深谷純失踪事件
第20話 目に見えない壁
六月の上旬、初夏の気配が近づいてきた晴天の昼のこと。
明星高等支援学校の体育館は、賑やかな活気に包まれていた。今日は地域交流販売会といって、学校の近隣に住んでいる地域の方々や保護者を学校に招いて作業学習の時間に制作した商品を販売するというイベントの日だった。
「いらっしゃいませー!」
体育館の入り口でお出迎えをしているのは、二年生リーダーの優花が指揮を執る接客班のメンバーだった。入り口から入ってきたお客さんに、活動報告のパンフレットと来場者プレゼントの手作り栞を渡す。パンフレットはピッキング班が製本し、手作り栞は清掃班が集めた牛乳パックで作った再生紙をもとにして制作したものだ。
接客班のお出迎えを受けて、お客さんたちは体育館のあちこちに設置してあるブースへと進む。農園芸班が育てた野菜を売っていたり、食品加工班が焼き菓子の詰め合わせや菓子パンを並べていたり、一年生が校内実習で作った手芸品を販売していたり、三年生が近隣の農業学校と協力して作成したドライフルーツを売っていたりと、かなり大規模な即売会だ。
架月たち清掃班は、農園芸班の販売ブースに混ざって、お客さんが購入した野菜を袋詰めしてお渡しするという作業の手伝いをしていた。
農園芸班の野菜販売は人気で、客足が途絶えることがない。
そんなブースにおいて、ひときわ目立っていたのは深谷純だった。
彼は大勢の客足に一切臆することなく、油断すると乱れそうなほど人の多い列を手際良く捌いている。周囲の先輩たちと比較しても遜色ないほど要領よく動き、そのおかげで深谷の担当している列はかなり盛況になっていた。
会計が滞ることは一切なかった。それは深谷の列の会計を担当しているのが、ピッキング班のリーダーである折原利久だったからだった。
利久は客が購入した商品を深谷から伝えられ、電卓で合計金額を出す。しかし彼は電卓を叩くよりも早く脳内で暗算できてしまっているようで、合計金額を口走ったあとから電卓のイコールボタンを押すという会計の仕方をしてはお客さんに「すごい」と目を見開かれるという一発芸のような真似をしていた。
そんな二人の様子にぼーっと見入っていたら、「架月!」と隣で野菜詰めをしていた由芽に強かに肩を叩かれた。
「サボらないよ、ちゃんと働く!」
「は、はい。ごめんなさい」
架月も最初こそ深谷列の手伝いをしていたのだが、ちょっとでも気を抜くと周囲の時間が格段に進んでいて、自分だけが立ち竦んでいるということが多くなってしまい、農園芸班の佐伯教諭に「はい、移動」とペアを組んでいた由芽ごと担当移動をさせられてしまった。普段の作業学習に比べて、かなりシビアに仕事態度を見られている。
ぐっと気を引き締めて注文された野菜を袋詰めしていると、体育館に見慣れた人影が入ってきた。
にこやかに笑う優花から来場者グッズをもらっていたのは、架月の母親だった。
「いらっしゃいませ、スリッパお持ちですか? 外靴はこちらの袋に入れて、こちらでスリッパに履き替えてお進みください」
流暢に会場案内をする優花を見て、母親はしばらく呆気にとられていた。
入り口から進まない母親に、架月は大きく手を振る。
「架月の知ってる人?」
「僕のお母さんです」
「架月のお母さーん! 野菜買って!」
由芽が体育館中に響き渡る大声を上げて、架月と一緒になって両手を頭上で振る。
びくっした母親が歩み寄ってくるのを待って、架月は「この人が由芽先輩だよ」とご機嫌そうな由芽を紹介する。ご紹介にあずかり、由芽は得意げに胸を張った。
「架月と結婚してあげます」
「……うぁ……」
キスで怒られた記憶が蘇って、架月は母親にも怒られるのではないかと身構えてフリーズしてしまう。しかし母は、ぽかんとして由芽を眺めながら「……この子が……」と呟いた。
――三年生の先輩なんだから、「この子」って呼んでほしくないなぁ。
そんなことを思ってしまったが、由芽は一切気にせず「架月のお母さん、野菜どうぞ」と野菜のカートが並べられている方に指を差す。
母親は大根とジャガイモ、ネギを買ってくれた。架月は野菜の袋を渡しながら、母親に話しかける。
「電車で来たの? 暑い中、ご足労おかけしました」
「そういう言葉は家族には使わないよ、架月」
「うん」
「はいはい、気を付けようね」
「『はい』は一回だよ」
「それも言わなくていいの」
母親は苦笑して、近くにいた佐伯と木瀬に軽く頭を下げる。
そのまま踵を返した母親を、「あ、待ってください」と呼び止める人間がいた。
「架月のお母さん、電車で帰るんですか?」
声を掛けたのは深谷だった。彼はわざわざ販売ブースから出てきて、母親が持っていた野菜の入った透明ビニール袋をサッと取り上げる。
「野菜持ったまま電車乗るの、恥ずかしくないですか? ちょっと待っててください、食品加工班から紙袋もらってくるんで」
母親がぽかんとしているうちに、深谷は食品加工班のブースに走って行って三年生の先輩に事情を説明し、焼き菓子の詰め合わせを入れる茶色の紙袋を一枚もらってきた。
その紙袋にビニール袋ごと野菜を入れて、棒立ち状態だった架月に「はい、これ」と紙袋を渡す。
――どうして深谷が渡さないんだろう?
怪訝に思って、架月は尋ねる。
「なんで僕に仕事押しつけるの?」
母親が「ちょっと!」と架月に小声で囁いてきたが、いくら待っても「ちょっと」の後の言葉は継がれない。何なんだ、急に。
深谷はそんな母親に「大丈夫、慣れてます」と軽やかなフォローを入れてから、架月の肩を叩いてきた。
「お前が渡した方がいいじゃん、せっかく母親が来てくれたんだから」
なるほど、そういう考え方か。
架月が「分かった」と頷くと、深谷はいそいそと販売ブースに戻っていく。
紙袋に包まれた野菜を再び母親に差し出すと、彼女は目を丸くして深谷の背中を視線で追っていた。
「お母さん?」
「……どこが障害なの、あの子」
母親がよく分からないことを呟いたので、架月は小首を傾げる。
「知りたいなら、先生に聞けば?」
架月に指摘されて、母親はハッと我に返ったようだった。決まり悪そうに目を伏せて、それから架月に差し出された野菜をしっかりと両手で受け取った。
「これは夕食でお父さんに食べてもらおうね。販売会、頑張って」
「うん」
体育館を出て行く母親は、どこか気落ちしているような丸い背中をしていた。
しかし架月は、今もらった「頑張って」を実現させなければとそんな母親からさっさと背を向けて、自分の担当ブースへと小走りに戻る。
相変わらず深谷の販売ブースは盛況である。深谷は地域の方らしいおばあさんにわざわざ呼び止められ、熱の入った口調で言葉を掛けられていた。
「頑張ってね」
その瞬間、深谷の表情がわずかに強ばった。
社交的な彼にしては珍しく、まるでおばあさんからの一言から逃げるように彼は後ろを向いて野菜の在庫整理を始めてしまう。おばあさんはそんな深谷の隣にいる利久にも「頑張って」と声を掛けたが、流暢に電卓を叩いていた利久がその一言をきっかけに「頑張ってね、利久くん。頑張らないとみんなに置いて行かれちゃうでしょ」と普段通りの独り言をスタートさせると、それ以上は何も言わず別のブースに行ってしまった。
「ありがと、利久先輩」
深谷が消え入りそうな小声で囁く。利久は深くは追及せず「大丈夫」と聞いているんだかいないんだか分からない生返事しかしなかったが、架月はどうしても今の一連の会話が不思議で仕方がなかった。
だから思わず、口を出してしまったのだ。
「ありがとうって言うべきなのは、今の場合はおばあさんに対してだったんじゃ?」
「……は? 何でだよ、絶対違うだろ」
珍しく深谷は吐き捨てるような口調で言った。
深谷が何かに怒っている姿を見たのは初めてで、架月はそれ以上は何も言えなかった。
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