第2話 朝のホームルーム
一年生は二クラスあって、どちらも八人学級だ。架月が所属しているのは一年一組で、男子が七人と女子が一人という普通学級ではちょっとありえない男女比をしている。
教室に入ると、副担任の木瀬辰哉が教卓横に椅子を置いてギターを弾いていた。明星高等支援学校では珍しいくらいに若い男性の先生で、物腰も柔らかいため女子生徒たちに多大な人気がある。
そんな木瀬の隣にぴったりと張り付いていたのは、このクラスで唯一の女子生徒である須田莉音だった。豊かなロングヘアを肩に流した彼女は、うっとりと頬を染めながら木瀬のギター練習を見守っていた。
先生には挨拶をしなければと、架月はそんな彼女の横に進んで「おはようございます」と木瀬に頭を下げる。木瀬はギターの音色を止めて「おはよう」と穏やかに挨拶をした。
次の瞬間、肩を小突くように押された。
「莉音が喋ってんじゃん、割り込んでこないで」
キツい眼差しで睨まれて、架月は一瞬だけ頭が真っ白になる。
ほとんど反射で「ごめんなさい」と謝ったら、すぐさま木瀬が「人を押しちゃダメだろ」と窘めてくる。
「架月は謝ったんだから、君も謝らないと」
木瀬に幾分か厳しく言われ、莉音は渋々といった具合で「……ごめんね!」とやけっぱちのように吐き捨てる。そのまま彼女は桜色の頬をぶすっと膨らませて、そっぽを向いて教室を出て行ってしまう。
須田莉音を怒らせたのは、入学して以来二度目だった。
一度目は入学式の翌日で、架月は新しいクラスメイトに一人ずつ朝の挨拶をしていた。仏頂面で机に突っ伏していた莉音にもおはようございますと呼びかけたのだが、彼女だけは他のクラスメイトと違って全く反応してくれなかった。
だから教室にいた木瀬に、助けを求める意味で尋ねたのだ。
『この子は耳が聞こえない障害なんですか?』
その瞬間、莉音がアルミ製の筆箱を思いっきり床に叩きつけた。
莉音が何か早口に暴言を吐いてきたが、それよりも怒りが籠もった大きな音が怖くて架月は廊下に逃げ出した。どこまでもあの恐ろしい落下音が追ってきているような気がして昇降口まで逃げてきたら、奉仕活動をしていた三年生の先輩が「大丈夫?」と声を掛けて止めてくれた。その先輩の腕にしがみついて声も出さずに泣いていたら、追いついた木瀬に腕を掴んで校内に引き戻されたのである。
怖い場所に連れ戻されるのが嫌で、でも先生に対して反抗するなんてもってのほかで、架月は黙って泣きながら散歩される犬のように木瀬と一緒に教室に戻って莉音に謝罪した。
不機嫌そうな莉音に『何が悪いか分かってるの?』と尋ねられて、混乱したまま『分からないけど許してほしいから謝ってます』と言ったら莉音はいよいよ怒り心頭で口を利いてくれなくなった。
それ以来、架月と莉音は一年一組の水と油だ。
気まずい思いで自分の席に座り、朝学習のプリントに取り組む。この学校では毎朝、ホームルームが始まる前に漢字や数学のプリントを解くのだ。それを知ったときは、毎日テストがあるなんて大変すぎると青ざめたものの、実際のプリントは小学生レベルの漢字や計算問題が多かった。
今日のプリントも簡単な漢字の読み取り問題で、架月は難なく解いていく。
しばらくすると、隣の席にいた男子生徒――深谷純につんっとシャーペンのキャップ部分で腕を突かれた。
「なぁ架月、三問目ってなんて読むの?」
「『きょうじゅ』。だいがくきょうじゅ」
「ありがと」
見ると、純のプリントはほとんど白紙状態だった。やる気がないのかなと思って小首を傾げたら、純が続けざまに質問をしてくる。
「これ、何年生くらいの問題だか分かる?」
「小学四年生か五年生くらいだと思います」
「……へえ、そうなんだ」
純はさらりと頷いて、自分のプリントにシャーペンで「きょじゅう」と記入した。
ホームルームを告げるチャイムが鳴り、木瀬がギターをケースに片付ける。それと同時に、担任の佐伯信治が教室に入ってきた。いかにも新米らしい木瀬とは対照的に、佐伯は架月たちの祖父でもおかしくないくらいの老齢の先生である。
架月は今日、日直だった。佐伯に促されて号令をかけ、教卓の前に立ってホームルームの進行をこなしていく。健康観察をして、今日の目標を発表して、時間割を読み上げる。
「今日は一時間目から四時間目が作業学習班の見学です」
ずっと不機嫌そうにそっぽを向いていた莉音が、それを聞いてパッと笑顔になった。
「接客班やりたいっ」
日直としてのお決まりの流れを遮られて、架月はどうしたらいいか分からず狼狽える。佐伯がやんわりと続きを促してくれたおかげで、「最後は先生からの話です、佐伯先生お願いします」と言って自分の席に戻ることができた。
佐伯は架月が自分の席に座るのを待ってから、口を開く。
「架月が言ったとおり、今日は一時間目から作業学習班の見学だ。学校見学会でも説明されたと思うけど、作業学習は君たちが将来就労するときに必要となる技術をつける授業で、一年生から三年生までが縦割りで班を作って活動する。うちの学校には五つの作業学習班があるけど、全部覚えてる? はい、深谷」
架月や莉音など真っ先に発言しがちな生徒が口を開く前に、のんびりと机に肘をついて話を聞いていた深谷に話を振る。
深谷は平静に姿勢を正して、すらすらと答えた。
「接客班と、清掃班と、農園芸班と、食品加工班と、ピッキング班です」
「その通り。今日から一週間かけて、一つずつ作業班を回って体験してもらう。最終的に第一希望から第三希望までを取って、この一年間入る班を決めるから慎重に先輩たちの話を聞くように」
朝のホームルームが終了した。
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