第14話 ぐちゃぐちゃ
由芽にキスされた翌日、架月は朝から謝罪行脚をしていた。
何かやらかしたときの架月は、冷静になった次の瞬間から「謝らないと」という強迫観念に囚われて再び落ち着かなくなる。自分で撒いた種の回収はとても大変であると分かっているのに、なぜかいつもそれを思い出すのは一暴れしてからだ。
「昨日はごめんなさい」
教室で漫画を読んでいた莉音に開口一番にそう言ったら、莉音はぽかーんとして「な、何が?」と眉を寄せてきた。
いいよと言ってもらえなかったことに心が折れていると、立ち尽くしたまま俯いた架月に対して莉音がぽんっと柏手を打った。
「あっ、莉音の優花先輩を取っちゃおうとしたこと?」
ちょっと違うけど、それが違うということをうまく言葉で説明できる自信がなくてコクコクと頷いてしまった。
――というか、「莉音の優花先輩」とは何だ?
「別に気にしてないよー、莉音は優しいもん」
本当にその通りだと思って、今度はちゃんと心の底からの同意を示すために頷いた。
次は由芽か優花に謝りに行こう。脳内の「謝る人リスト」を思い返しながら教室を出て、階段を上がった先の三階にある二、三年生の教室エリアへと向かう。
階段を上がりきると、そこに利久が立っていた。階段を上がってくる人たちを待ち構えているような位置取りをしている利久に「おはようございます、利久先輩」と挨拶をすると、利久がじっと架月を見つめたままおもむろに口を開く。
「物をなくしてはいけません。物の管理はしっかりしましょう」
――あれ? 朝ご飯の話題は?
いつも欠かさず投げられていたはずの質問が来ないことに動揺していると、階段をトントンと軽快に駆け上がる音が迫ってくる。
「あれ? 架月くんがいる、おはよー」
朝の太陽よりも明るい挨拶を投げたのは、探していた張本である新田優花だった。彼女は架月の姿を見つけるやいなや、運動部のトレーニングのような速さで一気に階段を上がってきた。ポニーテールの先端がサラサラと揺れて、甘いヘアオイルの香りが花咲くように周囲に漂う。
「珍しいね、ここにいるの」
「昨日はごめんなさい」
「へ? 何が? 私、何も悪いことされてないよ?」
あっけらかんと言い放ち、優花はしょんぼりした架月の頭を「あはは、架月くん変なの。よしよししてあげよう」と撫でてから利久へと向き直った。
「利久先輩もおはようございます」
「物をなくしてはいけません。物の管理はしっかりしましょう」
「え、何ですかそれ。いつもと違うじゃないですか」
どうやら優花も、いつもの定番の話題を振ってもらえなかったらしい。
「優花先輩も朝ご飯の話をされるんですか?」
「へえ、架月くんはそれなんだ。私は『ファミレスの名前は何?』なんだけど」
「ファミレスの名前は何?」
利久がスイッチを入れられたように優花に質問する。彼女は晴れやかな笑顔になって、まるで友達と雑談でもするようにぺらぺらと答えた。
「サイゼリヤ、ガスト、ココス、デニーズ、あとはえーっと、なんだっけ」
「ロイヤルホスト、ジョイフル、バーイヤン、さわやか、やよい軒?」
「あ、そうそう。それも」
「静岡県にあるのは?」
「さわやかですー」
架月は少々、呆気にとられながらそのやりとりを聞いていた。架月が普段から投げられている質問よりも答えが固定的で、暗記物のテストをされているみたいな会話だ。
――正直、自分だったらこっちの方が気楽なんだけどな。暗記は得意なので、出来ればいちいち朝ご飯を思い出すよりもファミレスの名前を聞いてほしい。
「ファミレスでは騒がない。物をなくしてはいけません」
「だから、さっきから何ですかそれ。利久先輩がなくし物するわけないでしょ、ピッキング班の備品を全部管理できてるくらいなんだから」
「物の管理はちゃんとします、なくしません」
「だからぁー」
利久と優花が一向に進まない会話を始めてしまったので、架月もその場から離れるタイミングを逸してしまった。そのまま朝学習が始まる時間になってしまい、肝心の由芽に謝りに行くことができなくなる。
――仕方ない、作業学習のときに謝ろう。
水曜日の今日は一時間目から四時間目までぶっ続けで作業学習だから、タイミングはいくらでもある。落ち込みそうになる自分をそうやって説得しながら、架月はすごすごと一年生の教室へと戻っていった。
久しぶりに、その日は遅刻してしまった。
タイムタイマーを使うようになってから遅刻は減ったものの、たまに時間配分を間違えてタイマーをかけてしまうことがある。前の授業が長引いたり、移動教室のせいで休憩時間が減ったりというイレギュラーなことがあっても、架月はタイマーを必ず佐伯に指示された七分間でセットして、タイマーの時間通りに動いてしまうのである。
今日の失敗は、ホームルームが終わってから職員室に行って優木への謝罪の時間を設けてしまったことだった。穏やかな優木に「いいから早く着替えておいで」と笑いながら、しかしきっぱりと言われて、急いで教室に戻ってそこから七分のタイマーをセットしてしまったのが悪かった。
着替え終わった架月が用具室に到着すると、すでにそこは無人だった。他のメンバーはとっくに校舎内に繰り出して作業を始めているのだろう。
――どうしよう、ここまで出遅れるのは久しぶりだ。
途方に暮れながら、架月はたった一人でいつもの作業ルーティーンを進める。作業ファイルに挟んである日誌に今日の日付と目標を記入して、自分の掃除道具を取りに作業学習用ロッカーへと向かうと、なんとそこに清掃班のメンバーが勢揃いしていた。
「遅いぞ、架月」
木瀬に淡々と言われて、ごめんなさいと謝る前にふと違和感を抱いた。
いつもなら架月に「遅い!」と注意を飛ばすのは由芽の役割のはずだ。こんな大遅刻をしてきた架月のことを由芽が見逃すわけがない。そう思って視線をウロウロと彷徨わせ、この場に由芽の姿がないことに気が付く。
「……由芽先輩もいません」
「他の人は関係ない。まず自分が遅刻しないように頑張りなさい」
あ、まずい。違うふうに伝わっている。
架月は慌てて説明をする。
「関係ないのは分かるんですけど今はそういう話ではなくて、単純に由芽先輩がいないことが気になって指摘したんです」
「説明がほしいのではなく、まず遅刻した件について謝ってほしい」
なるほど、そういうことか。
架月がようやく納得して「すみませんでした」と頭を下げると、木瀬はすぐさま仕事を振ってくる。ロッカーの荷物を片付けるようにと指示されて、だとしたら尚更ペアの由芽がいてほしくてオロオロと視線を彷徨わせてしまう。
そこでようやく、木瀬はほしかった答えをくれた。
「由芽は今、三年生の教室にいるよ。今の時間は作業には参加してこないと思うから、分からないことがあったら織田に聞いてくれ。織田、それでいいよな?」
「もちろんです」
三年生の織田先輩が軽やかに片手を上げる。深谷と同じフットベースボール部に所属している先輩で、由芽が作業をうまく教えられなくて架月の作業も一緒に止まっていると、いつも代わりに指導役を買って出てくれる人だった。
織田のペアに合流しながら、架月はよろしくお願いしますを言う前に焦って尋ねてしまう。
「由芽先輩はどうしたんですか? なんで今日は予定にないロッカー掃除をしてるんですか?」
織田は笑顔でも怒り顔でもない独特な表情をした。プラスかマイナスのどっちかに寄ろうとして、失敗して中途半端な形で固まってしまったような顔だった。
彼は架月の耳元に唇を寄せ、絶対に誰にも聞こえないであろう小声で囁いた。
「由芽ちゃん今、三年生の教室に立て籠もり中だから」
「へ?」
「さっきの休み時間、このロッカーにあるみんなの荷物がぐちゃぐちゃにされてることに気付いてさ。誰かが『由芽先輩がやったんじゃないの?』って言ったら、由芽ちゃんが怒って教室に逃げちゃったんだよ。予定にないロッカー掃除をしているのは、由芽ちゃんの悪戯を片付けてるってわけ」
「えっと……」
「上から二段目までのロッカーにあった荷物が、一つずつ隣にずらされてたんだよ。だから俺たちで元のロッカーにみんなの荷物を戻してたんだけど、架月もやってくれる?」
「僕、誰の荷物か分からないです」
「いいんだよ。ロッカーの中身が全部隣にそっくりそのまま動かされてたから、全部戻すだけでいいの。自分のロッカーから片付けるか」
織田に背中を押されて、架月はほとんど棒になった足を無理やり動かして自分のロッカーの前に立った。
そこに入っていたのは、右隣のロッカーを使っていた先輩の荷物だった。名前が書いてあるだけで全学年同じデザインの学習ファイルと、食品加工班のメンバーが持っている焼き菓子レシピと、自主研修ゼミ――生徒が縦割りグループになり、自主的に活動内容を決める授業――で作成したハーバリウムのボトルが入っていた。
他人の荷物を慎重に持ち上げて、隣のロッカーに一つずつ移していく。特に手作りハーバリウムのボトルはうっかり手を滑らせて落としてしまいそうで、特に気を付けて両手で運ぶ。
本当にこれを由芽がやったのだろうか。落としたら簡単に壊れてしまいそうな大事な宝物まで触って、勝手に移動させたのだろうか。
そもそもこの悪戯がみんなに発覚したとき、どうして由芽に疑いの矢が立ったのだろう。
呆然としながら荷物の移動をしていた架月は、ふと自分の荷物が置いてある隣のロッカーに目を向けて強烈な違和感を抱いた。
「……僕の時計がずれてる」
「ん?」
架月が両手で掬い上げるように持ち上げたのは、卒業制作のアナログ時計だった。織田もつられたように文字盤を覗き込んで、怪訝そうに首を傾げる。
「そうか? ずれてないじゃん、廊下にある時計と同じだよ」
「廊下にある時計は今、九時二十分です。僕の時計は四時四十五分を差しています。実際の時間と比べて七時間二十五分ずれています」
驚いた織田が「架月はすごいな、時計読むの早い」と褒めてくれる。優しい言葉をかけられて冷たく強ばっていた心臓がほんのりと溶けたが、授業に遅刻するような奴がそんなことで褒められていいのだろうかと不安にもなってしまう。この学校にいると、なぜだかアナログ時計を読めるというスキルを褒められることが多いのだ。
「架月の時計、どうしたんだろう。壊れちゃったのかな」
「秒針は動いていますので、故障や電池切れではないはずです。これ、時間を合わせるネジが後ろで剥き出しになってるから、たまに衝撃を咥えると時間がずれちゃうんです」
「そっか、壊れてないならよかった」
「はい、ご心配いただきありがとうございます」
時計の裏にあるネジを回して、架月は七時間二十五分だけ時間を進めてアナログ時計と廊下の時計の時刻を合わせた。
午前中の作業学習が終わると、そのまま給食の時間になる。
明星高等支援学校では全校生徒が食堂に集まって配膳を行い、学年ごとのテーブルで食事をするのだ。小中学校のときのような給食センターから運ばれてくる給食ではなく、学校の調理室で調理員さんたちが作ってくれる給食なのでちょっとびっくりするくらい美味しい。
今日のメニューは豚肉の生姜焼きと青野菜のサラダ、ナスと油揚げの味噌汁、グレープフルーツだ。架月も一年生テーブルの配膳を手伝っていると、ちょうど三年生のテーブルに由芽がいるのを見つけた。
まさか配膳中に駆け寄るわけにもいかないが、今日は一度も会えなかったのでちょっとホッとする。でも、彼女の背中を見つけてしまったことにチクリと魚の小骨が刺さったように胸が痛んだ。
いつもなら架月が由芽を見つけるよりもずっと早く、由芽が架月を見つけてくれるはずなのだ。架月は「架月!」と呼びかけられて、そこで初めて由芽に気が付く。
常に自分を見つけてくれる誰かがいるということが、かなり幸せなことであったと今更知った。
――由芽にはいつも怒られていた。
――そのくらい、いつも架月のことを見てくれていた。
だとしたら由芽が声を掛けてくれていた分、自分も由芽のことをたくさん見ていたはずだ。自分が感じた「本当に由芽がやったのか?」という疑問は、本当に捨て置いてもいいのだろうか。
「……っ」
架月は意を決して、自分の隣で箸の配膳をしていた莉音に声を掛けた。
「莉音さん、相談に乗って」
きっと莉音なら断らないはずだと思ったのだが、果たして架月の予想は当たっていた。
「いいけどぉ?」
莉音は一切迷わず、詳細を聞くよりも先に頷いてくれた。
昼休みになり、架月は莉音を引き留めて片付けが終わった食堂に残っていた。本当は莉音にだけ相談するつもりだったのだが、莉音が「あっ、優花せんぱーい。一緒に架月のお話し聞こうよ、相談があるんだって」と勝手に大好きな先輩を呼び止めてしまったので、今は三人である。
本当は深谷にも聞いてほしかったのだが、食事中に莉音にしたのと同じように誘ってみたら「ごめん、昼休みはフットベースボール部の練習があって」と断られてしまった。残念だったけれど、優花が来てくれたのは僥倖だった。
「相談って何? 恋バナ?」
優花がサラリとそんなことを言う。莉音の「架月にはないよ!」という即答と、架月の「違います」という返事が重なった。
「なーんだ、つまんない。じゃあ何なの? 相談って」
「接客班の二人は、今日の作業学習が始まる前に作業学習用ロッカーに寄りましたよね」
「うん、寄ったよ!」
莉音が横から身を乗り出して頷く。
「莉音たち接客班はロッカーにカフェエプロン、接客マニュアルの冊子を置いてるから。ねー、優花先輩」
「うん、毎回使うからね」
「じゃあ今日ロッカーがぐちゃぐちゃされていたときの状況も知ってたんですよね? 僕は今日の作業に遅刻をしてしまったから、そのときの状況をよく知らないんです。もしよろしければ、僕に詳細を教えていただけないでしょうか?」
「ねえ架月くん、それは相談じゃなくて事情徴収って言うんじゃないの?」
優花が悪戯っぽく笑って、小首を傾げた。
その訂正が意味するところがピンとこないが、そうかもしれないと思ったのでとりあえず頷いておく。優花はにんまりと口角を上げ、ちらりと莉音に視線を投げた。
「架月くんにしては面白そうじゃん。いっぱい協力してあげよ、莉音ちゃん」
「はいっ!」
大本命の先輩にたった一声促されただけで、莉音は「何でも聞いてっ」と全面協力の姿勢になってくれた。元々全面協力の姿勢ではあったものの、莉音のモチベーションが上がったのなら幸いだ。架月に協力をしてくれる分、彼女だって良い思いをしてもいいはずだ。
「えっと、じゃあ……最初にロッカーの異変に気付いたのは誰だったんでしょうか?」
「誰だったっけなぁ。優花先輩、覚えてます?」
「えー、覚えてない。なんかみんながロッカーの前に集まってざわざわしてたから、誰が最初とかは全然分かんないや」
事情徴収の一歩目でいきなり躓いた。
でも確かに、架月だってその場にいたとしても同じ質問をされたら困る。きっと架月であれば周囲の喧噪にオロオロしてしまって、その場にいた人なんて誰一人として覚えていなかっただろう。
「えっと……二人がロッカーの前に到着したのは、何時何分でしたか?」
「いちいち時計を読みながら歩いてるわけないじゃーん! 覚えてないよ!」
二歩目でも躓いた。
架月はめげそうになって「うー……」と呻きながら、頑張って次の質問を考える。そんな架月に対して、事情徴収をされている側であるはずの優花が助け船を出すように口を出してきた。
「ねえ、架月くん。私ちょっと思ったんだけど、最初にロッカーがごちゃごちゃになってることに気付いたのって利久先輩だったんじゃないかな?」
「え? 何でですか、その根拠は?」
「根拠っていうか……朝の利久先輩、なんか変なこと言ってたじゃん。『物をなくしてはいけません』とか『物の管理をしっかりしましょう』とか。それって、みんなのロッカーの荷物がずれてたことを伝えようとしてくれてたんじゃないの?」
その話題を知らなくて目を白黒させていた莉音が、「え、でもさぁ」と横槍を入れてきた。
「どうして利久先輩、朝に作業学習用ロッカーに行ったんだろ? あのロッカーってうちらの教室からそれなりに離れたところにあるし、用がないと行かないよ」
「利久先輩は寮生だから、奉仕活動の常連なんだよ。もしかして利久先輩、奉仕活動で作業学習用ロッカーの近くを分担してたんじゃないかな?」
「だとしたら利久先輩以外の人が気付きそうじゃないですか?」
架月のツッコミに対して、流暢に推理を語っていた優花はぱちくりと目を瞬かせる。
「え? 気付かなくない?」
「……そ、そうです?」
「そうだよ。私だったらロッカーから直接物を取ろうとしたときじゃないと、ロッカーの中身なんてまじまじと見ない。でも利久先輩は、ピッキング班の備品棚からネジが一本なくなっただけで何時間もずーっと作業室中を探してる人だよ。きっと利久先輩は誰よりも早く気付いて、みんなに教えてあげようとしてたんじゃないかな」
「えー、誰にも伝わってないのに?」
莉音がサラリとそんなことを言う。優花は特にそこには反論せず、「まぁ利久先輩ってそういう人だし」とひょいと肩をすくめた。
「それ、はっきりさせたいですね」
「本人に聞けばいいじゃん。利久先輩、たぶん教室で小説書いてるよ?」
優花の鶴の一声で、ぞろぞろと三人組は三年生の教室へと移動した。やはり今回も調査をしているのは架月のはずなのに、なぜか架月は誰かの後ろをずっとくっつく形になっている。
優花が「お邪魔しまーす」とにこやかに三年生の教室に入ると、クラスにいた男子の先輩達から熱い大歓迎を受けた。莉音がキッと眦を吊り上げて「あげないっ」と地団駄を踏みそうな勢いで怒っている。
上級生たちからの熱視線と後輩からの嫉妬を浴びながら、優花は悠然と教室を横切って窓際の席でプリントの裏紙に小説を写経していた利久のもとへと辿り着く。利久は眼前に優花や架月、莉音が来ても全く顔を上げなかったが、優花に肩を突かれた架月が「利久先輩、今お話しよろしいですか?」と尋ねると「いいよ」と即答してくれた。
「今朝、作業学習用ロッカーの荷物がごちゃごちゃになっていることに気付いていたんですか?」
「気付いていた」
「それとも、これは僕たちの誤解ですか?」
「誤解」
肯定も否定もされてしまった。
どうしたものかと迷いあぐねて、ふと架月は先ほどの優花の言葉を思い出す。ネジが一本なくなっただけで気が付く人だとしたら、もしかして。
「……えっと、今日の朝、ハーバリウムのボトルは誰のロッカーにありましたか?」
いや、さすがに無理だろ。
そう思ってすぐに撤回しようとしたが、架月が再び口を開くよりも早く利久がすっと視線を上げる。
利久に真正面から見据えられることは珍しい。その怜悧な瞳に臆していると、おもむろに利久が架月の胸元についているプラスチックの名札を読み上げた。
「青崎架月」
「へ?」
「君のロッカー」
淡々と答えて、利久はノートへと視線を戻す。すぐさまサラサラとシャーペンが紙を走る涼しい音が再開した。
架月はごくりと生唾を飲んだ。この人、ものすごく信用できる証人だ。
「利久先輩がハーバリウムに気付いたのって、いつですか?」
「朝の奉仕活動が始まります。奉仕活動は八時十五分までに終わらせて、朝学習に移りましょう」
「へ?」
唐突な台詞にぽかーんとしていると、優花がちょいちょいっと横から架月の肩を突く。
「多分ねぇ、利久先輩は『朝の奉仕活動が始まってから気付いた』って言おうとして、聞いたことがある別の台詞と混ざっちゃってるんだと思うよ」
「なるほど、ありがとうございます!」
架月は深々と頭を下げてお礼を言った。
三人でぞろぞろと作戦会議場もとい食堂に戻ってから、架月はようやくもらえた情報を事実と照らし合わせる。
「つまり事件は朝から起こっていたということですね。利久先輩が奉仕活動をしているときに気が付いたけれど、異変はそのときは誰にも伝わらなかった。そして作業学習の時間になって、ロッカーの異変がみんなに気付かれたわけですね。ホームルームが終わってから一時間目が始まる前の十分間休憩だから、えっと、八時四十分から八時五十分までの時間にみんながロッカーの前に集まっていた」
「そこからは私と莉音ちゃんが説明できるかな」
優花がやんわりと口を挟んだ。
「私と莉音ちゃんがロッカー前に来たときには、もう他の班の子たちが集まって『何これ、誰がやったの?』って騒ぎになってたの。そこに由芽ちゃん先輩もいたんだけど、誰かが『由芽先輩がやったんじゃない?』って言って、由芽ちゃん先輩が教室に逃げ戻っちゃったんだよね。そのあとは先生達が来て早く作業に行けーって言ってきたから、私たちも自分の使う荷物だけ回収してバラバラになったの」
「じゃあ由芽先輩がやったって発覚したわけじゃないんですね?」
「うーん、まあそうなんだけど……でも由芽ちゃん先輩って、やってるからなぁ」
誰にでも親切な優花らしからぬ冷淡な物言いに、ぎょっと身を竦ませてしまう。
たしかに由芽はやっている。架月だって、何度も自分のロッカーに荷物を混ぜられた。
誰かが由芽に疑いをかけたとしても、それはある意味では不自然ではない。
でも――
「誰が最初に由芽先輩だって言ったんだろう」
「それは分かんないし、それって別に問題じゃなくない?」
「へ?」
「由芽ちゃん先輩が疑われるのは当然なんだよ、怪しいんだもん。だから疑った人を探すんじゃなくて、架月くんはロッカーの荷物をぐちゃぐちゃにした犯人を捜さないといけないんだよ」
「はわー……」
莉音が頭上にはてなマークを飛ばしながら首を傾げた。
「そうかぁ……まぁロッカーをぐちゃぐちゃにした人が見つかったら、由芽先輩の疑いも晴れるしねぇ」
何やら架月を置いてけぼりにして、女子二人が声高に話し合っている。
口早な会話についていけなくなった架月は、二人の話し合いが落ち着くまでぼんやりと宙を見遣りながら思案に沈んでいた。
「で、架月くん的にはどうなの?」
ようやく会話のターンが自分に回ってきた。
優花の声音や眼差しからは、すでに冷たさは消え失せていた。長い睫毛に縁取られた大きな瞳に悪戯っぽい光を浮かべながら、誰もが夢中になるのも納得なほど引力が強い上目遣いで架月を見上げる。
架月はゆっくりと時間を使って考え込んでから、おずおずと口を開いた。
「僕は真犯人を見つけるのではなく、由芽先輩の疑いを晴らしたいと思っています」
「おっ、いいぞイケメン」
その揶揄は分からない。どういうことだろうと眉根を寄せたら、莉音がぶすっと唇を尖らせて「うちの架月に変なこと吹き込まないでくださいよー」と苦言を呈した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます