りんごジャム

 腕の中で寝息を立てる桃色が一つ。触れる体からは確かな熱が伝わってくる。こうも温かな生をまざまざと感じていると、このまま瞼を下ろしきり、今日を終わらせてしまいたくなる。それはいけない。明日の幸せのためにやらなければならないことが残されているのだ。


 私は幕引く今日の意識に100Vブザーを鳴らす。それから、少女を起こさぬように、ゆっくりとベッドから出る。薄明りの中、床の木目に沿うように足を這わせる。そろりとそろりと。


 ドアノブに手を掛ける。掌いっぱいに蓄えた温かさを吸い尽くすように、ひんやりとした無機物の熱を放っている。やっぱりベッドに戻ろうかと、後ろ髪を引かれながら部屋を後にした。


 階段を下りて一階のキッチンへと向かう。これから『りんごジャム』を作るのだ。明日の朝食に二人で味わいたいので、夜のうちに作っておくのである。作り方は……と言うほどの工程は要しない。必要なものはりんごとお砂糖。それらを焦がさぬように煮詰めればいいだけだ。




 ♦


 鍋の中のりんごは次第にテカテカとしてくる。沸々と自身から出た水分と甘みが、お砂糖と合わさって蕩けている。


ひっくり返してやると、とろみを帯びた綺麗な顔が鍋には並ぶ。これらのりんごがトパーズのようだというのは少々言い過ぎかもしれないが、キラキラと輝くりんごたちを宝石と見紛うのはおかしな話ではないのかもしれない。この時ばかりはそう思ってしまう。



 ヘラを手に鍋と40分ほど向き合っていると、黄金色のジャムは完成する。私の素性を知っている者からすれば、この煮詰めている物の正体がまさか、ジャムであるなどとは思わないだろう。


あいにく怪しい薬の類を調合する大きな釜は部屋の隅で埃を被っている。そんなものを作っている暇があるなら、大切な人の笑顔の元になるものを作りたいと考えるのは、私だってあなた方と同じである。


 つまらないことを考えながら、冷めない内にジャムを瓶詰めにしていく。鍋を傾けると、トロトロと瓶底から黄金色の波は迫り上がってくる。甘く酸味がある香りは湯気を纏って鼻腔へと到達する。出来る限り鍋底をこそいで、仲間外れを見逃さないようにする。あとはしっかりと蓋をして完成だ。




 ♦


「もう朝ですよ!」



 世界で一番。可愛らしい声が耳に届いたような気がした次の瞬間。強烈な閃光が視界を白けさせる。昨晩、スヤスヤと幸せそうな寝顔を披露していた少女がカーテンを開けたのだろう。日の光は寝ぼけきった体に染み入るように、それこそ昨晩のジャムのよ──。



「そろそろ、目をお開けになったらどうです?」


「おはようございます。リリー」



 少女の二言目を受けると、頭の中のもにゃもにゃが、すっと晴れ渡るような気がした。次第に、呆れ果てた顔を浮かべる彼女の顔がはっきりと浮かぶ。



「はい、おはようございます。ご主人様」



 逆光。揺らめくカーテン。にこりと微笑む顔。カーテシーから姿勢を楽にする少女の姿に目を奪われる。



「あなたは天使か、それに似たなにかの類なのでしょうか」


「もういいです。さっさと朝の支度を終わらせて降りてきてください」



 少女は怪訝そうな顔で私を一瞥すると、さっさと部屋から出て行った。ドタンと響いた音が少し寂しい。



「起きましょうか」



 ♦


 階段を下りていくと、紅茶の豊かな香ばしさが漂ってくる。寝ぼけながら起きて、のんびりと身支度をしてから部屋を出ると、朝食がテーブルに並べられているのだ。本当に甘やかされているなと、思うと同時に幸せも噛み締める。



「良い香りですね」



 椅子を引きながら、すまし顔で向かいに座っている少女に声を掛ける。



「先程の青髪の人は誰だったのでしょうか。ご主人様は今日もお綺麗です」


「それはさぞかし素敵な妖精さんだったに違いありませんね」


「はい、実にねぼすけでおとぼけな妖精さんでした。それより、魔女様が妖精だとか。気軽に発していいものなのでしょうか」


「おやおや、良い機会ですから妖精とは何たるかをみっち──。いえ、きっとそいつは悪い妖精に違いありません! リリー、今朝はお世話になりました」


「お、お礼なんてそんな! 私がやりたくてやっていることですから。意地悪してごめんなさい」



 食卓には微妙な空気が流れている。コロコロと攻守が一転していくような会話は結局私の元へ。匙が帰えることは、私と少女の立場の違いからだろう。何だか少し寂しくなる。もっと寝起きが悪い私のことを叱ってくれてもいいのに。



「リリー。今朝のことはこの辺で終わりにして、朝食を頂きましょうか」



 私は頭を下げる少女に声をかける。少女は顔を上げると短く返事をする。


それから、両手を合わせて感謝の言葉を口にする。



「「いただきます」」



 私はテーブルの真ん中に鎮座する瓶を手に取る。これは例のりんごジャムだ。いち早く、リリーに紹介したいものである。



「ジャジャーン! これが私特製のりんごジャムです!」


「りんごじゃむ?」



 浮かない顔の少女は首を傾げる。



「これをパンに塗って食べるとそれはもう」



 私は瓶を開けてスプーンでジャムをすくう。ひんやりとした瓶から、顔を見せるのはとろりとしたりんごたちだ。出来立てよりも幾分か色が落ち着いて黄色みが増している。


それをそのままパンの上に着地させる。少女へお手本を見せるように、ゆっくりと美味しそうに。



「はい。是非リリーにも食べてもらいたいです」



 手を伸ばした少女の目は大きく見開いていた。眼は日の光を反射させる水面のキラキラそのものだ。少女は先程の私のように、ゆっくりとジャムをパンの上に着地させる。



「さぁさ、食べてみてください」



 パンを顔の前に持ってきては、トパーズを不思議そうに眺めている少女の背中を押す。生唾を飲み込む合図と共に、宝石を乗せた小麦の船は口内へと進んでいく。


 ──パクリ。


 口を閉じた少女は愛らしい顔を私に向ける。美味しいものと出会ったときの、彼女のこの顔は何度見ても飽きない。



「うーーん! おいしいです!」



 目を閉じてじっくりと咀嚼を終えた少女の口から、溢れ出した言葉であった。



「私も喜んでもらえて感激ですよ」


「りんごってこんなに甘くて、じゅんわりとしているものだったのですね」


「そうでしょう。お砂糖さんの力も借りていますが、りんごはやはりとんでもない果実なのですよ」


「早くご主人様も食べてみてください!」



 私も一口齧り、目を閉じる。


 上顎はひんやりとしたジャム。下顎はザクッとしたパン。噛み合わせると口いっぱいにそれらが凝縮されるように一つになる。パンとジャムが手を取り合って口の中で踊り出す。


咀嚼する度に、体の芯に沁み入るような果物の甘さと、体の回りを包むような小麦の甘さが混ざり合っていくのだ。喉を通過するこの幸せ物質は、次の一口への動きを増進させるのである。



「うーーん! ほっぺたが落ちてしまいますね!」



 リリーは私の感想を待ってましたとばかりに見つめていた。



「ご主人様は本当に美味しそうに食べますよね。私まで幸せになってしまいますよ」


「へぇー。私はどんな顔をしているのですか?」


「それはもう。私にはとても──」


「ええ! そんな恥ずかしい顔なんですか!」



 私は顔を両手で覆った。



「……リリーも人のことを言えないぐらい愛らしい顔をしてましたよ」


「え!」



 リリーも全く同じように顔を隠す。



「「ははははは」」


「おあいこですよ」


「はい。いや、このりんごジャムの一人勝ちかもしれませんよ」


「あらら。嬉しいことを言ってくれますね。それでは、私はこのジャムに感謝しなくてはいけませんね」


 いつまでもリリーと一緒に。この家で美味しいものを食べていたいと願ういつもの一日の始まりであった。

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ネコミミなご主人様とツケミミな従者さん シンシア @syndy_ataru

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