第18話 謎の在処

 放課後、架月は美術室前の廊下で小寺が来るのを待っていた。

 彼女はいつも部活が始まって少し経ってから顔を出す。部活動が始まる時間になっても架月が一人で廊下に立っていたら、美術室の扉が開いて利久がひょいっと顔を出した。

 利久は部活中はいつも、一度も顔を上げずに一心不乱にペンを動かしているはずだ。そんな彼が廊下に出てきたものだから、驚いて「どうしたんですか?」と尋ねると、利久はいつもの淡々とした無表情でぽつりと答える。

「おいで」

「え? ……あ、僕ですか?」

「隣いいよ」

「ありがとうございます。先生を待っているので大丈夫です」

「大丈夫です」

 利久は架月の言葉を繰り返し、ふっと興味を失ったようにそれ以上は何も言わず美術室へと引っ込んだ。

 ――利久先輩は自分が隣にいてもいなくてもどうでもいいと思ってたけれど、いないときはちゃんと声を掛けてくれるくらいには気にしてくれるのか。

 部活で席が隣同士だという縁がしっかり繋がっていたことを知れて、肺が広がったように呼吸がしやすくなる。自分がいてもいいと確信できる居場所が増えているのは嬉しい。

 しばらく待っていると、小寺が筒状に丸められたポスターをいくつか抱えて廊下を曲がってきた。

「あれ? 架月くん、どうしたの?」

「先生、お話しがあります。今、お時間よろしいでしょうか?」

「いいけど……あ、架月くん。見てこれ、今日学校に届いたんだよ」

 丸まったポスターを一本差し出され、開いてみてと笑顔で勧められる。促されるままにポスターをくるくると開くと、そこにはたくさんの子供たちが青空の下で遊んでいる絵が印刷されていた。

「これ、由芽ちゃんが描いた絵がポスターに選ばれたんだよ。すごいでしょ?」

「え、すごいです。上手です」

「ねー。あとで美術室とか廊下とかに貼るから、架月くんも手伝ってね」

「はいっ」

 ポスターの上部には『三月二十一日は「世界ダウン症の日」』と印刷されている。

 ダウン症。文字面だけで病気か障害の名前だということは分かる。でも、どういうものかはいまいち分からない。

 ――この名称も、由芽を構成するものの一つなのだろうか。

「見てくれてありがとうね、架月くん。それで話って何?」

 ああ、そうだ。促されて、ようやく本来の目的を思い出す。

 わざわざ小寺を待っていたのは、彼女にお礼を言いたかったからなのだ。

「小寺先生、教えてくれてありがとうございました」

「ん? 何? 卒業式みたいなこと言っちゃって」

「まだ一年生なので卒業しません」

「でしょ?」

「でも、僕に言葉遣いのことを教えてくれて助かりました。深谷の前で『犯行』って言わなくてよかったです」

 小寺はぎょっと目を剥き、慌てて視線を左右に彷徨わせる。

「架月くん、それ以上は美術準備室で聞くよ」

 小寺に誘われて、美術室の隣にある美術準備室へと入る。普段は生徒が入ってはいけないその教室は、たくさんの画材や教材、過去の生徒たちの作品などが大量に保管してある。

 物置のような部屋に置いてあったソファに、小寺と向かい合って座る。

 この教室には廊下側に窓がなく、総合文化部の活動でにぎやかな美術室には二人分の声は聞こえない。小寺がこんな散らかった教室にわざわざ架月を入れたのは、明らかに内緒話をするためだった。

「深谷くんから何か聞いたの?」

「何も聞いてないですけど、みんなのロッカーの荷物を動かしたのは深谷なんですよね?」

「……誰かから説明された?」

 架月は首を横に振り、自分が知っていることを順序立てて説明していく。

 まず深谷に対して語ったのと同じように、由芽が潔白であることを証明した。手紙のくだりでは小寺が思わずといった様子で頬を緩ませて「……ほぅー?」と謎の相槌を打ってきたけれど、小寺も概ね架月の予想には同意を示してくれた。

「由芽ちゃんが潔白だっていうのは分かったけど、そこからどうして深谷くんに繋がるの?」

「ロッカーの荷物が動かされていた日、僕たち清掃班がみんなの荷物を元のロッカーに戻したんです。僕も自分の荷物を戻したんですけど、そのときロッカーに置いていた僕のアナログ時計の時間がずれていました。本来の時間は九時二十分だったんですけど、時計は四時四十五分を示していたんです。およそ七時間二十分もずれています」

「何でだろう、それは。電池が切れたとか?」

「違います。たまたま七時間二十分のずれが生じたわけではなく、あのとき僕のアナログ時計は長針と短針が反転していたんです」

「反転?」

 架月は自分の親指と人差し指を立てて、L字を斜め下に倒したような形を作ってアナログ時計の文字盤を再現した。

「九時二十分の長針と短針を逆にすると、四時四十五分になるんです。僕のアナログ時計って、衝撃を加えるとすぐに針がずれちゃうんですよ。おまけに僕、廊下を通る人が時計を見られたら便利かなと思って、ロッカーの縁ぎりぎりに時計を置いてたんです。こないだも僕がロッカーにぶつかっただけで時計が落っこちちゃったくらいで……だからおそらく、あの日もロッカーの荷物を動かした人は時計を床に落としちゃったんだと思います」

 みんなのロッカーの荷物を動かしていた途中で、おそらく肘を引っかけるかロッカーを揺らすかしてしまったのだろう。架月自身が、そのくらいの軽い衝撃で落下してもおかしくない位置に時計を置いていたという自覚はある。

「床に落ちたとき、時計の針はずれてしまったんです。その生徒は時計の針を直そうとして、廊下にかかっているアナログ時計を見ながら二つの針を同じ形になるように動かしました。そのとき、長い針と短い針を逆にしてしまったんです」

 そういう解釈をすると、いくら聞き込み調査をしても浮かんでこなかった犯人像に一つの情報が追加されるのだ。

「ロッカーの荷物を動かした人は、アナログ時計を読むのが苦手なんだと思います」

 初めて架月が卒業制作の時計を学校に持ってきたとき、可愛い可愛いと大喜びした莉音が深谷にも時計を見せようとした。

『純にクイズです。今は何時何分でしょう?』

 しかし深谷は、架月の時計からスッと目をそらして自分のデジタル腕時計を見て答えた。

 架月がデジタルのタイマーを見て残り時間を理解するのが苦手なのと同じように、深谷はアナログ時計を見て時刻を読むのが苦手なのではないか。

 そのことに架月が思い当たったのは、彼が実際にアナログ時計の針を合わせるのを間違えたのを目の当たりにしたときだった。昼休み、深谷は架月に時計を合わせてほしいと頼まれて、十時三分に時計を合わせた。

 そのときの本当の時刻は十二時五十分だった。十時三分は、本来の時間から長針と短針をひっくり返した時間なのである。

 おそらくそのときも、彼はアナログ時計の長針と短針の違いが分からずに変な時間で合わせてしまったのだろう。

「それ、深谷くんに言ったの?」

 質問した小寺の声は、わずかに強ばっていた。

 『それ言ったの?』が意味するところは、『アナログ時計が読めないから深谷が犯人って言ったの?』ということだ。

 架月が首を横に振ると、小寺はホッとしたように肩から力を抜く。その反応を見て、言わなくてよかったと今更ながら架月も安堵した。

 きっと自分に与えられていた言うか言わないかの二択は、失敗したら二度と取り返しがつかないものだったのだろう。

 踏み間違えなくて本当によかった。

「だから僕、小寺先生に『犯行』や『犯人』という言葉を使うなと言ってもらえてよかったです」

 最初にそう言われたとき、架月はその意味が理解できなかった。

 だって以前、四色紙吹雪事件と名を付けられた一件を調査していたときは、教師である佐伯が積極的に「犯人」だの「捜査」だのといった言葉を使っていた。

『前回の紙吹雪は、結局先生がやったことだったでしょ?』

 前回は、架月がいくら調査をしていたとしても犯人と対峙することはなかったのだ。架月が周囲の生徒たちに「今、この事件を追っている」と事情を説明しても、事件について知っていることを教えてほしいと迫っても、そうやって聞き込みをしている友人たちの中に絶対に犯人はいなかった。

 しかし、今回は違ったのだ。

 架月が「何か知らない?」と聞いた友人の中に、みんなの荷物をごちゃごちゃにした犯人がいるかもしれないという状況だったのだ。

「僕は由芽先輩にロッカーを弄られていたけれど、由芽先輩に悪意があるとは思っていません。由芽先輩は意地悪のつもりじゃなかったって分かってるからです。やったことは悪いことでも、そこに悪意があるかどうかはその人次第だと思います。それなのに僕がみんなのロッカーをごちゃごちゃにした人に『犯行』とか『犯人』とか言っちゃったら、その人を責めてしまうことになります」

「架月くんは、みんなの荷物を動かした人に悪意はなかったと思ってるの?」

 小寺の祈るような問いかけに、架月は小首を傾げる。

「僕が深谷のことを決めつけるのは違うと思いますけど」

 小寺ががっくりと肩を落とした。

「でも、先に深谷の荷物に触ったのは僕なんです」

「……ん?」

「深谷に悪意があるとかないとか、どっちでもいいんです。どっちにしろ、バタフライエフェクトの最初の羽ばたきは僕です」

「えぇと……ずいぶん難しい言葉を知ってるねえ、架月くん」

「ありがとうございます」

 律儀に頭を下げながら、架月は由芽から一通目の手紙をもらった日のことを思い出していた。あの日、架月は深谷のロッカーの荷物を床に落として、勝手に彼のファイルの中身を見てしまった。

 そう、きっと。

 あのふりがなだらけのプリントが挟まったファイルは、深谷のものだったのだろう。

 なぜか深谷は、そこで頑なにそのファイルを自分のものではないと訴えていた。だから架月はてっきり由芽がやったのかと思って、深谷にそういうストーリーを与えてしまった。それが最初の羽ばたきだ。

 人の気持ちを想像するのは苦手だ。だから常に誰かに答え合わせをしてほしいけれど、この推測だけは誰からのチェックももらわずに自分の胸にだけ秘めておかなければいけない気がする。

 これは、ただの架月の想像だ。

 大人たちから「考えたら分かるでしょ」と言われても分からない架月が、自分の想像力だけで引き出した拙い仮説だ。

 ――もしかして深谷は、架月に勝手にストーリーを与えられて後に退けなくなったのではないだろうか。

 架月は余計なことをたくさん言ってしまった。自分が由芽にロッカーを弄られていること、だから深谷のロッカーも弄られたのではないかということ、挙げ句の果てに「てっきり自分のロッカーしか触られないと思っていたのに」ということまで並べ立てた。深谷は

 だから深谷は、何としてでも「由芽は架月以外のロッカーも触る」ということを事実にしなければならなくなったのではないか。

 架月に対して、由芽はみんなのロッカーを触る先輩だと思わせたかった。だからその日の放課後、みんなのロッカーの荷物を動かしたのだ。

 そこまでして、深谷は架月にふりがなだらけのプリントが自分のものであると知られたくなかったとしたら?

「……自分の苦手なことがバレるのって、そんなに悪いことですか?」

 架月の質問に、小寺はわずかに小首を傾げた。

「僕が教室でデジタルのタイマーが読めないって言ったら、先生がアナログのタイマーがあることを教えてくれました。自分が何が苦手なのか伝えておいた方が、みんなに助けてもらいやすくなるじゃないですか」

 そもそもアナログ時計だって、架月に直してと言われたときに「時計が読めないから直せない」と断れば、ロッカーを弄ったのは自分であると架月にバレなくて済んだのに。

 深谷が必死で隠そうとしたことに、隠すほどの意味が見いだせないのは架月がおかしいのか?

「助けてくれる人がいる場所でなら言えるよね」

 長い間逡巡してから、小寺は遠慮がちに口を開く。

「でも『これが苦手だ』って言ったとき、ただ周りから馬鹿にされるだけで終わったらどうだろう? 苦手なことを知られて、それを材料にして攻撃するような人たちが周りにいるときは?」

「そういう人がいるときは言いたくないですけど、この学校にそんな人はいないじゃないですか」

「うん、いないよ」

 小寺は切なげな笑みを浮かべて頷いた。

「でも、それに気付くのにも個人差があるからさ」

 ――だとすれば、僕よりもよっぽど聡い深谷はとっくに気付いていてもいいじゃないか。

 小寺がくれた返事は要領を得なくて、自ら答えを求めたくせに架月は与えられた言葉を持て余してしまう。

「僕、深谷に『ロッカーの件の調査はやめた』って言った方がいいでしょうか?」

「な……っ、え? や、やめた方がいいよ、カマかけてるんじゃないんだから」

 焦った小寺に前のめりで止められて、架月は途方に暮れて天を仰いでしまう。だって自分はこのままじゃ、深谷にずっとあの警戒するような目を向けられ続けてしまうじゃないか。

 架月が何かをやらかしたときに相手に執拗に謝ってしまうのは、相手からの「いいよ」を聞いてホッとしたいからだ。架月にとって謝罪の場とは、反省の機会ではなくわだかまりをリセットできる救済の時間である。

 架月は今まで幾度となく、誰かを怒らせては謝罪でリセットして――もしくは、リセットしたということにしてもらって――何とかその場をやり過ごしてきた。

 でも今回は、それが通じない。

 深谷にリセットを求めようとすれば、深谷がやったことに架月が気付いているとバラしてしまうことになる。小寺がこんなにも焦って止めるということは、きっとそれをやらかしたら二度と深谷と仲直りできなくなるのだろう。

 ――だけど、このまま深谷がずっと何かに怖がっているのを見るのは嫌だな。


 途方に暮れながら美術室に戻ったら、入り口付近の席でちょうど莉音が漫画の模写をしていた。

 そういえば莉音にもかなり協力してもらっていたのに、その後どうなったか調査の進捗を報告するのを忘れていた。

「莉音さん、今いい?」

「いいけど何さ」

 きっと莉音に伝えたら優花にも自然に伝わるだろう。

 そう思って、架月は彼女に取り急ぎ大事なことだけを伝えることにした。

「ロッカーの件で色々聞いてたでしょ、僕。あれ、調査するのやめたから」

 どうして?と聞かれたら何と言えばいいんだろう。

 彼女の返事に身構えていたら、架月の言葉を聞いた莉音はパッと破顔した。

「そっか、よかった」

 安堵するような柔らかい笑顔に、ドキリとする。

 その瞬間、架月は気が付いた。

 ――自分が解くべき謎は、これだったんだ。

 由芽の冤罪を晴らすための証拠とか、真犯人が誰であるかとか、そんなことを考える前によっぽど大事なヒントが最初っから鼻先に吊されていたのだ。

 本来であれば、真っ先に気付くべきだった。

 でも、まだ全然遅くない。

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