第19話 悪意の所在

 翌日、架月は朝からずっとタイミングを窺っていた。

 もちろん窺っていたのは深谷と自然と二人きりになれるチャンスなのだが、深谷という奴はちょっとでも気を抜くと人の輪の中に入っている。ごく自然に周囲に呼ばれて、いつも深谷の周りには誰かがいる。

 もし自分が、こんなふうに誰かとずっと一緒にいたら絶対に疲れる。

 いつも大勢のクラスメイトたちと一緒にいるのに、誰のことも怒らせず誰からも嫌われずにいられるから尚更だ。

 そんな集団を外側からぼんやりと眺めていたら、心配そうな莉音にこそっと耳打ちをされた。

「架月も混ざりたいの? 混ぜてって言うの手伝おうか?」

 どうやら架月のことをその一言も言えない子だと思っているらしい。優しい気遣いが痛み入るが、生憎ながら見当違いである。

「そうじゃないから大丈夫。ありがとう」

「本当? じゃあ莉音とお話ししようよぉ」

「うん」

 莉音は莉音で、クラスに自分以外の女子生徒がいないから常に話し相手に飢えている。ちなみに一学年の女子生徒は莉音を含めても二人だけで、もう一人の子は隣のクラスに在籍しているのだが早々に同じクラスで彼氏を作ってしまったらしい。彼女はその男子とばかり話すようになってしまって、カップルの間に入れない莉音は今ではすっかりその子と仲良くなるのを諦めて、架月をはじめとしたクラスの男子や上級生の女子達とばかり連むようになっている――と、以前そんなことを自分で語っていた。

「でも架月が男子のグループとばっかり連むようになっちゃったら、莉音は一人ぼっちになっちゃうから嫌だなぁー」

「そんなことないよ、莉音さんはみんなと話してるじゃん」

「そうなの? 莉音、架月とは特別仲良しだと思ってたけど」

 ――あ、今のはちょっと嬉しい。

 架月は思わず頬を緩めてしまったのだが、莉音の方は架月がわざわざ言わないと自分と仲良しだと分からなかったことが不服だったようで、ぶすっと口を尖らせて「いいもん、別に仲良しじゃないし」とそっぽを向いてしまった。

「そんなことないよ。僕と莉音さんは仲が良い」

「それ、普通は本当に仲がいい人にはわざわざ言わないんだよぉ? 本当の友達なら言わなくても分かるから」

「じゃあ莉音さんはもう言ってくれないの? 僕は言ってくれた方が分かるし、言われたら嬉しいよ」

「あんた単純な奴でいいねぇ」

 まっすぐ罵倒されてドキリとしたが、莉音の表情を窺うと彼女は穏やかな笑顔を浮かべている。彼女が笑いながら顔を傾けた拍子に、艶やかなセミロングヘアが揺れてきらきらと光の反射を周囲に散らした。莉音は比喩ではなく眩しく笑うのだ。

 授業開始のチャイムが鳴って、架月は自分の席についた。次の授業は国語だ。明星高等支援学校では教科学習の時間があり、週に何度か国語や数学、英語の授業を行っている

 しかし架月が準備を終えると、他のクラスメイトたちがみんなサッと廊下に出て行ってしまった。

 これから授業が始まるのに、どこに行くんだろう。

 さっきまで架月と話していたはずの莉音もいなくなってしまって、いよいよ架月は教室で一人ぼっちになった。みんなを追いかけた方がいいのかなと一瞬だけ思ったが、架月の脳内で「チャイムが鳴ってからは教室を出ない」というルールが最優先に上がってしまっていて体を動かす勇気が出ない。

 国語の学習ファイルを見ながらフリーズしていたら、教室の扉がサッと開いた。

 入ってきたのは教師ではなく、とっくに教室を出て行ったはずの深谷だった。

「あっ、いた。急げ架月、次の授業は図書室でやるって先生が前回言ってただろ」

「……そうだっけ?」

「言ってたよ、一緒に行こう」

 深谷に手招きされた瞬間、脳内での優先順位がすんなり入れ替わった。チャイムが鳴ったあと教室を出ないというルールよりも、深谷の言うことを信じて一緒に図書室に行きたいという気持ちが上回る。

「深谷はどうして教室に戻ってきたの?」

「どうしてって……いや、だって……架月がみんなと一緒に来ないからじゃん」

「わざわざ迎えに来たの?」

「……ごめんってば」

「な、なんで謝るの。深谷は何も悪いことしてないのに、今」

「だって架月が嫌そうにしてるから」

 まさかそんなふうに伝わっているとは思わなくて、架月は慌てて首を横に振る。

「違くて、えっと、そうじゃなくて、そんなに優しくしてくれるんだってびっくりしただけで……その、僕は『単純な奴』らしいから、そう思って」

 深谷が咳き込むように噎せ返った。

「は、な、何? それ自分で言ってるの?」

「そうじゃなくて、莉音さんがそう言ってたから――」

「虐められてんの?」

「仲良しなんだよ」

「そうやって騙されて揶揄われてるわけじゃなく?」

「莉音さんがそういうことする人じゃないって深谷も知ってるでしょ」

 当然頷いてくれるものだと思って言ったら、深谷はなぜか押し黙ってしまった。

 蚊の鳴くような声で「人が何を考えてるかは分かんないだろ」と言われて、深谷にも分からないことがあるのかと驚く。

 他人の心の機微を読むことにおいて、自分は深谷には絶対に敵わないだろう。深谷はどんな些細なことでも拾い上げて、架月が意図していないところまで多彩に読み取ってしまう。そんな彼が分からないと匙を投げるほど、莉音が優しい人だと断言することは難しいことなのだろうか。

 きっと深谷は、そうやって火のない所に煙を立てることができるのだ。

 そんな彼が煙のように見えてしまったものを、ただの霧だよと言ってあげられるような人がそばにいればいいのに。

 やや遅れて、架月は今この状況が「深谷と二人きりになれるチャンス」であることに気が付いた。急に速くなった心臓の鼓動を深呼吸で押さえて、架月は努めて冷静に切り出す。

「そういえば、こないだはありがとう」

「えっと、何のこと?」

「僕の話を聞いてくれて」

 その一言だけで、深谷はロッカーの件だと勘づいたらしい。サッと青ざめた彼の横顔を見つめながら、架月は昨日から家で何度も口に出して練習していた台詞を紡いだ。

「深谷はこないだ僕に真犯人を知りたくないのかって聞いたけど、僕は由芽先輩が関係ないって知ることができただけで満足だからもう調査はしないよ」

「……でも――」

「そういえば莉音さんと優花先輩にも色々聞いちゃったから、あとでお礼を言いに行こうかなって思ってるんだよね」

 どうだろう、突然すぎたか?

 架月は嘘をつくのが苦手という次元ですらなく、そもそも今まで嘘をつく必要がなかったから嘘をついたことがない。

 そんな自分の演技に賢い深谷が騙されてくれるだろうか。固唾を呑んで反応を見守るが、今のところ深谷は不審がっていない様子だった。

「優花先輩に話しかけたわけ? チャレンジャーだな、お前。他の先輩たちに目ぇ付けられるだろ」

「いや、僕じゃなくて莉音さんが声を掛けたんだけど……。でも結局、あの二人も何も知らなかったんだよね。みんながロッカーの異変に気が付いて騒いでたときの状況を聞こうと思ったんだけど、二人とも最初に『由芽先輩じゃないか』って言った人ですら誰だったか覚えてないって言ってたし」

「……え?」

 深谷が目を見開く。

 その反応で、架月は自分の予想が合っていたことに気が付いてしまった。安堵するのと同時に、心臓がぎゅうっと切なく引き絞られて一瞬だけ呼吸が苦しくなる。

「二人とも、そう言ってた?」

 ――そうだよ、深谷。

 なぜだか泣きそうになるのを堪えながら、架月は莉音と優花の証言を思い出す。

『最初にロッカーの異変に気付いたのは誰だったんでしょうか?』

『誰だったっけなぁ。優花先輩、覚えてます?』

『えー、覚えてない。なんかみんながロッカーの前に集まってざわざわしてたから、誰が最初とかは全然分かんないや』

 今だから分かる。

 おそらくあれは、嘘だったのだ。

 二人は一貫して何も知らないと主張していたが、最初に由芽を疑った人物の台詞はやけに鮮明に思い出せていた。

『そこに由芽ちゃん先輩もいたんだけど、誰かが「由芽先輩がやったんじゃない?」って言って、由芽ちゃん先輩が教室に逃げ戻っちゃったんだよね』

 そう説明したのは優花である。

 優花は自分が由芽を呼ぶときは「由芽ちゃん先輩」と呼ぶのに、最初に由芽を疑った人物の台詞を反芻させるときは「由芽先輩」と呼んでいた。

 つまり優花が言っていた「由芽先輩がやったんじゃない?」という台詞は、最初に彼女を疑った生徒が放った言葉なのだ。

 台詞まで一言一句しっかり覚えていたのに、優花がそれを言った人間だけを完全に忘れているとは思えない。

 実際のところ、優花は誰が最初に由芽を疑ったのか覚えていたのだろう。そのとき一緒にいた莉音もそうだ。彼女たちは頭の中に残っている情報の一つを敢えて伏せたまま、架月に「何も覚えていない」という態で話をした。

『誰が最初に由芽先輩だって言ったんだろう』

 架月がそう疑問を投げたとき、優花は険しい表情でこう言った。

『それは分かんないし、それって別に問題じゃなくない?』

 きっぱりと架月に念を押したのだ。

『疑った人を探すんじゃなくて、架月くんはロッカーの荷物をぐちゃぐちゃにした犯人を捜さないといけないんだよ』

 ――由芽に疑いをかけた人間を絶対に探すな。

 ――そこは解くべき謎にするな。

 そうやって彼女たちが徹底的に情報を伏せたのには理由がある。きっと二人は、その人物が架月に怨まれないように気を遣って正体を伏せてやったのだ。

 架月が由芽を慕っていることは、優花も莉音も知っている。もし架月が最初に由芽を疑った人間――「由芽先輩がやったんじゃない?」と言って由芽を怒らせた生徒が誰だったのか知ってしまえば、きっと架月はその生徒のことを怨んでしまうと思ったのだろう。

 だから彼女たちは、その生徒のことを庇うために架月に「何も知らない、覚えていない」と嘘をついたのだ。

「……そっか」

 深谷はぽつりと呟くと、そのまま足を止めてしまった。

 架月も合わせて立ち止まり、視線を宙に浮かせながら小寺に話したことを思い出す。

『架月くんは、みんなの荷物を動かした人に悪意はなかったと思ってるの?』

 悪意の所在は、ロッカーの荷物を動かしたことにあったわけではない。

 深谷に悪意というものがあったとしたら、それが発露したのはロッカーの荷物を動かしたときではなく他の生徒たちがそれを発見したときだ。

 きっと「由芽先輩がやったんじゃない?」と言ったのは深谷なのだ。

 深谷は架月に、ふりがなだらけのプリントが自分のものではないと信じてほしかった。

 ロッカーの荷物を動かすことで、由芽が架月以外の生徒のロッカーも触る先輩だということにしたかった。

 だから「由芽先輩がやったんじゃない?」という一言を吐いて、由芽のことを怒らせたのだ。

 それが深谷の振るった悪意の正体だ。

「……っ、ごめ」

 深谷が急に謝ってくる。

 その謝罪の言葉が不自然に途切れると同時に、床に小さな水滴が跳ねた。

 引き攣ったような呼吸が聞こえる。俯いた深谷の表情は見えない。それでも次々と床に落ちる雫が目に入ってしまう。

 謝らせたかったわけじゃない。

 責めたかったわけじゃない。

 ただ、知っていてほしかった。

「ねえ、深谷」

 深谷のことを庇ってくれる優しい人がちゃんといる。

 そのことを深谷には伝えるべきだと思った。

 それこそが彼が知っておくべき真実だと思った。

「さっき莉音さんに、普通は友達にわざわざ仲が良いって言わないんだよって教えてもらったの。深谷もそういうタイプ?」

「な、んで、今それ聞くの」

「仲良くなりたいって言ってもいいのかなと思って、深谷に」

 思わずといった様子で深谷が顔を上げた。

 涙で濡れた不安そうな目で見上げられて、架月までなぜか泣きたくなる。今、深谷のことを泣かせているのは自分だ。泣かせている方まで泣くなんておかしい。おかしいということは分かっているのに、緊張の水位が上がりすぎて勝手に目か溢れた水が滲む。

 誰かと一緒にいると、自分の気持ちがどんどん自分で制御できなくなる。

 だから一人でいるときが楽しいのに、ごく稀にそれでも一緒にいたいと思ってしまう人と会ってしまう。

 深谷純もその一人だということに今気が付いた。

 相手を泣かせても、自分が泣きそうになっても、それでも深谷と友達になりたい。

「深谷と仲が良い友達になりたいって言ってもいい?」

「由芽先輩のこと疑ったの俺なんだよ」

 優花と莉音が頑なに隠していたことを、深谷はあっさりと白状してしまった。

「うん……。それで、えっと、言っちゃダメ?」

「俺、由芽先輩に意地悪したんだよ」

「いいよって言ってよ、お願い」

 深谷は小さく嗚咽を呑んでから、「……いいよ」と消え入りそうな声で呟いた。

 深谷はきっと由芽に意地悪をしたかったわけではない。

 自分を守ろうとして取った行動が、結果として由芽への意地悪になってしまって、深谷自身が一番驚いているのではないだろうか。

 深谷は自分の顔を手の甲で乱暴に拭って、「てか授業に遅れる」と呟いた。

 再び顔を上げたとき、その表情はいつも通りの凜としたものに変わっていた。そのまま足早に廊下を歩き出した深谷を見て、架月も慌てて歩を進める。

 彼と肩を並べると、深谷が不意に言葉を零した。

「架月は中学校まで普通学級にいたんだっけ」

「うん、そうだよ」

「それなのに俺と友達になりたいって言うんだ」

 変わってるねと囁かれて、その意味が全く分からなくて困ってしまう。

 変わっているという評価はよくもらう。褒め言葉としても、お叱りの言葉としても、しょっちゅう架月はその一言を浴びている。

 でも今、深谷から投げられた「変わってるね」は意味が分からなかった。

 さりげなく付けられた「それなのに」という接続詞もピンとこない。

「……なっちゃダメ?」

 不安になって尋ねたら、深谷は小さく笑った。

 ようやく笑ってくれた。いつも通りの彼の笑顔だ。

「架月がいいなら、ダメではない」

 深谷は結局、自分が架月と友達になりたいかどうかは最後まで言わなかった。

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