シスター
相棒と別れたヤエはコンクリートの壁を振り返らずに草原を抜け、噴水広場まで戻ってきた。
お腹の空き具合から判断できるように、自分が教会を離れてしばらく経ったはず。だというのに、教会から街へ引き返してくる人々の小さな波が押し寄せてきた。
元神官が説教をしている最中にシスターが聖堂にいなくてよかったのかと思われているに違いない。
少し意外だった。ヤエとしては作戦も伝えない彼がこれほど長く民衆へ熱弁する印象がなかったからだ。彼は神殺しと教会関係者を庇護することに注力して、メヘルブのこれからについてはまるで考えていないものと思っていた。
神父・カイルは大切な人と正面から向き合い、救出のために尽力する。あの時は彼と同じ方向を向いていたから事なきを得たが、好青年からあれほどの熱視線を浴びせられたら自分はきっと動揺する。たまに暴走するし、抜けている部分もあるが、それゆえ真剣になった時の火力は緩急が効く。
彼が説教台で皆に何を伝えたのか。夕食後、時間を見つけて彼から直接教えてもらいたい。彼の部下としてではなく、ヤエ個人としてカイルという青年に興味が湧いた。
そのカイルが大変なことになっているのを知らないヤエは、このように今日このあと自分がいる風景を気楽に想像できる。すれ違う者たちが彼女へ向ける視線に、何故ここにいるのかではなく、急がなくていいのかという意味合いがあっても気付くはずもない。
夕食は教会関係者みんなで。民衆を教会へ集める前にカイルからそう伝えられていたので承知しているが、それより先にやることがあった。
悪神を滅ぼし、世界が変わる今だからこそ、真っ先に想いを伝えたい相手がいる。その人に会うため、広場を中継して『東区』を目指そうとすると、羊頭人の道から自分と同じ格好の人物がこっちに駆けてくるのが見えた。
シスター・クウラだった。ヤエの姉。このメヘルブを望まなかった一員。
せっかく清々しい気分なのにまた騒がしくなりそうだ……と、さっそく溜め息を吐いた。
ヤエだけでなく、二人の仲を知る周囲の者たちもそう予感するところだが、クウラが慌てている理由だけはヤエ以外の誰もが把握していた。
「ヤエ!」
「姉さん……」
息を乱して駆けつけた実の姉を反射的に蔑む妹。妹の塩対応に「そんな顔しないで!」とクウラは弱るも、ヤエの方はいつもの姉とは僅かばかり様子が違うことを見抜いた。
どこに行っていたのか?……そう問われるものと思い込んでいたから、クウラの言葉はヤエの頭になかったもので、自身の反応にさえ驚愕する羽目になった。
「カイル君が倒れたの……」
「何ですって!?」
らしくない声量だった。ヤエとしては今夜は静かに、あるいは賑やかに過ごして明日から張り切る心構えでいたため、残る二人のシスターだけでなく、彼にもアクシデントが起こるなんて思いもしなかった。
ユアンが傍にいたからメヘルブの真実を知っても前を向いていられたわけではない。根底にはいつだって他者のために尽くす献身の決意があった。
異端で、信仰の精神は元からなく、宗教学に関心がある程度だった。
それでも、シスター・ヤエも本質は心からの聖職者であり、隣人を愛する才能を持つ者なのだから、傍にいる誰かに不幸があれば冷静ではいられなくなる。
「何でもっと早く言わないのですか!」
「何よ!カイル君が良い話してる時にどっか行っちゃったくせに!」
「貴女は何をしていたのです!まさか最後列だから間に合わなかったとか言わないですよね!?」
「一番前でも間に合わないわよ!あんな突然!カイル君は勝手に汚した十字架を勝手に綺麗にしようとして勝手に倒れたんだから!」
「じゅうじ……え?……どうして?」
理解できないカイルの行動を思い浮かべると、急激に熱が冷めた。
ただ、周囲の人々が自分たちの言い合いを見世物として楽しむように微笑んでいるのが気に入らず、ヤエは四方を睨んで観衆を撤収させた。
変わるメヘルブの、まだ変わらない光景。新時代に不安のある者たちはそれで幾らか気が楽になった。
「よく分かりませんが、倒れた後のしん……カイルさんは?」
「ヤエ……良いね!カイルさんだって!」
「はしゃぐ場面ですか?シスター・クウラ」
まだ恥ずかしいため、その点を弄られると再び怒りが込み上げてくる乙女。逆にクウラはこれ以上はしゃぐとまた妹に泣かされてしまうと懸念して、そろそろ真面目に話し合おうという心持ちになった。
二人の目的地は確認せずとも同じ。だから、その点に関しては揉めることなく、久々に並んで歩く姉妹だった。
「うん、すみません。えっとね、まずカイル君はお話が終わった後にいきなりワインボトルで十字架を殴ったわけだけど――」
「……正気で?」
「うーん、どうだろ。カイル君が起きたら直接聞いてみて!……でも、私はカイル君の想いが少しだけ分かった気がするから、できれば怒らないであげてほしいな。それに、ちゃんと自分で掃除するつもりだったんだよ?ほら、ワインとガラスの破片でメチャクチャになってたから。他にも知らない臭いが混じってた気もするけど……とにかく悪いことをした自覚はあったみたい!」
「それは……」
「なのに、何だか糸が切れたみたいにいきなり倒れちゃってさ。顔なんて真っ白だった!マイアさんやオルカみたいに!私と男の子たちで寝室に運ぼうとしたんだけど……何と!前の席に座ってた人たちが手伝ってくれたの!いつもより冷たい人もいたけど、いつもと違って優しくなった人もいたんだよ!まあ、カイル君の部屋を覗いた途端に引いてたけどねー……」
それがメヘルブの変化であり、他の誰でもなく、カイルが促した変化のきっかけだった。
呪いから解き放たれた後のメヘルブが全て好都合なことばかりでないのは、カイルだけでなくヤエも当然覚悟していた。クウラの言う通り、暫定的とはいえ敵に回ってしまった者もいるのだろう。そういった勢力とは今後、何度か衝突することになるかもしれない。
それはとても物騒で、平穏とは程遠い状況だ。ヤエたちがこれから帰る場所で待つあの人まで豹変するようなことがあれば、自分のこれからに期待して別れた彼に会わせる顔がなくなる。
そんな悪い未来を案じて、ヤエはここでようやく少しばかり俯く。
そして、すぐに落ち込むのをやめた。何故ならそれだけではなかったからだ。
他人は変わる。変わってしまう。不都合な方向にも、好都合な方向にも。
それなら、そういうものだと諦めて、自分を曲げずに立ち向かえばいい。
同志のカイルがあれだけ堂々と皆に意見を言っていたのが誇らしく、自分より先を行く存在が現れたのがヤエにとっても絶好の刺激であり、これからの未来に期待できる道標なのだから。
姉のは為す様子から大事に至ったわけではないのもよく分かった。
カイルと歓喜を分かち合いたい気持ちが溢れている。この感情はヤエが自分を曲げず、世の中への異端性を保ち続けたことへの報酬に等しく、これもまた、目覚めた彼に伝えたい感謝の想いに他ならない。
マイアさんはまだ時間がいるけど、オルカさんは今後もあのようにおしとやかだと思う。停滞を望んだ姉さんもこんな調子。男の子たちは信頼とは似て非なる縁を彼と結んだように思える。
それなら自分が彼に厳しくいかなければ。
感謝を伝え、今日明日はゆっくり休んでもらいたいところが、以降はもう容赦しない。指導者に相応しい振る舞いをしてもらうため、まずはマナーと教養を教え込む必要があると、独り企む少女であった。
「疲労でしょうね」
「うん。診療所の先生も診てくれたけど、そうみたい。起きたら水分と栄養のあるものを摂るようにって」
「そうですか。先生が敵でなくて良かったです。カイルさんも大事にならず何より」
「ホントだねー。けど、みんな疲れてるみたいだから夕食を盛大にやるって話は無しになったよ。あっ、代わりに私がみんなの夕食作っておいたから、後で片付けといてくれる?」
「引き継ぎ、了解です。お疲れ様でした」
今回の夜勤はマイアかオルカのいずれかだったはずだが、二人とも今夜はもう休んだ方がいい。その点は同意で、用事を済ませた後で教会に戻るのも異存はない。
しかし、そうなると当然ヤエには気になる問題が生じる。
「子供たちは?」
「二人はもう見守りなんていらないって言ってたけど、万が一に備えて深夜の教会に誰かを置く必要があるから、二十四時間体制はしばらく変わらないだろうねー。でも、明日は教会を閉めるから今夜の心配はいらないってマイアさんが言ってたよー」
「し、閉める?どうしてまた……」
「分かんない。カイル君がそう言ってたんだよ。メヘルブが解放された最初の日記念?めくりまっくす?」
「メリークリスマスだと思われます。……いえ、何ですかそのいい加減な采配!関係者の出入りは!?彼らの食事は!?」
「明後日カイル君に聞いてみるといいよー」
「……はぁ。もういいです。明日の朝、直々に確かめに行きます」
「やだなぁ、ヤエってば。だから明日は教会が休みなんだって!それなら私たちも休みに決まってるじゃーん!もう、この子ったらー」
「馬鹿ですか?いくら人口が少なくガスが無限でも全員が一斉に休めばすぐ困窮しますよ。教会が休みなら良い機会です。これまで手を付けてこなかった街の仕事を手伝うとしましょう。私もやってみたかったのです、狩猟」
「…………え?休みじゃないの?」
ついうっかり神を否定してしまったかのように虚ろな瞳でクウラが問う。それだけでこの姉が自分と同じ方向に向かっている理由が分かってしまい、ヤエは実の姉を改めて蔑んだ。
ノリとマニュアルだけで生きてきたこの女、全く成長する気がない……。カイルが説教台で何を話したかを姉伝いに聞くのを愚策とした妹の判断は正しかった。
「カイルさんは休みと言っていましたか?」
「カイルさんは休みとは言ってなかったですね……」
「……明日の夜勤をお願いします。シスター・クウラ」
直後、断末魔にも等しいシスターの悲鳴が夜の居住地に轟いた。
叱られることはなかったが、クウラにとっては大の男に怒られるより隣の妹の方が怖ろしい。メヘルブの悪魔はまだ健在だったのだ。
「や、夜勤かぁー!それなら別にいいかなー、うん!お酒飲めるし、今夜も朝まで行けちゃうもんねー!」
「いえ、明日の朝から明後日の朝までです。カイルさんもマイアさんもオルカさんも体調が読めませんから、貴女が代わりに無理をしてください。私も仕事量では貴女以上に働くつもりですから、これ以上は狼狽えないように」
「……悪夢?」
「ノー」
「ガアアアアアアッ!!」
幼い頃に読んだ絵本で、英雄にやられた怪獣が今の姉とよく似た叫びを上げて絶命する描写があったのを思い出すヤエ。隣に並んでいた白い鳩が不幸な人々を救済する話よりもスリリングで好きだったから今日まで覚えていた。
児童向けのため、赤い羊頭人や緑の赤子と比べれば可愛いデザインだったが、あの怪獣と自分の姉を重ねてしまうとつい笑いが込み上げた。
流石はメヘルブが生まれ変わる日。恩人にさえ悪戯な笑みを浮かべてしまったヤエは、あの疾走の興奮を思い出し、いよいよ腹部を押さえるほどまで喜びを露わにした。
「えぇ……。そ、そんなに私の不幸が嬉しいの?」
「ち……違いますよ。……いえ、それはそうかも……フ、フフッ……」
「ヤエ、どうしてそんなに私のこと嫌いになっちゃったの?私ちゃんと働いてるよね?みんなに優しくできてるよね?何がいけないんだろ……」
「それっ……それやめてください……アハハハハ!」
こんなに愉快な自分もおかしいし、急に落ち込む姉もおかしい。これからはより真摯に日々の取り組むに臨む心構えだったのに、早速ダメそうなのもおかしい。
まさか自分がこれほど笑える人間だったなんて思いもしなかった。……というのもおかしかったが、騒ぐ自分たちを睨む大人の視線が目に留まり、何とか、ゆっくりと平静に還るよう努めた。僅かなおかしさを残して……。
「ヤエー、いつもみたいに優しくないヤエに戻ってよー……。いや、もうちょっと優しくなってほしいけどさー……」
「はぁ……。いえ、もう平気……です。それと、誤解があります」
「うん?」
目的地に到着したが、その扉をすぐ開けずに二人は立ち止まった。先に伝えておきたいことがあるのはお互い様だった。
「私は少し頑固になっていたようです。姉さんも知っていると思いますけど、私はずっと異端でした。それ故に深く考えず、ただ周りに合わせて神を信じていただけの貴女が大嫌いでした。カイルさんも言っていたはずです。自分で考えることの大切さを」
「うん、確かに聞いたよ」
「私とカイルさんは気が合います。彼との出会いは私にとって掛け替えのない出来事でしたし、彼の神殺しにほんの僅かでも貢献できたことを誇りに思っています」
「そう、ヤエとカイル君が……」
「はい。私は彼のことをもっと知りたいです。驚きましたか?」
「うーん、どうだろ。見せつけられた事もあったからねぇ……」
大きな食い違いの瞬間である。
「つまり、カイルさんのように合う相手がいれば、合わない相手もいるということです」
「そっかぁ、私とヤエは合わないのかー……」
ポニーテールを跳ねらせ俯くクウラだが、まだ誤解の最中だ。彼女の表情が彼女らしく戻るのに時間は要らなかった。
「……私が知っている姉さんが姉さんの全てではないですし、姉さんの知る私が私の全てではありません。そして、私も私を知りませんし、姉さんも姉さんを知らないでしょう?」
「ごめん。難しい」
「姉さん、生まれ変わるって……自分だけじゃなく、傍にいる誰かと共に成長していくことだと思いませんか?」
外側など存在しなかった世界で、若いヤエがなおも意欲的で在れるのは……単に彼女の明るさであり、呪いが無くなっただけで皆が変化したように、嫌っていた姉にも『期待』が持てるようになったからだった。
皆より数歩先を行くヤエの課題は、これまで訝しんできた者たちの魅力を知ることなのだから。
それは、生まれ変わるのと同じく難しいことで、その分だけ無色の日々に彩りを与える魅力が備わっている。
「メヘルブは既に変わり始めています。姉さんは望んでいなかったけど、意外と面白いかもしれませんよ?明日は二人でいる時間も長くなるはずですから、自分らしくないことを自分の意志で試してみませんか?」
妹が初めて姉に慈しみの笑みを向けた。
とても貴重な表情だというのに、新時代を迎える心の準備ができていなかったクウラにとってその熱意は眩しく、涙腺が緩んでよく見えていなかった。
「ヤエ……。うん、分かった!私、少しずつだけど生まれ変わるのを頑張ってみる!少し気分が悪くなっただけでお酒に逃げるのもやめるね!だから、とりあえずごめん!」
「あ、謝らなくていいです!私もこれまでの接し方を詫びる気はありませんから!あと、お酒を控えるという点については一切信用しませんので、そのつもりで!」
「えぇー!?どうして!?」
「どうしてって……それは、私もお酒を……」
ヤエはそれを言い切るのを躊躇い、クウラはそんな妹に首を傾げた。
二人とも先にやっておくことがあるからここまで来たというのに、どうにも周りが見えなくなってしまう。
カイルはおろか、二人から慕われているマイアでも強引な手段を取らなければ止まらない姉妹喧嘩だが、やはり例外というのは常に存在する。この人物だけは一発で二人をなだめることのできる特別な力を持っていた。
扉が内側から開かれた。ここは、二人の家だった。
「クウラ、ヤエ、おかえりなさい」
「父さん、ただいま!」
当然、現れたのは二人の父親だった。
天罰により妻を亡くし、現在は一方の娘の逃避を案じながら、もう一方の姉と暮らすやつれた顔つきに痩せぎすの中年。
その老けた相貌こそ、彼がこの狂気の街で他者に対して優しく在り続けた証である。
仄かにワインの香りが外に漏れ出す。加えてクウラとの共生だ。ヤエはこれらが苦痛でマイアの古巣を借り、小屋暮らしも悪くないと現状の暮らしに妥協していた。
そんなヤエから今こそ父に伝えたいことがある。父も娘の本音には気付いていたし、先程の演説にも出席していたからその想いも既に理解していた。
「もう聞いたと思うけど、母さんの仇はもういないよ」
「そうだね。クウラも、二人とも今までよく我慢してくれた。ありがとう。今日くらいはゆっくり休みなさい」
「……うん。ただいま、父さん」
父と娘、二人が両手を広げるタイミングは同じだった。
母への復讐が全てだったわけではないし、父がそれを望んでいないのも承知していた。それでも結果として自分たちの家族を奪った敵が葬り、こうして抱き合うことができてヤエは救いを感じた。
鼻を啜る姉につられてヤエも感涙に咽ぶところだったが、それは屈辱なので気合で堪えた。
マイアが神の媒体でなくなったように、オルカが冤罪から解放されたように、ヤエとクウラもまた、生まれて初めて自由の心地に浸かることができた。
そして、自由とはただ好き放題に生きることではなく、自分を案じる誰かのために行動する権利を得ることなのだとようやく分かった。
父に続いて姉も抱擁を求めてきたがそれは拒み、ヤエは二人より先に家へ入ることにした。ヤエとしては久々に実家で夕食を摂ることになった。
閉ざされていたわけではなく、始めから小さ過ぎただけの幼い世界。メヘルブと呼ばれる街の営み。
同じ人類であってもいがみ合い、貶し合い、果てには命を奪い合う暗い背景を残す世界……。
だからこそ、まだ政治も戦争もないこの時代を生きる父と娘たちは、後の用事が遅延するのも構わず、まずは語り合うことを選んだ。
たまにはこんな夜があってもいいとヤエは思い、妹が無自覚で見せた幸福の表現をクウラはいつものフランクさで迎え入れた。
散々喧嘩をしてきて、やっぱりこれからも頻繁に揉めることになるとしても、この安寧が末永く続くように努めたいという想いだけは二人とも一緒だった。
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