第22話 逃亡

 最初に異変に気付いたのは、深谷と同じ電車通学組である優花だった。

「ねぇ先生、今日深谷くんって休みですか?」

 登校した彼女は、架月たちの教室にやってきて教卓前でギター練習をしていた木瀬に尋ねた。

 珍しい来訪者に教室にいたクラスメイト――男子生徒だけではなく莉音も――はワッと沸き立つ。木瀬は唐突な質問にきょとんとしてから、ゆっくりと首を横に振った。

「いや、そんな連絡は入ってないけど」

「あ、そうなんだ? いつもの電車で会わなかったから休みかと思っちゃった。じゃあ乗り遅れて一本遅い電車で来るのかな」

 架月は自分の席でその話を聞きながら、深谷がそんなことするだろうかと違和感を抱く。学校の授業でも、先日の校外学習でも、深谷はきっかりと機関通りに動いていたのに。

「珍しいね」

 どうやら莉音も同じ感想を抱いたようで、ぼそりと横から架月に囁いてくる。

 愛しの優花先輩に飛びつくよりも架月の方を優先したということは、それほど彼女にとっても深谷が電車に乗り遅れるというのが気掛かりなことだったのだろう。

「乗り過ごすってことは寝坊かなぁ。せっかく優花先輩と一緒に登校できるのに、寝坊なんてもったいないことしちゃってぇ」

「まだ寝坊かどうかは分からないでしょ」

「そりゃそうだけど……まあいいや、純が来たらどうして遅れたのか聞いてみようよ」

「うん」

 優花が「お邪魔しましたー」と教室から出て行き、架月と莉音も朝学習のプリントを始める。いつも朝学習のプリントは深谷が誰よりも先に取り組んでいる。だから朝の時間は、彼の不在がやけに際立つ。

 きっと一本遅い電車で来たら、朝学習のプリントを解く時間がなくなってしまうだろう。もし深谷が来たら自分のプリントを見せてあげようと思いながら、架月はすらすらと漢字のマスを埋めていく。

 しかし結局、一時間目が始まる時間になっても深谷純は登校しなかった。


***


「佐伯先生、深谷の母親と連絡取れました!」

 職員室に木瀬の声が響くと、その場にいた教師陣が息を呑んで彼の方を振り返った。

 木瀬は青ざめた顔をしながら、今し方電話口で聞いた話を伝えるべく声を張り上げる。

「深谷は今朝、いつも通りの時間に家を出たそうです。まだ学校に到着してないと伝えたら、母親は何も知らないと……今から、ご両親で家や駅の周りを探してくれるそうです」

「……っ、くそ」

 悪態をついたのは佐伯だった。

「やられた、完全に経路逃走だ」

 張り詰めた空気の職員室で、木瀬は口早に説明する。

「深谷は家の最寄りの東仙台駅まで母親に車で送迎されて、そこから電車で学校の最寄り駅まで来ています。しかし、東仙台駅よりも前の仙台駅から電車に乗っている優花が、今朝は深谷が乗り込んでくる姿を目撃しませんでした。つまり母親が東仙台駅に送り届けて以降、消息不明ということになります」

「深谷は定期以外に金を持ってるのか?」

 そう尋ねたのは、教務主任の隣で木瀬の話を聞き入っていた藤原教諭だった。

「うちの生徒たちが持っている定期券は、東仙台駅から学校最寄りの八乙女駅までの区間定期券だ。もし深谷が現金を持っていないとしたら、東仙台駅か八乙女駅の周辺を彷徨いてるんじゃないか?」

「それが深谷のお母さんが、非常用に財布の中に千円だけ入れてやってたそうです。東仙台駅からは電車と市営バスが出ているので、深谷が取った可能性は三つ」

 木瀬は職員室の正面にある連絡用ホワイトボードに、その三つのルートを書き殴った。


・徒歩ルート

 家や東仙台駅の周辺。現在、家族が捜索中。


・電車ルート

 学校行きの電車には乗ってこなかったという優花の証言あり。時間をずらして乗ったか、逆車線の電車に乗ったか。


・市営バスルート

 市街地へ行く便あり。終点まで行けば地下鉄への乗り換えが可能。


「深谷くん、現金で電車の切符なんて買えるかしら?」

 ホワイトボードを眺めていた優木が、不意にそんな発言を飛ばす。

「あの子、初めてのことが苦手――というより、自分が出来ない姿を晒すのが嫌だから初めてのことにぶっつけ本番で取り組むの嫌がるでしょう? 今どき、現金で切符を買う経験なんてしないから、もし初めての経験だったら躊躇って避けるんじゃないかなぁ」

「それがお母さん曰く、春休みにデイサービスの外出支援で切符の買い方を教わったそうです」

「あー……そっか、それなら乗れちゃうなぁ……深谷くんなら一回教えてもらえれば覚えちゃうもんね……」

「バスの乗り方なんて、先週の校外学習で実践したばっかりだもんな。学習したことを即座に実践するなんて、なんて度胸がある奴」

 佐伯が低い声で唸ると、木瀬も「本当ですよ」と疲弊した様子で同意する。

「駅の近くにいたらいいですけど、公共交通機関に乗られたら追えませんよ」

「深谷がどこまで本気で逃げてるのかも分からないしな」

 職員室が慌ただしい喧噪に包まれている中、不意にデスクにある電話が鳴り響いた。

 液晶に表示された電話番号を見て、目を剥いた木瀬が「取ります!」と叫んで受話器を取り上げる。

「はい、もしもし。明星高等支援学校の木瀬です。お母さん、どうしました?」

 騒がしかった職員室がシンと静まりかえる。電話の相手は深谷の母親だった。

『もしもし、先生? ごめんなさい、もしかしてあの子、今制服じゃないかもしれない』

「はい?」

『今、純の部屋を見たら「月曜日の服」がなくなってたんです。純は曜日ごとに私服の組み合わせを決めているんですけど、月曜日に着ることにしてる服が部屋に見当たらなくって……たぶん、どこかで私服に着替えるつもりで家を出たんだと思います』

 木瀬の背中に冷たいものが走る。

 母親は半泣きに近い声音で続けた。

『どうしましょう、先生。支援学校の制服を脱いだら、純は普通の子にしか見えなくなるんです。今どき、高校生くらいの子が平日に私服で出歩いてるのなんて普通じゃないですか。誰にも変だと思われない、誰にも助けてもらえない』

「……っ、それは」

『うちの子、障害があることを本人が隠そうと思えば隠せちゃうんです』

 母親の震え声が、切実な響きとなって木瀬の耳朶に突き刺さった。

『本当は色々なことが出来ないのに、本人が自分から助けを求めないと誰にも気付いてもらえなくて……早く見つけないと、このまま外の世界に埋まっていっちゃう。見た目だけじゃ障害者だって絶対に分からないから、誰にも助けてもらえない』

 どうしよう、と母親が掠れた声で呟いた。

『……本当は、お金の計算もろくにできないんような子なんです。どうか助けてあげてください、お願いします……』


 通話を終えた木瀬が他の職員たちに話の内容を報告すると、すぐさま教頭が指示を出す。

「午前中の授業は自習にしよう。捜索に行ける教員で、三つのコースに分かれて捜索しよう」

 その鶴の一声で、職員室にいた職員たちが一斉に腰を上げた。

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