(17) 月光の陰
息が苦しい。前が見えない。
理解したくない。したくないのに――
真っ暗の部屋の中。カーテンの隙間から漏れ出た月光が丸い円状の縄を強烈に強調していた。天井に金具で固定され吊るされたそれはゆらりゆらりと揺れ不気味さを演出していた。
ドンと音がする。視線を真下に落とすとテーブルに片足を乗せた人らしき影がぼんやりと月光の灯しを借りて浮かび上がる。もう片足も乗せ終わると一瞬月光がその人を鮮明に曝け出した。
――雫
表情は分からなかった。
雫はまるで虚空を見つめるように暫く俯いて動かなくなった。
そして雫の顔の三センチほど前で催眠術のように揺れているそれは雫を現世から連れ去ろうとしているように見えた。その証拠にぽっかりと空いた穴の先は闇。それに一筋の光が射している。まるで天まで手招きをしているように。
やがて雫は顔を上げ、目前のそれに右手をゆっくりとかける。次に左手を。
ギシッと硬い音が無音の部屋に
――声が、出ない。まるで僕が存在していないかのように何もできない。
闇に吸い込まれるように雫が揺れる。
――……めだ! 喉が潰されている。口の隙間を空気だけが抜けていく。
硬く非情なそれに雫の髪先が微かに触れ顎が擦れるように滑っていく。
ギシギシと鼓膜を切り裂く。
ポチャッと何かが落ちて弾けた。
片足が重力に対抗するように重い枷に逆らうように浮上する。
ボタボタと矢継ぎ早に無数の音が鼓膜を覆う。
その刹那――
「や、や、やめろおおおぉおぉ!! しずくぅぅぅぅ!!」
視界が闇に奪われる。
「れい!」
腕を掴まれる。
少しずつ光に包まれてぼうっと雫が浮かび上がる。
「 」
喉が焼けるように痛い。声が出ない。それに呼吸も浅い。上手く肺に入っていかない。
徐々に鮮明になっていく中で雫が慌て取り乱し泣いていることに気がついた。
雫が何かを口にした。けれど不鮮明で聞き取れなかった。
――僕のせいだ。
僕が殺したんだ、雫を。
僕が? 雫を?
僕が……
僕
「れい!」
雫の叫び声が響き渡る。また現実に引き戻される。
息が。上手く吸えず過呼吸気味になる。なんとか酸素を取り込もうと口を上下させ喘ぐ。
そんな僕を雫は少し強引に抱きしめた。
身体が言うことを聞かずどうすることもできなかった。
暫くしてハッとしたように雫はそっと離れた。
そして全てを優しく包み込み呑み込むような瞳で僕を見る。けれど、表情は申しわけなさそうに眉を下げている。
呼吸は整ってきていたが胸が締め付けられ息が詰まりそうだった。
「ごめんね」
雫はそう漏らし左腕をこちらに伸ばしてきた。
なんで雫が謝るのか。
「うそなの」
っつ。なんで雫が嘘を吐くのか。
なんでそんなにこんな僕に優しくしてくれるのか。
僕が雫を――殺した当人なのに。
僕が優しくされていいわけがない。
沸々と身体の奥底からドロッとした黒い何かが湧いていく。
ごめんね。
その声にドッと反応し勢いよく増殖して内側から喰らっていく。
「きゃっ」
そう聞こえた時にはもう遅かった。
眼下には行き場を失い宙を漂う青白い腕。ゆっくりと半円を描いて落下していく。やがてドンっと鈍い音が響く。
「だ――」
そう言いかけた瞬間、ズキズキと右手が痛み出した。まるで何かを叩いたかのような、そんな痛みだった。
視線を右手に向けると力なくうなだれて痙攣していた。
嘘だ。
そう信じようとすればするほど、耳の中で雫の小さな悲鳴と腕を振り払う乾いた音が同時にこだましてしまう。
また不規則に乱れだす呼吸。
すぐに床に倒れてしまった雫の所へ行きたいけれど身体が硬直して動けなかった。
虚空を見つめていた目を雫に合わせようとする。けれど、混乱している思考と連動して焦点が中々定まらない。
沈痛な嗚咽が鼓膜に入った瞬間、その音がする方へ焦点が持っていかれる。
雫はうつ伏せになっていて表情が見えなかった。でも――
押し殺そうとしても隙間から漏れ出る乱れた息遣い。せき込むように上下する背中。
し、しずく。そう言葉にしようとしたけれど、喉の奥で消え去り「ひゅっ」という音とともに空気しか出てこなかった。
「……し」
それでも何回も何回も呼ぼうとして、やっと何十回目かの時だった。
「ず――」
ピンポーン。
古いけれど高音よりな軽快な音。異質なものがこの部屋をこの空気を無視して訪問してきた。
雫も少なからず身体が震える。
一秒、十秒、三十秒……。
ピンポーン。
二回目。
一秒、五秒、十秒……。
コンコン。
一秒、五秒……。
コンコン。
喉の中で「く」が宙ぶらりんになったままで放置されていた。それと同様に思考も放置されていた。
ただただ場違いな音が響く。だけど雫は微動だにしなかった。
ピンポーン。
ドンドン。
心なしか速くなっている。
一秒、二秒、三秒……。
ピンポン。
一秒……
雫は少しゆらりと揺れ、やがてふらふらと起き上がり、おぼつかない足取りで僕の視界から消えていった。
ただ物寂しく暗い足音だけが僕の耳を覆っていった。
違う。
ごめんなさい。
そんな持て余した言葉達が喉の下の方で僕を恨み刺して抉っては消えていった――
再夜 うよに @uyoni
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