第5話 最初の事件
翌日の作業学習班の見学は、接客班と農園芸班だった。
一時間目から二時間目は接客班の見学になる。接客班は学習棟の最上階にあるホールをカフェに見立てて接客の練習をして、二週間に一度は近所の公民館に出向いて臨時カフェを開いて地域の方々をもてなしている。
絵をプレゼントしてから、莉音は架月にも好意的に話しかけてくれるようになった。
「莉音は接客班に入るんだ、もう決めてるの。学校見学会で接客班の作業学習を体験して、絶対に明星に入りたいーって思ったんだもん」
「そんなに接客班が楽しかったの?」
「接客が楽しかったっていうか、接客班には莉音のアイドルがいるから」
「へ?」
一時間目が始まると、一年生たちは制服のままホールに向かった。
ホールの中にはすでにいくつかの長テーブルと椅子が設置してあり、カフェ会場の設営がされていた。窓際に並べられた長テーブルには、ポットやドリンクの粉末スティックや紙コップなどといった備品が揃っている。
先輩たちは制服の上から、紺色のカフェエプロンをつけて待機していた。接客班の担当である家庭科の優木先生が「リーダーさん、号令を」と促すと、列の中央にいたすらりと背の高い女子生徒が「はい」と軽やかな声で返事をする。
その先輩は、テレビの中にいるアイドルにも引けを取らないほどの美少女だった。艶やかなロングヘアをポニーテールに纏め上げて、彼女は授業開始の号令をかける。
それからふっと悪戯っぽく微笑んで、くるりとホールの後方にいた一年生たちを振り返った。その動作はおそらくアドリブだったのだろう。優木も他の先輩たちも呆気にとられる中、彼女は美しい仕草でお辞儀をする。
「一年生の皆さん、ようこそ明星カフェへ。接客班リーダーの新田優花です、あんまり怖くない二年生の先輩です。他の作業学習班では先生たちにいっぱい扱かれるだろうから、せめて接客班ではのんびりしていってくださいね」
きゃあっと莉音が歓声を上げる。
接客班の見学が始まっても、莉音は優花にすっかり夢中だった。一年生を客に見立てて珈琲やココアを振る舞われ、接客の手本を見せられている間も、莉音の目はしきりに優花を追っている。挙げ句、優花がテーブルに来たときにすかさず腕を掴んで愛の告白をし始めた。
「私、須田莉音っていいます。学校見学会で優花先輩に接客班で色々と教えてもらって、そのときからずっと憧れてたんです! 絶対に接客班に入ります、優花先輩みたいに素敵な先輩になりたくて明星に入ったんです!」
「あはは、ありがとー。じゃあ二人で明星カフェの看板娘やろうよ、莉音ちゃんなら可愛いから大歓迎だよ」
「本当ですか? 絶対ですよ!?」
「うん、莉音ちゃんカフェエプロン似合いそうだもん。私の一番弟子にしてあげる」
「やったぁ、入ります!」
二人の世界で盛り上がっている様子を見て、傍らにいた優木がぽつりと「今年の接客班、大丈夫かしら……」と不安そうに呟いた。
賑やかな接客班での見学が終わると、一年生たちは慌ただしく作業着に着替えてグラウンドの裏にある農園に向かう。たった十分間の休み時間で着替えと長距離移動を出来るわけもなくて、やっぱり架月は一人だけ集合に遅れてしまったけれど、農園芸班では清掃班のときのように注意されることはなかった。
というか、チャイムが鳴る前にとっくに授業は始まっていた。
一年生が集まったとき、すでに農園芸班の先輩たちは各々の持ち場で活動を始めていた。他の作業班のように、今日やることの確認や役割分担もない。
「休み時間のうちから、それぞれ自分で仕事を探して取り組んでいるんだよ。うちは俺のせいで他の班よりも時間にルーズだから、始まる時間も終わる時間もふわっとしてるんだよな」
農園芸班の担当である佐伯が一年生たちにそう説明して、おざなりに「一年生の前だし号令やっておくか、おーいリーダー!」と鎌を片手に草むしりをしていた三年生に声を掛ける。呼びかけられた先輩も軽い調子で「よろしくお願いしまーす!」と叫んで、周囲にいた先輩たちも笑い声を上げる。
農園芸班は男子しかいない班で、他の班とは違って作業中のおしゃべりや勝手な休憩も許容されていた。
「同じ職場にいる人たちとコミュニケーションを取ることも、自分の体調を把握して休憩をすることも仕事の基本だよ。逆に自分で話しかけてこなければ仕事はもらえないし、自分で休み時間を取り入れないと倒れるまで仕事する羽目になるのがうちの班だ。今の説明を聞いて、これが『すごく楽で良い環境』に見える奴と、『ものすごくキツい環境』に見える奴がいるんじゃないかな」
――これが楽に見える人、いるの?
圧倒的に後者だった架月は、思わず呆気にとられてしまう。仕事をしながら楽しそうな会話に混ざることも、誰にも「今なら休んでいいよ」と言ってもらえないのも、何の仕事をいつまですればいいのか分からないのも想像するだけで心臓が引き絞られそうになるくらいしんどい。
佐伯が一年生たちに農園を案内して、今育てている作物の説明をする。せめて先生の話をちゃんと聞くくらいはやらないと、と気を張って集中していたら、不意に近くを通りかかった上級生が「なあ!」と声を上げた。
「誰か、そのプラスチックケースこっちに持ってきて!」
一瞬、誰もがフリーズした。
しかし唯一、深谷純だけが「あ、はい!」とすぐさま説明をしていた先生に背を向けて先輩が指さしたケースへと走る。
それを見て、佐伯の目が輝いた。先輩に指示された場所にプラスチックケースを運んで、周囲の上級生たちに促されるままに自己紹介をしてから戻ってきた深谷は、少し楽しそうに緩ませていた頬を先生の前ではしっかりと引き締めて「抜けてすみません」と軽い頭を下げる。
たぶん、深谷こそが『すごく楽で良い環境』に見えている人なのだろう。
急に隣にいるクラスメイトが宇宙人になったような気分がした。
***
放課後。
明星高等支援学校の職員室では、すでに一年生の見学を終えた作業班の担当教員たちが今年の新入生の様子を話題にしていた。
「莉音ちゃん、絶対に接客班に来るだろうなぁー。大丈夫かなぁ」
接客班担当の優木がマグカップで珈琲を飲みながら苦笑するのを聞いて、正面の席に座っている木瀬が「あ、莉音取られちゃったか」と唇を尖らせる。
「莉音は清掃班がいいんじゃないかなーと思ったんですけどね。生活能力が高いから手際もいいし、掃除をしている間ならお喋りも止まるだろうし」
「分かる。接客班だと失礼なお客さんに怒鳴っちゃいそうだもんね、莉音ちゃん。でもまぁうちには二年生エースの優花がいるから、憧れの先輩として優花にビシバシ鍛えてもらうことを期待しておこうかなぁ」
「逆にうちの清掃班は架月が来そうでヒヤヒヤしてますよ。仕事はものすごく丁寧なんだけど、丁寧すぎて時間がかかりすぎるんですよね。適当で辞めるタイミングも分からないし、実は清掃には一番向いていない人材なんだけど本人が乗り気だからなぁ。なぜか由芽とも仲が良いし」
「架月くんと由芽ちゃんが対等な先輩後輩やってるの、なんかいいよね」
「なんかいいですよね。まあ、由芽にもやっと自分を先輩だと見なしてくれる後輩が入ったということで、良い相互作用を期待します。……あ、佐伯先生」
職員室に戻ってきた佐伯のことを、すかさず木瀬が捕まえる。
「どうでしたか? 一年生の見学」
「うちは深谷をキープできれば充分かな」
「深谷なんてどこの班もほしいですよ、最低条件みたいに言わないでください」
佐伯は自分の椅子に腰を下ろしながら、はっと小さく笑う。
「でも深谷は、農園芸班を選ぶだろうな。俺が唾を付けなくても、うちの上級生たちが今頃熱心に勧誘してると思いますよ。うちの班の連中はそういう根回しができる」
「うちだって由芽が架月を口説いてます。由芽には根回しなんてつもりはないですけど」
木瀬が苦笑交じりに言い返す。
それから彼は、「でも」と少しだけ控えた声で切り出した。
「一年生の御三家、概ね頑張ってくれてますね。今のところは、ですけど」
「……御三家?」
二学年担当の優木が、マグカップを両手で持ちながらきょとんと首を傾げる。
「何ですかぁ、それ」
「青崎架月、須田莉音、深谷純の三人ですよ。あの三人、今年の一年生の中で中学校からの評価がダントツで悪かったんです」
木瀬はさらりと言った。
「中学校からの内申書、ABCの三段階評価で十五項目くらい評価されるじゃないですか。集団行動とか道徳心とか明朗性とか、色々と評価基準があるでしょ。あの三人そこがほとんど最低ランクのC評価で、担任から申し送りされた行動の記録も散々だったんですよ。暴力沙汰に女性トラブル、いじめ問題と問題行動のフルコースでしたから」
「……全然見えないけどなぁ」
優木が目をパチパチとさせながら呟く。
「架月くんはマイペースだけど素直で良い子だし、莉音ちゃんは機嫌がよければ天真爛漫だし、深谷くんは典型的なリーダータイプって感じだし……」
「まあ、申し送りが全てではないですから」
佐伯はそう言ってから、小さく「今俺たちに見せている姿も全てじゃないですけど」と付け加えた。
その数分後、総合文化部の活動を見ていたはずの小寺が職員室に駆け込んできた。
「あの、誰か来てください! 莉音さんが利久くんのこと突き飛ばして、利久くんが棚に頭ぶつけちゃったんです!」
佐伯と木瀬が、弾かれたように立ち上がった。
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