第15話 アドバイス

 翌朝、架月は学校に到着するや否や由芽の姿を探した。

 由芽はいつも奉仕活動に参加しているので、朝一で彼女と会うには校舎のあちこちを探し回らなければならない。

 校舎中を当てもなく動き回った末に、架月は体育館へと繋がる渡り廊下で由芽と出会った。彼女は渡り廊下の掃き掃除担当だったようで、数人の三年生女子たちと一緒に箒を動かしていた。

 架月が渡り廊下に入っていくと、由芽はパッと顔を上げて破顔した。

「架月、おはようっ」

「おはようございます」

 いつも通り、笑顔で挨拶をしてくれたことにホッとする。昨日は結局、珍しく彼女と言葉を交わすこともできなかった。

「一緒に掃除する? いいよぉ」

「そうじゃないです」

「そうじゃないって言っちゃダメでしょ」

「は、はい」

 これぞ由芽との会話という感じだ。一日空いただけなのに懐かしくて嬉しい。

 しかし普段通りにご機嫌だった由芽の表情は、次の瞬間に一変した。

「昨日ロッカーをぐちゃぐちゃにしたのは、由芽先輩だったんですか?」

 由芽の表情がサッと凍り付く。

 そのまま彼女は手にしていた箒を床に落とし、俯いてフリーズしてしまった。

「由芽先輩?」

「架月は私が嫌いなの!」

 きっぱりと吐き捨てられて、架月は「えっ?」と動揺した。

「な、何でですか。そんなことないです」

 床に落ちた箒を拾い上げてやっても、全く受け取らずにその場で地団駄を踏まれてしまう。由芽の顔を覗き込むと泣き出す寸前のようにぐちゃぐちゃに歪んでいて、架月の背中にも冷たい汗が滲んだ。

 ――ただ由芽の口から本当のことを聞きたかっただけなのに。

 呆然としていると、由芽がくぅっと喉の奥から高い呻き声を上げた。

「ごめんなさいしたから終わりなのっ」

「……ご、ごめんなさいしたんですか? 誰に?」

「先生に!」

「由芽先輩がやったんです?」

「違う、でも謝ったから終わり!」

 その物言いには覚えがある。自分に悪いことの心当たりがないのに反射で謝ってしまうのは、架月もよくやりがちなことだ。一刻も早く謝って、相手から許してもらいたい。この状況を終わりにしたい。だからこそ、その謝罪の意味の無さを見抜ける相手のことをますます怒らせる。かつて架月が莉音に「許してほしいから謝っている」と言って、本来は心が広いはずの彼女を激怒させたように。

 架月がいくら粘っても、それ以上由芽は答えてくれなかった。

 朝学習の時間を告げるチャイムが鳴ったので、結局事情徴収は時間切れになっってしまった。由芽が泣きべそでフリーズしてしまったので、事情徴収というよりは尋問のようになってしまったと思う。

 由芽の疑いを晴らしたいのに、その張本人である由芽が終わりにしたっがっている。

 だとしたら、自分が首を突っ込もうとするのは正しいのか?

「由芽先輩は僕のロッカーに荷物を混ぜたことはあったけど、他の人の荷物まで触ってはいないと思うんです」

 チャイムの音が鳴っているのは分かっているのに、架月の両脚は渡り廊下に縫い付けられたまま動かなかった。もしこれで朝学習に遅刻したら大いにまずい。架月がいつもやらかすうっかりの遅刻ではなく、わざと遅刻したということになる。

 しかし架月は、涙目でじっとこちらを睨み上げている由芽の眼前から動かなかった。

「由芽先輩の荷物が自分のロッカーにあっても、僕は先生たちには言わなかったんです。僕は由芽先輩が意地悪で僕のロッカーに荷物を置いているとは思えなかったからです」

「……意地悪しないもん」

「知ってます」

 由芽が絶対に架月に意地悪をしないことなんて、言われなくても分かっている。

「僕はてっきり、由芽先輩は僕のことが好きだから僕のロッカーに荷物を混ぜたんだと思ってたんです。まあ実際のところは、深谷のロッカーにも荷物が混ざってたっぽいけど」

「純くん?」

「そうですよ。深谷のロッカーにファイルを入れてたでしょ?」

「違うよ」

 おや?

 きっぱりと断言されてしまった。としたら、深谷が「自分のものではない」と言ったファイルは由芽の持ち物じゃなかったのか?

 困惑していると、由芽は更に畳みかけてきた。

「架月のことだけが好きだから、架月だけだよ」

 いつもの調子で軽く放たれた一言が、耳の奥深くまで響いて脳を揺らした。唇を慌てて噛みしめたのはそうしないと胸からせり上がってきた何かが口から零れてしまいそうだったからで、うっかり零れそうになった一言は反射で呑み込んでしまったせいで架月自身にすらその正体が分からないまま霧散してしまった。

「……ですよね。やっぱり由芽先輩じゃないです、あの犯人は」

 由芽を疑いを晴らしたいというのは、もしかして自分にとっては二の次だったのではと気が付いた。

 架月が本当に証明したかったのは、由芽が自分に特別な好意を寄せてくれていたことだったのかもしれない。

「……っ、あの……今度手紙をくれるときは、直接ください」

 事情徴収でも何でもない、事件には関係がないはずの言葉が口を突いた。

「そうじゃないと僕、自分にもらったものだって分からないので」

「分からないとダメでしょ」

「その通りです、すみません」

「でも、いいよ」

 由芽は微かにはにかんだ。小学生くらいの背丈しかなくて、周囲の同級生たちと比べてもずっと幼く見える彼女の笑顔が、その瞬間だけ年相応に大人っぽく見えた。

 きっとここでまたロッカーのことを蒸し返したら、由芽はまた怒ってしまうだろう。だから架月は、「いいよ」の一言にだけ満足することにした。

 よくみんなが言ってる空気を読むって、もしかしてこういうことなのかな。

 そんなことを思いながら、架月は由芽と肩を並べて教室へと戻った。といっても身長差のせいで肩と腰を並べているような感じになっていたけれど、それでもやっぱり架月にとって由芽は頼もしい先輩である。

 そして、好きだと言われたら同じ言葉を返したくなる人だった。


 部活の時間、架月は自由帳に事件の詳細を纏めることにした。

「珍しい、架月くんが絵じゃなくて文字を書いてる」

 美術室の机間を巡回していた小寺が、ひょいっと架月のノートを覗き込んで怪訝そうな顔をした。

 いつも小寺にはノートを見せているので、今日も同じパターンかと思ってノートを小寺に差し出してみる。

「なにこれ、日記?」

「僕が知っている事件の情報を時系列に並べてみたんです」

「事件?」

 小寺が露骨に怯んだ。

「事件って何よ、それ」

「みんなのロッカーがぐちゃぐちゃにされていた事件を調べてるんです」

「変なことするねぇ、架月くん」

 事件の詳細をまとめるといっても、今回の調査は全くといっていいほど進んでいない。

 当事者である由芽も自分がやったのかやっていないのかを言葉では説明してくれないし、現場に居合わせた証人たちはすっかり詳細を忘れている。唯一信じられる事実といったら、利久が奉仕活動の時間――おおよそ朝八時頃――にはロッカーがぐちゃぐちゃになっているということに気付いていたという点だ。

「ロッカーがぐちゃぐちゃにされていたのは昨日の朝八時ごろです。学校に一番早く到着するのは寄宿舎から通っている寮生組で、七時四十五分には到着しています。利久先輩はその時間帯からすぐに奉仕活動を始めるので、誰かがロッカーをぐちゃぐちゃにしたタイミングは七時四十五分よりも早い時間帯ではないかと思うのですが、どうでしょうか」

「どうでしょうって言われても……えーっと、そうか。今週は利久くんが作業学習用ロッカーがある西廊下の掃除担当だったんだ」

 小寺がちらりと架月の隣にいた利久を見遣ると、真剣にプリントに小説を写経していた彼は「はい」と頷いた。顔は全く上げないものの、話はちゃんと聞いてくれているらしい。

「今、寮生よりも早く登校してる通学生はいないよ。寮生が一番早くて、そのあと架月くんたちバス通学組が到着して、最後に電車通学組が到着だから」

「由芽先輩みたいに家族に送迎されてるパターンもありますよね?」

「今年、送迎で登下校してるのは五人だけなんだけど、みんな寮生よりも遅い時間に到着してるよ。送迎組の中で一番登校が早いのがそれこそ由芽ちゃんなんだけど、七時五十分くらいかな」

 ということは、ロッカーがぐちゃぐちゃにされたのは今朝よりも前ということになる。

「一昨日にロッカーがぐちゃぐちゃにされたとしたら、犯行が行われた放課後ですよね。それより以前に動かされていたとしても、掃除の時間に誰かが気付いたはずですから」

「架月くん、聞いた人がびっくりするから、『犯行』っていう言葉はやめようか」

「そうですか?」

 言葉はただの言葉であって、そこに深い意味はないけれど?

 小寺の忠告にはピンとこなかったが、先生から言われたことに反抗する気もないので首を縦に動かしておく。

 小寺はその従順な反応が本心からのものではないと見抜くように困り顔をしたが、すぐに取りなすように穏やかに笑った。お小言は終わりだろうか。少しだけ警戒しつつも、おずおずと話を戻してみる。

「部活が終わったあと、下校時間になるまでの間に誰かがロッカーの荷物を動かしたんだと思います。だとしたら誰にでも犯……行為は可能でした」

 誰にでも可能だという事実は、果たして価値のある情報なのか?

 正直なところ、架月は「由芽が犯人ではない」という事実しかほしくないので、今のところ進展はなしと言い切ってもいいくらいの状況だ。

「ねえ、架月くん。約束してね」

 小寺はおもむろに机にしがみつき、訴えるような切々とした口調で囁いた。

「犯行もそうだけど、できれば『犯人』とも言わないで」

「……でも前回は、佐伯先生がそう言っていました」

「そうなんだけど、えぇと……佐伯先生が架月くんにそういう調査をお願いしたっていうのは、私も知ってるんだけど……今回と前回は違うんだよ」

 違いがあるも何も、全然別の事件じゃないか。

 架月がきょとんとしていると、小寺はほとんど正解じみたヒントをくれた。

「前回の紙吹雪は、結局先生がやったことだったでしょ?」

 ――それが何?

 続く言葉を待ってみたけれど、小寺はそれ以上何も言ってはくれなかった。「いつものイラストを描いてほしい」とねだられて、架月は戸惑いながら先生の言うことを守るためにシャーペンを取る。

 小寺が自由帳のページをめくり、白紙の状態にして架月に渡す。事件の詳細をメモしていたページは裏面へと追いやられて、架月は裏から薄く文字が透けた白面に小寺に促されるままシャーペンを突き立てた。

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