太陽の音を忘れない

示紫元陽

太陽の音を忘れない

 蒼く透明な硝子の中で気泡が踊る。甘い炭酸の海の向こうを覗けば、夏の木洩れ日が揺らいでいる。そんな光景を、ラムネ瓶を手にするといつも思い出す。

 千晴ちはるが滝を見にここを訪れたのは中学生のときだった。夏休みのただ中、確か盂蘭盆会を過ぎた頃だったと記憶している。家族に連れられ、一泊かけての小旅行だった。暑さがたけなわといった頃合いで、納涼の目的でもあった。

 滝なんてものはたいがい山の中にあるが、ここも例外ではなく、入り口付近の町並みを過ぎれば木々に囲まれた道となっていた。周囲からは蝉が夏を判然と知らせてくる。しかし太陽は蔓延はびこった樹木に遮られ、沢に沿って登る遊歩道は日中でも涼しい。枝葉から弱く零れ落ちる陽に彩られた地面も湿っていてひんやりとしている。山椒魚がいるほど清い水のお陰であろう。吹く風が汗を飛ばして些か冷えると思えるほどであった。

 小さなものも数えたならば、滝は至る所を落ちていた。しかし、中でも瀑布と呼ぶべきいくらかは、やはり格別の感がある。細かに散りばめられた飛沫しぶきが森の緑を薄く纏ってカーテンのように揺れていた。滝壺は黒く、できそこないの鏡のように自然を映している。どどどどどと鳴る落水の音が、現実の流動を明瞭にしているかのようだった。

「涼しい。」

 かつての千晴の第一声はそれだった。

「涼しいねぇ。」

 千晴の母はつばの広いハットを摘まみ上げて滝を見上げていた。その横では父がファインダーを覗いていた。

 当時の記憶はおぼろげで、それ以上を千晴は多く覚えていない。断片的な記憶だけが残っていて、道中を回顧しようにも、どうしても映像が途切れてしまう。滝とか、山椒魚とか、橋の欄干とか、父が足を滑らせて肝を冷やしたこととか、印象的なは思い出せるのに、間を繋ぐ糸は容易に断ち切られるのである。

 それでも、思い出せないことに淋しさはない。というのも、千晴の生を一際彩った断片は、むしろ忘れること叶わなかったからである。

 少し広い岩場が休息場所となっており、飲み物などが売られていたのだが、そこで千晴はラムネを買ってもらった。炭酸が喉を抜ける時の爽やかさと瓶の優しい冷たさが夏の疲れを吹き飛ばす。カラコロと鳴ったビー玉が緑を閉じ込めている。千晴は立ったまま、そのすぐに壊れてしまいそうな小さな海を掲げ、またカラコロと鳴らした。

「お嬢ちゃん、良かったらビー玉いるかい?」

 空になった瓶を返しに行くと、店の男にそう尋ねられた。

 傍らにラムネ瓶のビー玉が敷き詰められたたらいがあった。濡れた丸い表面が森の空気を吸って瑞々しい。一つ一つが艶やかに輝いていて、ほんの少し見る位置を変えただけで白い光の粒が球面を凜となぞる。千晴は自然と手が伸びて、内一つをいただいてしまった。玉響のような美しさに魅せられたのかもしれない。

 しかし、そうして手に収めたときはあたかも宝石のような煌びやかさを感じたのだが、家に帰ってみると、千晴には畢竟ただの硝子玉にしか感じられなくなった。

「じゃあ俺が貰ってやろう。」

 千晴の父は何が嬉しいのか、意気揚々とビー玉を持ってアトリエに持って行ってしまった。

 千晴の父は彫刻を趣味としていた。家の一角が彼のアトリエで、主に木を彫っては軒先に飾ったり、時にはなんちゃら賞に応募したりもしていた。概ね掌か両手に乗るものを好んで創っていたが、賞に出すものはもう少し大きい作品であることもままあった。

 アトリエを千晴は偶に覗くことがあったが、扉を開けると鼻をくすぐる木の香りが好きだった。作業台の上でせっせと彫刻刀を動かす父の背はどこか威厳を湛えていて、カツカツと樹木が彫られる音を聴くと無二の世界に浸る気分になった。手元に垣間見える削り屑は、父が作品に込めた魂か何かの証に感じられた。

「何を彫っているの?」

「今はチャリオットだ。」

「チャリオット?」

「まぁ、馬車だな。」

「ふぅん。」

 少し大きめの彫刻だったが、荒削りで、その時はまだよく分からなかった。代わりに父の描いた乱雑なスケッチが横にあって、あぁこんな風になるのかと千晴は適当に想像を膨らませた。所々に焔が描かれている。

「なんで燃えてるの?」

「モチーフはアポロンの馬車だからな。」

「アポロン?」

「神様だ。天照あまてらすみたいな。」

「ふぅん。」

 それから半年ほど後に千晴の父の作品は完成した。

 二頭の馬が車を引いていた。一頭はいななき、もう一頭はこちらを見据えている。公募に出すからか色づけまで丁寧に施されており、馬のくつわや手綱、車輪、椅子に至るまで、輝きを放つような演出が成されていた。それも黄金や白銀の類いは散りばめられている程度で、白や黄を基調にして丹念に光彩を描いているのである。

 蹄からは焔が舞い上がっていた。チリチリと身を緩やかに焦がすような感じの焔で、決して迅雷に盛るが如き無慈悲な業火ではない。とはいえ、線香花火のように儚げでもない。一歩を踏み出せば熱を帯び、火の粉を纏い、周囲が熱で支配されるのではないかという思いに駆られる。

 中でも異彩を放っていたのは、嘶いた馬の片眼が硝子だったことだ。千晴が父にあげた例のビー玉である。その瞳は真っ黒で、覗いた者を眼底に映してくる。絢爛な装飾に比してそこだけが周囲を吸い込んでいるようで、小さくて丸い透明な空間は、世界を湛えているようにも見えた。

「こんなに燃えてたら、硝子、溶けちゃわない?」

「溶けやしないさ。この眼はそういうもんだ。」

「ふぅん。」

 展示ケースの中のチャリオットをもう一度見たが、千晴は父の言葉をうまく飲み込めなかった。

 作品にはなにかしらの賞が与えられたらしい。父は誇らしげに賞状を抱えて、ほれみろと、千晴が何も言っていないのに冗談めかしておどけていた。よほど嬉しかったのだろう。千晴が目にしてきた中で、最も喜ぶ父の姿だった。千晴も思わずその雄志を写真に収めてしまったほどだ。父の自慢の作品の中に、自分があげた物--掌で覆われてしまうほどのちっぽけな物だったが--が息をしているのが嬉しかったのかもしれない。

 また黄金のチャリオットを眺めると、その焔に当てられたかのように千晴の胸の内が燻った。

 数年後、千晴が大学生の時に父は逝去した。事故で半身不随となり、復帰への努力むなしく廃用での急速な衰弱だった。最期は家でという本人の意志から自宅で看取られたのだが、そのさい傍らに置かれたのは、かのチャリオットの彫刻だった。

「千晴が生まれた日は、良く晴れていた。」

 父は亡くなる一週間ほど前、ベッドに横たわりながら語った。

 千晴が生まれたのは真夏の午後だった。その頃は何日も晴天が続いていて、母の病室から見える山辺はいつも雲の峰が猛々しかったらしい。一度夕べに父が見舞いに訪れたとき、茜と紫とを混ぜ合わせたように染まった鉄床雲かなとこぐもが碧天にそびえていたという。

『鬱陶しいほど暑くて堪らないけど、太陽の贈り物も捨てたもんじゃないな。』

『こんな風に、心にたくさん晴れを抱ける子に育ってほしいね。』

 そうして千晴は名付けられたという。以前にも話には聞いていたが、父の語りはそれに尽きず、ゆっくりと首を彫刻に向けて続けた。

「このチャリオットは、千晴へと思って創ったんだ。

 お前があっさりビー玉に興味をなくしたとき、俺はあの滝へ行った時の千晴の顔を思い出して、捨てたくないと思ったんだ。あのときの千晴は、別にこれといった理由もなく手に取ったんだと思うけど、笑顔が本当に純粋だった。混じりけがなくて、嘘偽りなくて、俺にはそう見えたんだ。太陽が照らしているはずなのに、なんというか、千晴が俺の視界を彩ってくれているように見えた。

 だから、これを千晴がいらないと言ったとき、代わりに俺が大切に使ってやりたい気持ちになったんだ。これを使えば、あの時の色を描ける気がした。そしたら入賞だもんな、嬉しいったらなかったよ。」

「私も嬉しかったよ。ほんの少しだけど、私がお父さんの作品の中に入れた気がしたから。」

 千晴の父は恥ずかしそうに微笑んだ。

「千晴、これからも太陽のように生きろよ。」

「もちろんだよ。」

 千晴は、馬の眼が溶けることはないと父が言った理由がやっと判った気がした。そのとき父の眼に映っている自分が、父にとってその証なのだろうと。もしも不十分ならばそうなりたいと、千晴は心で呟いた。

 そうして父がこの世を去ってから数年が経った今、千晴がビー玉を貰った滝へやって来たのはふとした思いつきだった。既に働きに出る身であったが、仕事帰りの夕暮れにそびえる入道雲を見たとき、己の名の由来を思い出したのがきっかけだった。結局は繰り返しのような日常を送ってしまっていた自分に辟易していたから、ちょっとした気分転換にも良いだろうと思った。

 山道は千晴の脳内と変わらず澄んだ空気が漂っていた。肺いっぱいに涼やかさを吸い込めば、過去も一緒に肌身に感じるようである。独りで来たから話し相手はいないが、その分途切れ途切れの記憶をおぼろげになぞりながら、落ち着いて歩くことができた。そんな風にしてずっと進んでいくと、ラムネを売っていた場所も同じようにして存在していたわけである。

 迷わず一本買ってみれば何のことはない、ただのラムネだ。そこらの店頭にあるものと寸分違わぬいろかたちである。だが、千晴はそれで満足だった。

 一口飲むと爽やかさが喉を通り抜けて、汗を弾き飛ばした。口から離して瓶を揺らせばカラコロと鳴る。透明で、世界を映すビー玉が。もう一度傾けてラムネを流し込んでみれば、今度は一際大きくカラコロと鳴った。

「涼しい音。」

 心の中で静かに火花が弾けた。蹄から火の粉を舞い散らせ、嘶きながら翔る黄金のチャリオットが鮮明に思い描かれた。

 焔を纏う姿。黄金の装飾で輝く駿馬。四方に光を照射する天の乗り物。それは千晴にとってはあまりにも荷が重い存在にも思えるが、父が願ったのはそんな大層な代物ではないだろう。現に、創った彫刻は畏怖を抱くような荘厳なものではなく、逞しさに温もりが内包されているように思われる。

 改めて硝子の眼が記憶に呼び起こされ、父の姿も脳裡に浮かんだ。アトリエで作業をする姿。完成した作品を自慢げに掲げる姿。千晴に願いを述べた姿。

 千晴は今一度ラムネ瓶を揺らして、耳元でカラコロという音を聴いた。頭の中で凜と響く。胸の中でチャリオットが駆けた気がした。


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