第6話 ピッキング班

 その日、架月はいつものように美術室を訪れて、利久の隣で自由帳のページを埋めていた。昨日と全く変わらない活動風景だったけれど、唯一違うところといえば莉音が半泣きになって美術室の中を彷徨いていることだった。

「マイキーがいないぃぃ」

 どうやら昨日彼女が美術室に置いたまま帰ったはずの絵が、今日来たら見当たらなくなってしまったらしい。美術室の棚を何度も漁って、綺麗に整頓されていた備品をぐちゃぐちゃにひっくり返しながら探している。

「せっかく透明の下敷き持ってきたのに、どこ行っちゃったの?」

 架月も最初は捜索を手伝わされていたものの、架月が莉音が探したのと同じ場所を探したり莉音の後ろでオロオロと棒立ちしているだけだったせいで、すぐに「架月はもういいよ」とクビにされてしまった。代わりに巡回をしていた小寺が捕まえられ、莉音と一緒に美術室を探す。

 数分後、絵は思いも寄らぬところから見つかった。

「あーっ、それ莉音のじゃん!」

 怒声を上げた莉音が指さしていたのは、利久が小説写経をしていた裏紙のプリントだった。びっしりと細かい文字を書いていた紙をひっくり返すと、確かにそこには架月が描いた特攻服のキャラクターがいる。

 細いボールペンで写経していたせいで、キャラクターの顔は裏から鋭いペン先で抉られてぼこぼこと歪んでしまっている。

 莉音が昨日これを置いたのは、プリントの裏紙をまとめた箱の近くだった。きっと利久はいつものように裏紙を取っただけだったのだろう。裏に何が描いてあるかなんて気にしなかったのだ。

 ――なるほど、ちょっとそれは分かるかも。

 架月が呑気に納得していると、莉音の両手が眼前を素早く動く。

「やめてよ、利久先輩の馬鹿!」

 次の瞬間、莉音は利久を突き飛ばした。


 佐伯と木瀬が美術室に駆けつけたとき、莉音は上級生の女子たちに囲まれて宥められながら地団駄を踏んでいた。突き飛ばされたという利久は平然と椅子に座り直して写経の続きをしていて、その隣にいる架月が利久の代わりと言わんばかりに目に涙を溜めている。

 木瀬がすらすらと写経をしている利久のそばに屈み込んだ。

「どこぶつけた? 頭?」

「頭」

「今は痛い?」

「痛いです」

「それとも痛くない?」

「痛くない」

「ぶつけたところ、どこ? 触って教えて」

「大丈夫です」

「……えーっと」

 返ってきたのはほとんど鸚鵡返しで、大丈夫という一言すら利久にとっては「分からないことを聞くな」という拒絶の言葉だ。

 途方に暮れそうになり、ふと隣で声もなく泣いている架月に気が付く。ダメ元で「利久先輩、どこぶつけた?」と聞いてみたら、唇をぎゅっと噛みしめて嗚咽を堪えたまま自分の右側頭部を叩く。

「助かった、ありがとう架月」

 架月が示した部分を照らし合わせて利久の髪をかき分けてみたが、今のところは赤くなったり腫れていたりということはない。「痛くなったり腫れたりしたら教えて」と言ってみたけれど、利久は相変わらずボールペンを動かしながら煙たそうに「大丈夫です」と返すだけだった。

 一方、佐伯は興奮が収まらない莉音のそばにいる。その後ろから小寺が遠慮がちに近づいていくと、莉音はすぐさま「小寺先生は見てたから分かるでしょ!?」と噛みついた。

「昨日莉音が架月からもらった絵に、利久先輩が落書きしちゃったの! せっかく架月が描いてくれたのに!」

「そ、そうだね。でも、棚の上に置きっぱなしにしたままにしてたから利久先輩は間違えて――」

「普通は間違えない! だって昨日、莉音と架月がいるときに利久先輩も隣にいたんだもん。架月が頑張って描いてくれたのも、莉音が喜んだのも隣で見てたから知ってるよ! それなのに架月が描いてくれた絵を裏紙にしちゃったんだから、意地悪じゃん」

「意地悪じゃない、利久は間違えただけだ」

 佐伯に淡々と諭されて、莉音は半泣きでくうっと喉を鳴らした。

 いくら意地悪ではないと言われても、きっと納得はいかないだろう。それでもこの学校にいる以上、「普通は間違えない」という主張は通らない。

「……利久先輩が莉音に意地悪するなら、莉音も意地悪してやる……」

 張り詰めた空気の美術室に、しばらく莉音の嗚咽と利久のボールペンを走らせる音だけが響いた。やがて椅子を引きずる重たい音が響き、その場にいた面々がそちらを振り返る。

 さっきまで目に涙を浮かべていた架月が、おずおずと立ち上がって莉音のもとへと歩み寄った。

「また描くから、怒らないで」

 一瞬、莉音の瞳が剣呑な色を浮かべる。しかしすぐにへにゃっと強ばっていた彼女の表情が崩れ、「架月ぃ」と気が抜けた声を零した。

「せっかく描いてくれたのに、置きっぱなしにしてごめんね」


***


 翌日、莉音はクラスに来なかった。

 学校に来なかったわけではなく、登校してからすぐに別室に行って個別指導を受けたのである。その日の莉音は部活動にも参加することはできなくて、彼女に会うことができたのはその更に翌日の朝だった。

 バス通学組の架月よりも早く登校していた彼女は、もはや見慣れた仏頂面で自分の席に突っ伏していた。架月が歩み寄って昨日の部活中に描いた絵を渡すと、彼女はやっぱり一種で笑顔になって歓声を上げる。

 架月が描く絵は、自分で言うのも何だが大した価値はないと思う。自由帳のページを千切った紙に、シャーペンで線を描いただけの絵である。それでも莉音は、まるでとびっきりの宝物をもらったかのように喜んでくれる。

 ――良い子なんだよな、きっと。

 今、架月の絵を抱きしめてキラキラと目を輝かせてくれている彼女と、一昨日に無抵抗な利久を突き飛ばした彼女が同一人物であることがにわかには信じられない。

「昨日は何してたの?」

「ずっと反省。色々な先生たちが一人ずつ莉音とお話に来て、莉音がやっちゃったことについていっぱいお話して、反省文を書いて、誰もいない教室の掃除とか花壇の草むしりとかやってた」

 彼女の天真爛漫な笑顔が、ほんの少しの仄暗さを滲んだ苦笑に変わった。

「莉音はたまにヤバい奴になるんだよ、架月も莉音のこと苦手だから分かるでしょ」

「それでも莉音さんは、たまに良い子にもなるでしょ」

 莉音はぱちくりと目を瞬かせて、ぶすっと唇を尖らせた。

「……たまにって何よぉ」

 先日は描いた絵をそのまま放置していたが、今日の莉音はすぐに自分のクリアファイルに丁寧にしまってロッカーに入れる。彼女のロッカーはいつも学習ファイルや本が雪崩を起こしたように盛大に崩れているが、架月が描いた絵が入ったクリアファイルはロッカーの隅にきっちりと立てられた。


 その日の作業学習はピッキング班の見学だった。

 ピッキングとは工場や倉庫での発注など、指示書や伝票をもとにして商品を集める作業のことである。ピッキング班の活動場所である第一作業室に向かう途中、莉音がとんとんと肩を叩いてきた。

「架月、いい? 今日は見学のとき余計なこと言っちゃダメだよ」

「授業中に余計なこと言うわけないじゃん」

 げほっとすぐ隣にいた深谷が咳き込んだ。大丈夫かなと思って振り向いたら、気まずそうに「笑ってごめん」と手刀を切られる。彼の潔い謝罪で、咳じゃなくて笑ったのを咄嗟に誤魔化しただけだと気付いてしまった架月である。

「……なんで莉音さん、今日に限って言うの? ずっと前から余計なこと言ってたって気付いたら、その時点で言ってよ」

「架月はこれまでも結構いろんな人に言われてたよ」

「んんー……?」

「総合文化部の先輩たちがピッキング班はめっちゃ厳しいって言ってたから、見学で架月がピッキング班の先生に怒られたら可哀想だなって思ってさ」

 ――これは莉音なりの気遣いなのだろうか。

 ありがとうと頭を下げたら、深谷が「それ、ありがとうになるんだ」と楽しげに嘯く。もしかして今の返事は良くなかったのだろうか。また莉音を怒らせるのではとドキリとしたが、莉音は「どういたしまして」と得意げに胸を張った。

 しかし莉音の晴れやかな笑顔は、第一作業室に到着したとたんに消え失せる。

 第一作業室は通常教室の二倍はありそうなほど広い部屋で、壁一面を埋め尽くした備品棚にありとあらゆる商品が整頓されていた。作業室に入ってきた一年生たちに気が付いて、ピッキング班の担当である藤原教諭が声を上げる。

「一年生は授業が始まるまで、適当に棚を見てて。この第一作業室にはサイズが違うネジや文房具や日用品など、約一万点の商品がある。物の場所を変えなければ、引き出しや棚を開けてみても構わないから」

 彼はベテランの体育教諭で、その場にいるだけで先輩たちがピリッと背筋を伸ばす引き締め役の先生だった。なるほど、この先生が担当なら莉音の忠告も納得だなと腑に落ちる。

 目に入ってくる情報量だけでも頭が痛くなりそうだったが、ぎょっとして立ち竦んだ莉音が見つめていたのは棚ではなく作業机の方だった。

 彼女の視線の先には、折原利久がいた。

 ピッキング班の先輩たちはとっくに席について背筋を伸ばしていたけれど、利久は椅子の上で濡れ手を乾かすような仕草で両手を振りながら前後に揺れている。口からはひっきりなしに独り言が漏れていて、よく聞くとそれは普段彼が写経している小説の内容だった。

 架月が知っている利久は、いつも同じ質問をしたがること以外は物静かな人だった。小説を書ける裏紙がないだけで、利久はこんなふうになるのか。

 莉音は警戒心を露わにして、無言で架月の背中に身を隠した。彼女の中で、利久は今でも大事な絵をわざと台無しにした人だ。

 授業開始のチャイムが鳴ると、藤原教諭が一年生たちの前に歩み寄ってきた。彼の眼差しが手負いの猫のようになっている莉音の方を向いて、ふっと緩まる。

「よく見ておくように」

 まるでただ一人にだけ向けたような口調で言って、藤原教諭はピッキング班の生徒たちへと向き直った。

「リーダー、号令」

「起立」

 号令をかけたのは、利久だった。

 ぴたりと独白をやめた彼が放った鶴の一声で、ピッキング班の面々が一斉に立ち上がる。


 授業が始まってすぐに、一年生は藤原教諭の誘導で第一作業室の隣にある作業準備室に入った。パソコンが一つだけ据えられた作業机があるだけの狭い部屋で、藤原教諭はそのパソコンを操作しながら一年生に説明をする。

「授業の最初に、俺がここで発注指示書を作成する。発注指示書は第一作業室のパソコンに送られて、その指示書を見てリーダーがピッキング班全員分のその日の仕事を分担することになってる」

 藤原教諭がパソコンを操作して発注指示書を送信し、一年生たちに「第一作業室に戻って」と指示する。他の班に比べてかなり忙しない見学だ。架月もみんなから遅れないように急いで第一作業室に戻ったら、ちょうど利久が作業室前方にあるパソコンで作業をしていた。

 彼が慣れた手つきでマウスとキーボードを動かすと、程なくしてパソコン台の横にあるレシートプリンターが何枚か紙を吐き出す。利久はそのレシートを回収して、黒板へと向かう。それらのレシートサイズの発注書を黒板に貼ってあるピッキング班メンバーの名前マグネットの下に貼っていくと、他のメンバーたちが自分に割り振られた発注書を回収して素早く四方の備品棚へと散った。

「備品棚は商品番号ごとに分けられているが、発注指示書は商品番号が順不同で送られてくる。それを番号順に直した発注書をリーダーが作成して、各メンバーの作業スピードに合わせて仕事を割り振る。ピッキング班は一人一人が各自の作業をしているようにも見えるが、学習時間のうちに全員で全体ノルマを達成することを目標としているんだ。だからリーダーは全体を見て、みんなが効率的に動けるように考えてやる必要がある」

 作業机に次々とピックアップされた備品が集まっていくと、利久が小分け箱に入っている商品の中身や数を点検して、発注書にチェックを入れて箱に貼っていく。

 メンバー全員が作業を終わらせて全ての発注書にチェックマークがつくと、利久はバインダーを持って「お話し中、失礼します」と藤原教諭に声を掛けた。淡々と、しかしハキハキとした口調は、部活中にずっと一人で写経をしていたり休み時間に落ち着きなく独り言を喋っていたりした彼とは別人のように見えた。

「確認お願いします」

「はい、ご苦労」

 藤原教諭が備品の最終チェックをして、利久のバインダーに挟まっていた報告書にサインをする。その後、利久が「備品チェックに入ります」と一同に声を掛けて、再びメンバーたちが備品棚へと散っていく。

「その日のノルマが終わったら、備品の残り数をチェックする。足りない備品はリーダーがピックアップして、授業開始時とは逆に第一作業室のパソコンから準備室のパソコンに足りない備品のデータを送って発注をかける」

 藤原教諭が説明している間も、利久はパソコンに向かっていた。他のメンバーたちから渡されるチェック表をパソコンに入力して、データ表ソフトに次々と数字を記入していく。

 莉音は終始、利久のことばかりを目で追っていた。その瞳は、架月が絵を渡したときのような輝きを放っている。

「……普通の高校生みたい」

 ぽつりと呟いた一言は、明らかに利久に向けられていた。

 架月もほとんど同じ感想を抱いていた。この学校に通っている生徒たちの中でも、利久は抜きん出て普通の高校生とは違うことが分かりやすい。

 しかし藤原教諭は、そんな感想を聞いて苦笑を漏らした。

「普通の高校生だったら、ここまでは出来ないかもしれないな」

 莉音がぱちくりと目を瞬かせる。

 ピッキング班の見学が終わったとき、莉音は架月の後ろに隠れてはいなかった。調子がいいときの彼女がいつも浮かべている溌剌とした笑顔で、パソコン作業をしている利久の背後にぴったりとくっついている。

「利久先輩はすごいんだねぇ」

「すごいねぇ」

 利久が莉音に言われたことをそのまま繰り返し、すぐさま莉音が「自分で言う?」と小首を傾げる。その表情には敵意も警戒心もなく、架月が絵を渡したときにも浮かべてくれたときと同じ輝きを目に宿している。

 ――やっぱり「たまに」じゃなくて、莉音さんはほとんどずっと良い子だ。

 一見して普通とは違う利久に対して、莉音は自分の尺度をそのままぶつけて激怒していた。優しくないわけじゃなく、莉音はあくまでも利久を対等な存在として見なしている。

 授業が終わってから、莉音は遠慮がちに利久のもとへと歩み寄った。

「こないだ押してごめんね、利久先輩。痛くなかった?」

「痛くなかった」

 利久は独り言の合間に、唐突に押し出すような返事をする。心ここにあらずのような答えでも、莉音は「ならよかった」と大真面目に頷く。

「でも利久先輩も、わざとじゃなくても莉音の絵に落書きしたんだから謝らなくちゃダメだよ」

「謝らなくちゃダメだよ、利久くん。ごめんねは? ごめんなさいするよ」

「うん、いいよ」

 まるで誰かに叱られたことを思い出しているような利久の独白は、莉音には正式な謝罪として受け入れられた。

 隣でそれを窺っていた架月も、思わずホッと胸をなで下ろしてしまう。きっと莉音は、この謝罪をきっかけに心の底から利久のことを許してくれたのだろう。ここで自分の本音を飾るような彼女ではない。きっと「うん、いいよ」に嘘はないと思う。

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