僕たちの青春はちょっとだけ特別

雨井湖音

四色紙吹雪事件

第1話 入学

 同級生の顔を誰一人として覚えずに中学校を卒業して、青崎架月は今年の春から特別支援学校に通う高校生になった。


 最寄りのバス停から十分ほど歩くと、自然豊かな林原を切り拓いたような土地にそびえる木造風の校舎が見える。校門付近のフェンスには農園芸班が多種の蔓植物が巻き付いていて、春に花を咲かせるニチニチソウが鮮やかな紫色の花弁を光らせていた。

 明星高等支援学校の朝は早い。

 架月たちバス通学組が登校した頃には、すでに寮生たちが登校を終えていて朝の奉仕活動を行っている。学校の隣には寄宿舎があって、遠方からの生徒が寮生として生活しているのだ。

 奉仕活動は校舎内外の清掃活動のことで、ちょうど架月が登校したときには三年生の先輩がホースで校門近くの花壇に水をやっていた。その隣に先生もいたので、架月はぴたりと足を止めて丁寧に頭を下げた。

「おはようございます」

 先生が「おはよう」と返してくると同時に、先輩がホースの水を止めてくるりとこちらに向き直ってきた。架月はそちらにも頭を下げる。

「おはようございます、利久先輩」

「朝ご飯、何食べた?」

「えっと、トーストと目玉焼きとスープです」

「おいしかった?」

「はい」

 ――昨日も同じことを聞かれて、同じように答えたんだけどな。

 架月が戸惑っていると、先輩は何事もなかったように花の水やりを再開する。すかさず先生に「そろそろ別の花壇に水やって、土びちゃびちゃになってるぞ」と指摘されて、作業が止められたのが不満であるかのように「やめてください」と虚空に向かって片手を振った。

 この先輩は折原利久といって、朝の挨拶のときに毎日必ず同じ質問をする。最初こそ話しかけてもらえて嬉しかったのだけど、入学してから一週間も経つとそろそろ「これは普通の会話じゃないんだな」と架月も気が付いてきた。

「利久、そろそろ別の花壇にも水あげて。ほら、次はガーベラ」

「やめてください、大丈夫です」

「早くやらないと朝学習の前までに終わらないぞ」

「大丈夫です」

 言いながら、利久は不満を露わにした表情でホースの向きを変える。奉仕活動は二週間ごとに担当場所を変えるのだが、きっと利久はこの時間があまり好きではないのだろう。花壇の水やりはいつも一箇所だけに水をあげすぎて、土をびちゃびちゃにして先生に怒られて不機嫌になるというのが常だった。

 水やりができない。先生に注意されているのに、素直に聞かない。架月の朝ご飯が毎日のように気になる。

 ――一体この人は、どういう障害なんだろうなぁ。

 そんなことを考えながら、架月は校門をくぐった。


 明星高等支援学校は県内にある唯一の私立特別支援学校だ。高等部だけの三年制で、軽度の知的障害を持つ生徒たちが就労と自立を目指して学んでいる。


 架月が明星高等支援学校を決めたのは、中学三年生の夏だった。

 通常学級に在籍していた架月は、中学三年生になってから進路に悩まされていた。

 架月は元々、自分の成績で行ける高校がとても少ないことを知っていた。担任の先生から「この高校なら青崎でも行ける」と勧められた学校は、小学校時代から架月に嫌がらせをしていた同級生たちも進学する可能性がある場所だったので気が進まなかった。


 ほとんど八方塞がりになったとき、父親が明星高等支援学校への学校見学を申し込んだのだ。父親は障害云々の話題には触れず、「架月が好きそうな授業があるよ」と学校のパンフレットを見せてきた。「学校見学会に行ってみないか? 帰りにイオンに寄って何か好きな本を買ってやるから」とほとんど物で吊られて、架月は両親と夏休みに学校見学に行った。


 後から聞いた話だが、母親は学校見学会に行った架月が少しでも嫌がる素振りを見せたら反対するつもりだったという。特別支援学校の高等部に進学すると、高卒の認定がもらえず中卒のままで社会に出ることになる。おまけに就職先も一般就職だとしても障害者雇用枠になり、労働条件も普通学校を卒業した場合と比べてかなり厳しくなる。そのことが気掛かりだったらしい。


 しかし架月は、そんな母親が呆気にとられるほどに明星高等支援学校の空気に適応した。


 学校見学会では授業の体験をさせてもらえて、架月はハンドベルの授業を体験した。中学時代は一つの教室に三十人以上がいたけれど、見学会で教室に集まったのはほんの十人程度で、教室の机は数えてみると七個しかなかった。


 ――七人しかいないクラスなんだ。


 大人数の教室では何を聞いてどこを見たらいいかも分からなかったけれど、ほんの十人くらいだとちゃんと先生の話が耳に入ってくることに初めて気が付いた。先生の目が自分に注がれている時間も中学校の授業よりも格段に長く、何かをするたびに声を掛けてくれる。三十人のクラスでは、ほんの数人の出来る子たちだけが与えられていた特別扱いを、この教室では全員が受けることができる。


 たった数十分の体験授業で、架月は初めて自分がちゃんとクラスにいる人間として扱われている時間を味わった。

 体験授業が終わって両親のもとに帰って、架月は父親も母親も呆気にとられるくらい授業の感想をたくさん喋った。その反応を見て、両親は覚悟を決めたらしい。

 学校見学会が終わりかけたとき、母親が案内をしてくれた先生を捕まえてこんな質問をした。

「ずっと前に療育手帳の申請をしたら、対象にならないと言われてしまったんです。でも明星の受験をするなら必要になりますよね、どうしたらいいでしょうか」


 そこから両親は色々と調べて、中学三年生の冬というかなりギリギリのタイミングで明星高等支援学校に入学できる魔法のアイテムを取得してくれた。

 中学校では特別支援学校への入学試験の対策はほとんどしてもらえなかったけれど、それでも架月は何とか自力で試験科目である国語と数学の勉強をして試験に臨んだ。


 そして、今年の春。

 架月は何の思い入れもない中学校の制服を押し入れにしまい、真新しい紺色のブレザー制服に袖を通して明星高等支援学校の門扉をくぐったのである。

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