第16話 優等生
翌朝、架月は更なる聞き込み調査を進めるべく動いていた。
目撃情報は多い方がいい。優花と莉音からはうまく情報が引き出せなかったけれど、作業学習が始まる前の時間であればロッカーの前にはたくさんの生徒がいたはずだ。架月のように遅刻をしなければ、ではあるが。
だから次に聞き取りをするのは、絶対に遅刻をしない知り合いがいいと思っていた。
「ねえ深谷、ちょっといい?」
深谷はいつものように誰よりも早く朝学習に取り組んでいた。架月がおずおずと声を掛けると、彼はきょとんとして顔を上げた。
「いいけど、どうしたの」
「僕、今みんなの作業学習用ロッカーがぐちゃぐちゃにされたことを調べてるの。由芽先輩が疑われたままだと可哀想だと思って調査してるんだけど、深谷はそのことについて何か知らない?」
友達が多くて視野が広くて、何でも気が付く深谷ならば何か自分の気付いていないことを見ているのではないか。
そう思って尋ねたら、深谷がサッと青い顔をした。
いつも軽やかに笑っている彼らしくない、警戒心が露わに滲んだ表情を真っ直ぐに向けられてドキリと心臓が跳ねる。
「……何で俺に聞いたの?」
「え?」
「どうして架月は最初に俺に聞くの」
机に置かれていた深谷の両手がぎゅうっと拳に握られて、その拍子に朝学習のプリントがぐちゃぐちゃに潰されてしまった。
――まずい、なにか深谷が怒っている。
自分よりも賢いから何でもよく気が付く深谷が、架月には絶対に気付けない何かを読み取ってしまっている。
「な、なんで怒るの? プリントぐしゃっとしちゃダメだよ、せっかく解いたのに――」
挽回したくて深谷の手の中からプリントを救出しようとしたら、架月から隠すように彼の両手がプリントを机の下に隠してしまった。
「……解いてない」
震える声が耳朶を打つと同時に、架月は見てしまった。
机の下に隠す寸前に架月の目に入ったプリントは、小学校低学年レベルの漢字問題だった。深谷が長時間ずっと向き合っていたはずのプリントは、まるで印刷したてのような白紙のままだったのである。
「深谷」
呆然としてしまった架月を軽く押しのけて、教卓付近で二人の会話を見守っていた佐伯が穏やかに囁く。
「架月にそんなつもりはないぞ」
そんなつもりって、どんなつもりだろう。
架月本人が気付いていないことを、なぜか佐伯が保証している。深谷を怒らせた張本人であるはずの架月はただ黙ったままなのに、なぜか傷ついたはずの深谷の方が譲ることを強いられている。
深谷は自分よりも出来る人だから、出来ない人である架月に傷つけられたとしても許してやらないといけないのだろうか。
そう思うと、なぜか傷つけたはずの架月まで泣きそうになってしまった。
深谷に許してもらわないといけない自分が不甲斐なくて、深谷には色々と助けてもらっているのに恩を仇でしか返せないことが情けない。
「ごめん、僕が悪かった」
謝ったら、深谷がふっと険しい眼差しを緩める。
咄嗟に浮かべた苛立ちの表情を誤魔化すように、彼がぎこちない苦笑を浮かべた。
「何に謝ってるのか納得してないだろ、架月は」
「納得できなくても、友達に悪いことをしたらダメなんだよ」
そう言うと、深谷が虚を突かれたように目を見開く。
許してもらえるかなと期待しかけて、そんなこと期待してはいけないだろうと自分を律する。許してくれるかどうかは関係ない。許してもらえなくても、仲良くしたい友達には謝らなければならない。
深谷から言葉が返ってくるのを固唾を呑んで待っていたら、彼はやがて気圧されるように俯いてしまった。
「……ごめん、架月」
今にも泣き出しそうなか細い声で、深谷は小さく呟いた。
「ロッカーの荷物をぐちゃぐちゃにしたの、由芽先輩じゃないよ」
――それは知ってるけど、どうしていきなりそれを?
唐突な言葉に呆けていると、そんな架月の横で佐伯がぎょっとしたように目を剥いた。佐伯は俯いたまま動かなくなってしまった深谷の傍らに屈み込み、背中を支えるようにして立たせて二人で教室に出て行ってしまった。
机の引き出しに中途半端に押し込まれていたプリントが、ゆらりとバランスを崩して床に落ちる。呆気にとられていた架月はそれを見てようやく呪いが解けたように動けるようになった。ぐちゃぐちゃに握り潰されたプリントを拾い上げ、皺だらけのそれを丁寧に机の上で引き延ばした。
深谷の名前だけが書いてある真っ新なプリントを見て、胸が不穏にざわついた。
――この空欄だらけのプリントのように、自分は何か大事なことを見逃している気がする。
その後、深谷は午前中の授業が終わるまでクラスには合流しなかった。
佐伯に問いただしても何も教えてはくれず、給食の時間に戻ってきた深谷はすでに普段通りに優等生として友達の輪に入っていった。架月が声を掛けても普段通りの笑顔で「ん?」と小首を傾げられ、その笑顔に苛立ちの表情よりも強い拒絶を感じ取ってしまって踏み込めない。
悔しかった。
自分が深谷を傷つけたという手応えはあるのに、架月は完膚なきまでに蚊帳の外に追いやられてしまった。
***
昼休みの職員室で、佐伯はじっと自席に座って一学年の入学願書を読み込んでいた。
程なくして給食当番への下膳指導を終えた木瀬がやってきて、そんな佐伯の隣の席へと腰を下ろす。
「それ、深谷の入学願書ですか?」
木瀬に尋ねられて、佐伯は無言で自分が手にしていた願書を差し出す。
渡された書類に目を落として、木瀬は思わず笑い声を零した。
生徒名:深谷純(診断名:軽度知的障害)
受験番号:48
入試結果:学力試験 三科目合計64点、三十位/五十六位
面接 A判定
実技試験 一位/五六位
【中学校からの入学願書より】
A判定項目:なし
B判定項目:【整理整頓】
C判定項目:【明朗性】【体力・根気】【協調性】【礼儀】【集団行動】【道徳心】【情緒の安定】
・気持ちのアップダウンが激しく、相手によって態度を変える。交流学級の生徒から言われたことを引きずり、自分が在籍する支援学級にいる自分よりも能力が低い生徒にきつく当たる。
・思い込みが激しく、自分が常に被害を受けているという考え方をする。交流学級の生徒からの些細な言葉の揚げ足を取って、自分がいじめられたと思い込む。
・聴覚の過敏さがあり、全校集会や交流学級での授業の際はイヤーマフを手放さない。運動会や文化祭などの学校行事には参加できず、別室対応となった。
・ストレスがかかった際に物に八つ当たりをして、教室の共有物(カレンダー、ボードゲーム、絵カードなど)を壊したことがあった。また、自他の区別がついているにも関わらず他人の生徒の持ち物を隠して、周囲の友達を不穏にさせることがある。
・気持ちが乱れた際、自傷をする癖がある。(髪や眉毛を抜く、腕に爪を立てて抓るなど)別室で一時間ほどクールダウンの時間を設けて対応中。
・自分の気持ちを伝えることが苦手で、不安なことや気掛かりなことがあっても本心を言わない。言葉で表現できず教室の椅子を蹴る、校舎から逃げようとするなどといった行動で表現する。
・中学二年生の秋、登校中に通学経路を外れて行方不明になった。二時間ほど学校周辺を捜索し、近隣の自然公園に隠れていたのを発見された。
・勉強への苦手意識が強い。出来ないことを見抜かれるのが嫌で、学習への参加を拒む。
「何度読んでも別人の願書みたいですね」
書類を机に放って、木瀬は嘆息を漏らした。
「そもそも中学校からの申し送りでA判定が無しって、本来だったらあり得ないですよ。A判定が無くて辛うじて整理整頓でB判定をもらっているような生徒が、うちの入学試験の面接でA判定を取ったり実技試験で一位になったりなんて出来るわけないじゃないですか」
「入学前に書類だけ読んだとき、どんな奴が入ってくるんだって警戒してたもんな」
どこか懐かしむように、佐伯も苦笑を浮かべた。
「ところがいざ入ってきたら、願書とは真逆のような優等生だった。学習には何でも積極的に取り組むし、自分だけじゃなくて周囲の友達にも気を配る余裕があるくらいで」
「そうですよー。ってか、この『イヤーマフを手放さない』って本当なんですか? 深谷がイヤーマフ持ってるところなんて見たことないんですけど」
「そこもなんだけど、俺が気掛かりなのは交流学級の生徒についての記述なんだよ」
「と言いますと?」
佐伯は木瀬の机に身を乗り出して、指先で『思い込みが激しく、自分が常に被害を受けているという考え方をする。交流学級の生徒からの些細な言葉の揚げ足を取って、自分がいじめられたと思い込む』という部分を示した。
「これ、本当に深谷の思い込みだったと思うか?」
サラリと投げられた指摘に、木瀬が小さく息を呑む。
「子供といってもさすがに障害がある子をいじめるのはよくないと理解できるから、利久や由芽のようにパッと見て普通と違うことが分かる子たちって意外と受け入れてもらえるんだよ。ターゲットになりやすいのって、一見すると普通の子にしか見えなくて、おまけにちゃんと他人からの攻撃に傷つくことができるくらい勘が鋭い子が多いんだよな」
「深谷の思い込みじゃなくて、中学校の先生たちがいじめだと認めなかったっていうことです?」
「そこまで断言はできないけども。ただ、相手の子が『誤解だ』とか『そんなつもりはなかった』とか言って反省すれば、先生も深谷には『誤解だったらしいよ』とか『そんなつもりはなかったから許してあげて』としか言いようがないだろ。深谷は言葉で伝えれば理解できる奴だから、大人側も言葉で説得したくなってしまう」
木瀬はもう一度、書類に目を落として一文ずつを読み返す。
見方を変えると、そこにある記述は中学時代の深谷のSOSにも見えてくる。
「……このイヤーマフの記述も、そうなると怪しくなってきますね」
聴覚過敏ではなく、他の生徒たちからの悪口を聞きたくなくて聴覚を遮断していたのではないか。行事に参加できなかったのは、自分に攻撃してくる子たちと一緒にいるのが怖かったからでは。
「まあ実際、何も分からないけどな。俺たちはまだ一ヶ月とちょっとしか深谷と一緒に過ごしていないから」
書類を鍵付きキャビネットに片付けながら、佐伯は疑心暗鬼になりかけている木瀬に対してそんなことを言う。
「俺たちが深谷にうまく取り繕われているだけで、この書類にある記述が全部正しいっていう場合だってある。ここが深谷のターニングポイントだな。あいつは今、優等生のままでいられるか問題児に戻ってしまうかギリギリのラインにいるよ」
「……本当に深谷を口止めしてよかったんですか? あいつ、自白したんでしょ?」
遠慮がちに、木瀬は切り出した。
「少なくとも架月には本当のことを言った方がいいんじゃないですか? 深谷にとっては自白のつもりだったけど、架月は全然ピンときてないですよ。もう一回、本人からちゃんと説明させるとか?」
「そんなことさせたら、深谷は明日から学校に来なくなるぞ。架月よりも深谷の方がよっぽどメンタル弱い」
「でも、架月は納得しないですよ。あいつ今、犯人探ししてるらしいですし」
つい昨日、小寺から聞いた情報である。余計なことをしやがってと架月に対して苦々しい気持ちになってしまったが、元はといえば架月の行動だって「由芽の疑いを晴らしたい」という善意からきているのだ。
「それに、このままなあなあになったら深谷も反省の機会を失っちゃうんじゃ――」
「誰からも責められなくても、反省することはできるさ」
佐伯はのんびりと椅子の背もたれに体重を預けながら、穏やかに笑った。
「もう少しだけ様子を見てみよう。俺の見立てだと、あの二人のコンビは悪い関係性には転ばんよ」
「はあ……」
木瀬はいまいち腑に落ちていない表情で、曖昧な相槌を口から零した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます