時、ナクが帰還した。その手には大粒小粒の貝がぎっしり詰まった袋が提げられていた。

釣竿とは反対側の柱にくくりつけられていた小型のモリに、野菜と貝を交互に突き刺して火の上で炙る。食べ頃になった串にかぶりつこうとした瞬間、アラームがけたたましく鳴った。

 せっかくの夕餉を放り出して二人は配置についた。ツィンは一階の操縦室へ、ナクはそのまま二階に留まり、ペダルを踏んで備え付けの望遠鏡を出す。ツィンとの会話を円滑に進めるために、操縦室につながっている管の蓋も開いておく。緊急事態だが、二人は少しワクワクしていた。ごっこ遊びのスイッチが自然と入る。

『レーダーに反応あり。南南西から接近中!』

 ツィンの報告を受け、ナクは望遠鏡に付いている方位磁石を確認して方角を合わせる。しかし、小さな穴には弧を描く水平線しか映らない。焦らずに、少しずつ望遠鏡を動かすと巨大な船が写った。そこにあるマークに驚愕する。ナクの報告する声が震えた。

『デス・キラーが接近中です。繰り返します。デス・キラーが接近中です』

 管を通してツィンの悲鳴がくぐもって伝わった。一瞬の静寂の後、芯のある声で指示が出された。

『ナク、どっかに掴まれ』

 そうツィンが言うや否や、二段ベッドは錨を上げ切る暇も無く、全速力で海の上を滑り出した。慣性が働き、ナクの体が大きく傾く。

『俺は操縦で手一杯だ。レーダーをそっちに送るので指示は任せた』

 ツィンが無数にあるボタンの一つを押すとからくりが回る音がし、操縦席にあったレーダーがナクの元へと移動した。

『敵が離れる気配はありません』

 絶望的な報告を複数回繰り返した後、さらなる絶望が待っていた。

『陸地が出現。このままじゃぶつかっちゃう・・・!』

 あまりの動揺にナクの口調がいつも通りに戻っていた。しかし、ナクの不安とは裏腹に、力強い声が帰ってきた。

『問題無い』

 その言葉とともにツィンはレバーを引き、ボタンを押し、複雑な動きを繰り返した。まるで永遠の様に感じられた数秒の時差の後、内部にある歯車がゆっくりと回り始めた。

 四本の足が水中に向かって伸びる。先端には錘のようなものがついており、勢いに引っ張られてベッドが少し沈んだ。幸い浸水するまでには至らなかったが、水面はぎりぎりまで差し迫っていた。

 しかしすぐに、柱が伸び切って海底に着地した反動でベッドが垂直に浮かび上がり、大きな滴を遠心状に散らしながら水面に飛び乗った。

「うああああああ!」

 酷い揺れが二段ベッドを襲い、ナクは思わず叫び声を上げた。ツィンも体勢を崩しかけ、危うく舵が取れなくなるところだった。

 レバーを押して、最後の変形を行う。

 二段ベッドがゆっくり持ち上がり、一瞬静止すると、陸に向かってどの乗り物よりも速く突き進んで行った。ベッドの足の先にあったのは、錘ではなくタイヤだったのだ。

 浅瀬に近づくにつれ岩が険しくなり、二段ベッドが大きく上下する。ナクはもう叫ぶどころでは無くなっていた。

 海から抜けると途端に揺れは収まり、ナクは胸を撫で下ろした。レーダーを確認するとデス・キラーを示す赤い点は無くなっていた。

 敵の影が消えた後も、二段ベッドは当ても無く走り続けた。

 いつの間にか夕日も沈み、辺りはとっぷりと暗くなっていた。二人はあまりにも疲れ果て、逃げきれたことを祝う元気も、ごはんを食べる気力も無くなっていた。

 ツィンは二段ベッドを停車させると寝室に寝転んだ。ナクもすぐに一階に降りて布団に転がりたかったが、レバーを回して畑の上に屋根を広げてから梯子を降りた。

 屋根の端には溝があり、そこを通って雨水がタンクに溜まる仕組みになっている。これを夜準備しておかなければ貴重な真水が得られなくなってしまうのだ。

ナクも吸い込まれるようにマットレスに倒れ込む。「おやすみ」と呟くと、ツィンの「おやすみ」を聞く前にナクは深い眠りに落ちた。


「ツィン、ナクくん。おやつを持ってきたわよ」

 ジュースとお菓子を二人分お盆に乗せてツィンの母親が入ってきた。しかし、すぐに二人が毛布もかけずに寝ている事に気付き、慌てて何か羽織るものを取りに部屋を出た。

「遊びながら寝ちゃうなんて。大きくなったと思っていたけど、まだまだ子供ね」

 ブランケットをナクとツィンにかけながら、優しく微笑んでそう呟いた。

独特の臭みのある、しかし心地良い、少ししょっぱい匂いが彼女の鼻をかすめた。


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