第3話 作業学習の時間

 作業学習班の見学は、清掃班からのスタートとなった。


 清掃班は校舎内のあらゆる場所で活動しているが、一時間目のミーティングの時間だけは体育館裏にある清掃班の用具室で行う。

 佐伯から学校指定の作業着に着替えてから移動するように言われたのだが、架月が着替え終わった頃にはもうすでに教室にはクラスメイトは誰もいなくなっていた。

「……うー……」

 あまりにも見慣れた光景で、天を仰いでしまう。

 小学校時代からずっと、体育の授業で着替えをするたびにみんなに置いて行かれていた。みんなと同じジャージに着替えているはずなのに、どうして自分だけが遅れてしまうのかイマイチよく分からない。


 小学生のときは着替えが遅れてせいで授業に遅刻して、それだけでやる気がなくなってみんなと同じ列に並ぶのを抵抗していた。遅刻した自分が悪いことは分かっているけれど、「遅刻してはいけない」という当たり前のルールを破ってしまうとその日の授業が全部ダメになった気分になってしまうのだ。そういうときの架月には、一時間分の授業が崩れていくドミノを眺めているくらい苦しい時間になる。


 ――さすがに高校生になったから、それだけで授業をサボったりはしないけど。


 作業学習の学習ファイルと筆記用具を抱えて用具室に向かうと、すでに他のクラスメイトたちは用具室の後ろ側に一列に並んでいた。清掃班の担当である木瀬が遅れてやってきた架月を見て苦い顔をする。

「見学から遅刻するのはよくないよ」

 あれ?と架月は混乱する。次の瞬間には、頭に浮かんだ疑問がそのまま口から溢れていた。

「まだチャイムが鳴っていないから、厳密に言うと遅刻してはいません」

「一人だけ遅れていると、厳密に言うと遅刻ではなくても遅刻しているように見えることもあるんだよ」

 どういう意味か分からなくて続けざまに質問しようとしたら、飛び出しかけた危うい反論が明るい声に遮られた。

「大丈夫! 次から頑張ろう!」

 声を殺していたクラスメイトや清掃班の先輩たちが、ふっと気が抜けたような笑みを零した。

 みんなの表情を緩ませたのは、清掃班のグループの中でもひときわ小柄な女子生徒だった。一見すると小学生にも見える彼女は、三年生の指定カラーである緑色のラインが入った上靴を履いている。お人形さんのように綺麗に編み上げられたロングヘアと、くりくりとしたアーモンド型の瞳が印象的な少女だ。

 彼女はニコニコしたまま架月のもとまで駆け寄ってきて、「次は遅れちゃダメだよ」と笑顔のままぴしゃりと言った。大丈夫だと言われた直後に怒られて「なんで?」と思ったけれど、架月は素直に頭を下げた。

「次から遅れません、由芽先輩」

「そうしなさい」

 可愛い見た目と反して手厳しいことを言う彼女は、斉藤由芽という三年生の先輩だ。この由芽こそが、入学翌日に莉音と喧嘩をして校舎から逃げ出しかけた架月を昇降口で捕まえて、木瀬が来るまで泣いていた架月を慰めてくれた先輩だった。

 それ以来、由芽は校舎内で架月を見るたび「サボっちゃダメだよ!」とか「頑張るんだよ!」とか声を掛けてくれるようになった。何と反応したらいいのかも分からないので、架月は言われるたびに「サボりません、お気遣いありがとうございます」「頑張ります、お気遣いありがとうございます」とほとんど反芻のように答えている。

 架月は、清掃班に彼女がいることを知ってホッとした。知っている人がいるのは頼もしい。初手で先生から怒られた見学なら尚更だ。


 木瀬は仕切り直すように柏手を打って、授業を開始した。

「清掃班リーダー、号令」

「はい」

 三年生の男子の先輩が一歩進み出て、一同に号令をかける。

 一年生が先輩たちの見よう見まねで号令に従い、清掃班の授業が始まった。


 清掃班の活動は、ラジオ体操から始まった。

「ラジオ体操から始業する職場って結構あるから、我らが清掃班もそのシステムを採用させてもらっています。一年生もラジオ体操くらいは出来るでしょ、先輩たちと一緒にやってみようか」

 木瀬が言うや否や、由芽が「架月、おいで!」と自分の隣を手で示した。断る道理もないので素直に従う。ファーストコンタクトで大泣きしていたせいで、もしかして由芽から自分は何もできない頼りない後輩だと思われているのかもしれない。心配されているのだとしたら居心地が悪いけれど、先輩に声を掛けてもらえるのは嬉しいので複雑だ。


 ラジオ体操が終わると、それぞれ自分のロッカーに入っていた清掃用具を一式抱えて後者に繰り出す。今日の清掃区域は西校舎の窓掃除だった。先輩がマンツーマンで一年生に教えてくれることになって、そこでも架月は由芽に呼ばれた。

 しかし由芽は手順を教えてくれるわけではなく、いきなり架月に水切りワイパーを渡して使えと言ってきたり、周囲の先輩たちとは明らかに異なる自己流のやり方を始めたりする。結局由芽と架月のコンビだけが全く進まず、見かねた木瀬が「由芽はエースとして全体のチェックをよろしく」と由芽を引き離して、架月に他の先輩をあてがってしまった。


 ちゃんと教えてもらえば、清掃の作業は楽しかった。

「スプラトゥーンみたいです!」

 クリーナーの泡をワイパーで切りながら言ったら、指導係になってくれた先輩はピンとこなかったようで「スプラトゥーンってゲームのやつ?」と小首を傾げる。

「はい、ステージに絵の具を塗るんです。これは泡を綺麗に吹いてるから、スプラトゥーンの逆です」

「架月、お喋りしないで手を動かす!」

 エースを任命された由芽に遠くから注意されて、架月は慌てて「ごめんなさい」と口を閉じた。

 磨けば磨くほど窓が綺麗になっていくのが楽しくて、少しの汚れも見落とせずに集中して磨いていたら、架月が一枚の窓をやっと磨き終わった頃には手際のいい他のクラスメイトたちは担当の区分を全て終わらせていた。

 いち早く自分の担当分を終わらせた深谷が、先生や先輩に何か言われる前に「俺、こっちから拭いていくから」と架月のヘルプに入る。手伝ってくれるなら間に合いそうだなと思って、架月は自分の目の前にある窓を更に集中して磨く。

 結局、架月の担当していた窓は半分以上は深谷が磨いた。


「清掃班、楽しかったです」

 授業終わりに木瀬にそう感想を述べたら、彼は端正に整った眉をぴくぴくっと震わせて笑った。

「……扱きがいがあるなぁ、架月は」

「ありがとうございます」

 律儀に頭を下げたら、その会話をすぐそばで聞いていた深谷が「やめろって!」と架月の腕を引っ張って引きずるように木瀬から離す。

「お前、もしかして清掃班には行かないって決めたから嫌味言ってる? 先生を挑発するのやめろよ」

「挑発してないし、行かないって決めてないよ。むしろ行きたい」

「なんで!? 初日に先生に怒られて、めっちゃ目ぇ付けられてたのに!?」

「木瀬先生には怒られてないよ?」

 深谷は呆気にとられて、「……神経太いなあ、お前」と呟いた。

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