第23話 安楽椅子
一時間目が急に自習となり、架月たちは教室でプリント学習に取り組むことになった。いつもは自習であっても監督する先生が教室につくのに、今日は隣のクラスの担任がプリントを配布しに来ただけで教室には生徒だけが残されている。
教師の目がない自習なので、みんなすぐに飽きて雑談をしたり本を読んだりしてしまっている。架月は指示されたことに背くというのが上手にできないので、律儀に漢字のプリントを解いていた。
そんなとき、不意に背中を叩かれた。
びっくりして振り返ると、そこには莉音が立っていた。他の子たちも勝手に席を立って好きな友達と喋ったりはしているのだが、莉音の表情は暗く凍り付いている。
「どうしよう架月、純がいなくなっちゃったよ」
莉音から投げられた言葉が、脳内でうまく噛み砕けずに空虚な反響をもたらした。
「……いなくなったって、どういうこと?」
「さっき優花先輩が、先生たちに電車に純がいなかったことの話を聞かれてたんだって」
架月が解いていたプリントを取り上げて、莉音は今にも泣き出しそうな目で訴える。
「純が迷子になんてなるわけないもんね、きっと自分で逃げちゃったんだよね。どうしていなくなっちゃったんだろ、学校に来たくなかったのかなぁ?」
「……っ」
背筋に冷たいものが走った。
『深谷はどうして特別支援学校に入ったの?』
先日の校外学習でそう尋ねたときの、深谷の昏い瞳が脳裏に蘇る。
タイムスリップをしたように、一連の記憶が脳を揺らした。
『俺、どうして特別支援学校にいると思う?』
『分かんない、僕は深谷じゃないから』
そのときの深谷の表情が、今になってようやく見えるようになる。
「……あ」
深谷は笑っていた。だけど、あれが悲しい表情だったことに今更気が付いた。
他の人が考えていることは分からない。それが普通だ。
でも、明星高等支援学校において「普通」なんて言葉は万能ではない。この学校では、普通の感覚が人によって違うのだ。
どうしてだと思うと聞かれたとき、架月はどうしてなのか頭の中で考えることをしなかった。知らないことを知らないと答えるのが、架月にとって普通のことだった。
でも、違ったのかもしれない。
架月は架月にとって普通の答えではなく、深谷にとって普通の答えを出すべきだったのではないか。
「ねえ、架月は何か分からない?」
心臓がドキリと跳ねた。ちょうど深谷が学校に来たくない理由に心当たりが見つかった瞬間に聞かれたものだから、莉音に心の中を覗かれたように思えたのだ。
「ど、どうして僕に聞くの?」
「だって架月は一番頭がいいでしょ? 架月を頼るの、当たり前じゃん!」
一瞬だけ呼吸が止まった。
まるで太陽が昇る方角を答えるかのように、迷いなく断言されてしまった。
「……そんなこと生まれて初めて言われた」
「そうなの? だとしたら、みんな見る目がないんだね」
ぎゅっと莉音に力強く両手を握りしめられる。彼女の大きな瞳は不安そうな半月型に潰れていて、いつもキラキラと輝いている瞳が今日は涙に濡れている。
「お願い架月、純の居場所を探してよ。純がこのままいなくなったら嫌だもん」
――僕も嫌だ。
架月が頷くと、莉音は救われたような顔をした。
「行こ、架月。あんたが得意なやつをやるよ」
「と、得意なやつ?」
「いつもやってるじゃん! 何か分からないことがあるたびに、色々な人に話しかけてるでしょ?」
「聞き取り調査のこと?」
「そう、それ!」
莉音に力強く腕を引っ張られて、架月は引き上げられるように椅子から立ち上がってしまった。他の生徒に咎めるような声を掛けられるが、莉音はむしろ「うるさい!」と注意をしてきたクラスメイトに対して一喝をする。
クラスメイトたちがサッと表情を強ばらせたのを見て、架月はたじろいだ。しかし莉音は止まらない。深谷純を探すというただ一つの目的しか見えていないかのごとく、架月を廊下にまで引っ張った。
「さあ、誰に聞きに行く? 架月はどうせ授業をサボるの無理でしょ、だから莉音が無理やり引っ張って架月が行きたい場所に連れて行ってあげる!」
「……た」
「なに? なんか文句ある?」
「いや、あの……頼もしいなと思って……」
この期に及んで、自分は誰かに引っ張ってもらっている。
莉音に「いいから早く」と急かされて、架月は心を決めた。自分の意志で歩を進めて教室から遠ざかり、莉音の隣に並び立つ。
引っ張らなくても動くようになった架月を見て、莉音が驚いたようにぱちくりと目を瞬かせた。
「行こう、莉音さん。最初に優花先輩に話を聞きに行きたいから、莉音さんに取り次いでもらいたい」
「分かった! 任せてよ」
架月が自分で歩くようになっても、莉音は手を離さなかった。
階段を上がって二年生の教室まで行くと、そこにも教師の姿はなかった。それでも架月と莉音は誰かに咎められることを警戒して、中腰になってこそこそと隠れながら優花のクラスへと近づいていく。
優花は扉付近の席にいた。机に突っ伏して眠っていた彼女に、莉音が廊下から「優花せんぱいっ」と小声で声を掛けると、彼女はポニーテールを振り乱してパッと顔を上げる。
「びっ……くりしたぁ……。え、何やってんの二人とも。授業中でしょ」
「優花先輩も寝てたでしょぉ? ねえ優花先輩、純のことでお話聞かせてください。莉音たち、純を探してあげたいの」
「へぇ、先生たちみたいなことしてるね」
「先生たちも探してるんですか?」
「そうだよ。だから先生たちに任せておけばいいじゃない」
「……それじゃ嫌なのぉ! 先生たちよりも友達に見つけてもらった方が嬉しいじゃないですか」
莉音がぶすっと頬を膨らませる。大好きな先輩に対して彼女が反抗することは珍しい。そんな莉音のレアな反応が面白かったのか、優花は悪戯っぽく肩をすくめた。新しいオモチャを見つけた子供のような目をしている。
「純くん、なんで逃げちゃったわけ? クラスで意地悪でもされてた?」
「そんなわけ――」
「僕が意地悪したかもしれないんです」
莉音が唖然として絶句した。対照的に優花は弾けるように笑い、架月の方へと身を乗り出してくる。
「いいねぇ、架月くん。青春してんじゃん」
「……はい?」
青春などという掴み所がない部分を認められても困る。困惑していると、ご機嫌そうな優花にポンポンと肩を叩かれた。
「いいよ、協力してあげる。私は何を教えてあげればいいのかな?」
「優花先輩が、深谷がいないことに気付いたときの状況を知りたいです」
「おっ、了解」
優花はほっそりとした顎に人差し指を押し当てて、流暢に語り始めた。
「まず私は、毎朝仙台駅から電車に乗って学校最寄りの八乙女駅で降りてるのね。深谷くんは仙台駅の次の駅……えっと、東仙台駅から毎朝乗ってきてて、いつも私を探して隣に来てくれるんだけど、今朝は来なかったんだよね。私もドアの近くで待ってたんだけど、ホームにも見当たらなかったの。だからてっきり休みだと思ったんだけど、まさか逃げてたとはなぁー」
「え、純と付き合ってるんですか?」
莉音がそんなことをサラリと言ってきた。突然の質問にきょとんとしているのは架月のみで、優花は「莉音ちゃん、絶対そう言うと思った」と呆れたように苦笑している。
「そうじゃないよ、たまたま同じ電車に乗ってるだけ。でも、私が知ってる情報ってこれだけだよ? さっき先生にも聞かれたけど、いつもの電車に乗ってこなかったってこと以外は何も知らない。深谷くんが行きそうな場所の心当たりもないし」
「電車通学の人たちって、定期券ですよね?」
「え? うん、そうだよ。架月くんたちバス通学組もそうでしょ?」
「はい。だから僕なんかは定期以外のお金は持たずに学校に来てて、決められた区間以外に行こうとしたら無銭乗車になっちゃうんですけど、深谷は自分でお金は持っていたんですかね?」
「あ、持ってた持ってた! 深谷くん、財布に千円だけ入れてるんだよ。先週、帰り道にめっちゃゲリラ豪雨に当たったことがあってたとき、深谷くんは傘を持ってたんだけど私は忘れてきちゃっててさぁ。深谷くんが自分の傘を貸すって言ってくれたんだけど『君も困るでしょ』って断ったら、『これでコンビニで傘買いますか?』って千円くれたの。親が緊急用に持たせてくれてるんだって」
「えっ優花先輩、そのお金もらったんですか?」
「もらうわけないでしょ! 緊急用ってのは君のために使えってことだよって言ったら、ピンときてない顔してたけど。とにかく、深谷くんは財布に千円だけは入れてるっぽい」
「じゃあ深谷の行動範囲は運賃千円以内ですね」
「それってどのくらい?」
莉音に尋ねられたが、架月もいまいちピンとこない。
そのとき、ちょうど授業終了のチャイムが鳴った。その音を聞いて、優花が晴れやかに破顔する。
「おっ、良いタイミング。助っ人を増やそうか、架月くん」
「助っ人?」
「そう。そういうのが得意な人には心当たりがあったんだけど、授業中は絶対に協力してくれないからさぁ。ほら、早く行くよ」
今度は優花が先導役になった。彼女は溌剌とした笑顔のまま、まるでゲームのお助けキャラのように架月に次なるミッションを言い渡す。
「利久先輩に会いに行こう」
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