エピローグ
バディ
……神父・カイルの気絶より数分前。教会の外にスポットを当てる。
聞き慣れた青年の囁く声音に導かれ、シスター・ヤエは入口から壁沿いに左へ進み、ガゼボのある地点へと向かった。
彼の背中を追いかけて。
「ユアン……」
表情の晴れる少女に対し、白い青年は至っていつも通り。
もう会えないという不安はなかった。神殺しも、再会する約束も彼は必ず果たしてくれる。その点について疑念は皆無だったが、再会するまで不安が解消されることはないのだから、相手への信頼と自らの心の余裕が繋がっているとは限らないと、優等生らしく新たな学びを得ていた。
ユアンとしてはルーティンをこなした程度のことで情動に変化などない。二人の間には断絶と呼べるほどの温度差がまだある。
「お帰りなさい。神は……」
「確認は取れていないが手応えはあった。神の領域も崩壊したのだから、死滅したと断定できる」
「そうですか……」
外界より赴いた傭兵はメヘルブでの狩りを終了した。用済みの世界に長居するのは彼の性分ではないため、いよいよこれが最後となる。
きっともう、会うことはないだろう。メヘルブを救ってくれた彼に対して感謝の念は絶えないが、それ以上に、ヤエにとってこの四日間はとても濃厚で、充実した日々だった。
ラブロマンスではなくとも、達観した青年と共に語らい、共に超越した存在を打倒するまでに至った経験は、まだこれからという若者にとってかけがえのない人生の『思い出』となった。
自分はほとんど足を引っ張っていただけだと卑下したところでまた注意されるだけ。解決した今となっては青春にも等しい貴重な時間だったようにも思え、切なさが押し寄せてくる。
喜びより寂しさが勝る。メヘルブの一員たるヤエには卒業などないが、彼には帰るべき故郷が他にあるのだから……。
ヤエはつい感極まりそうになったが、必死にそれを堪えた。
醜態を晒すこともあった。だからこそ、せめて最後くらいは誇らしく在りたい。それが偉大な彼への最大の敬意に違いないと思ったからだ。
「多少はマシになったな。神父の話はいいのか?」
「あとで教えてもらえれば。今はそれより……」
酸味が鼻を苛んで苦しい。それを咳払いで誤魔化す。
そして二人は、カイルたちより先にエピローグへ進んだ。
「ユアン、もう帰るのですね?」
「ああ。だがその前にやっておくことがある」
ユアンが脇を広げてヤエを誘った。乙女は遠慮なく嫌悪感を顔に表したが、抵抗も否定もしない。自分が知りたいことは、彼と一緒でなくては知ることができないからだ。
「行くぞ。お前が気になっているものを見せてやる」
シスター・オルカが聖堂の定位置に座すのと同じくらいの自然さで少女は青年に抱えられた。ユアンが目的を口にしなくても、これから向かう場所と意図をヤエはよく理解していた。
重ねて言うが、二人が共有した時間はそれほど多くはない。それでも相性が抜群に良かったから、弄られたら機嫌を損ねる乙女であっても彼が真剣な時は黙って従うことにした。
閉ざされた世界の外側へ。
メヘルブ出身者で初めてコンクリートの壁と向かいに聳える山々を越えた人類は、メヘルブ神の殺害に協力した異端の少女となった。
常軌を逸した脚力と跳躍力により教会が見る間に遠ざかっていく。
壁の方は分かりやすいが、山の方は行ってみないと分からない。猟師たちの間で「狩猟は川を跨いで五十歩まで」という合言葉があるくらいで、誰も正確に把握などしていない。罠を仕掛けたり、獣たちがある程度街に接近してくれないと狩猟も儘ならないというのが実情だった。
もっとも、今日まで獲物が獲れなくて困るようなことはなかったというが……。
いわゆるメヘルブ民にとってのデッドライン。これ以上進んだら死ぬと思い込んで体が拒否反応を起こしてしまうという呪いで、神に睨まれた際のヤエより更に酷い戦慄に陥り、今すぐ引き返すように脳が体を操作するというものだ。
「ヤエ、どうだ?」
「平気です……。ここまで進んだ人は私が初めて!」
克服不可能の恐怖故、息を呑んだヤエだが、デッドラインを越えて山の奥に進んでも拒否反応は起こらなかった。
麻薬のような爽快感と解放感。生きていることを実感できるような充足。本当にメヘルブから神の呪いがなくなったのだ。
メヘルブを脱して跳躍するヤエは、まるで翼が生えたような気分だった。
白い青年の正体を知らない少女や、人類一般の想像とは違い、別に翼などない天使はどこまでも遠くへ走り続ける。
「凄い……凄い!凄い!ユアン!」
年上ばかりの田舎で誰よりも大人らしい振る舞いを……と、心掛けている十七歳だが、流石にこの興奮には平静でいられない。高揚を抑え切れず、木の枝に袖が引っかかるのも構わず両手を広げた。それによりユアンがほんの少しだけバランスを乱したことすらも面白く、笑うのを我慢できないほどハイになっていた。
ユアンは絶好調の少女に何も言わなかった。
籠の中に囚われていた身であるなら仕方ない。
ヤエとは別の意味でこの状況が面白かった。
……どれも違う。事前にメヘルブの外側を調査していたユアンにとって、何も知らない若者が珍しく機嫌を良くしているのが、ひたすら哀れだったからだ。
「アハハハハハッ!」
「もうじき終わるぞ」
「ハハハ……えっ?ユアン?」
夕食前、広げた玩具を片付けろと言われた瞬間の子供みたいだった。
たった一言で我に返ったヤエ。闇夜の山奥でも月の光を頼りにある程度視界が確保できる中、全く想像もしていなかったものに視界を覆われて興奮が冷めた。
「……なんで」
「以上だ。これがお前の生まれた世界のスケールだ」
二人は教会の裏手、あの焼却炉から真っ直ぐ山へ臨んだはずなのに、目の前には本来真逆の方向にあるはずの、月明かりなど無くとも明白なコンクリートの壁が立ち塞がった。
「ユアン、これって……そういうことだったの?」
「……とりあえず上に向かう」
ユアンは壁に足を付け、そこから跳躍と疾走を繰り返して壁の頂上へ登った。メヘルブを一望できるこの世で最も高い場所。遮るものなど何もなく月を拝める絶景にて、コンクリートの地面にヤエを降ろした。
これほどの高所であれば誰であれ狼狽えるはずだが、呆然とした様子のヤエと、真実を知っていたユアンだ。月下に並ぶ二人の間に騒音など一つもなかった。
「何もかも、ずっと勘違いしてたんだ、私たち……」
「禁じられていたのだから仕方ないさ。まさか遠くに聳える山々がハリボテだったとはな。山を越えた先に別の土地があるわけではなく、対向する壁の外側に回るだけ。これでメヘルブの世界一周となるわけだ」
体育座りの少女に優しい言葉などかけない。偶像に縋る世界を壊したのは自分たちなのだから、いかに現実が無慈悲であっても受け入れなくてはならないからだ。
それに、少女の方もショックはあれど、俯くことはしていなかった。
「嘆くのはお門違いかな」
「さぁな。ただ、門は早急に作った方がいいぞ。引き返すより道を繋げた方が早いだろうからな」
「えっ、ここで冗談?いえ、参考になったけど……」
「冗談だ。お前に足りないものだよ」
これがメヘルブという『世界』だ。鳥籠の外に出たら、また新しい鳥籠が待ち受けていただけ。ヤエの生まれた世界には初めから『外』など存在していなかったのだ。
メヘルブの人々は神からは解放されたが、まだ直面すらしていない問題が山ほどある。中でもこれはまだヤエしか知らない真実であり、つまりはヤエに伝える責任が生じてしまった。
物心がついた頃からずっと願っていた掟の撤廃を遂げても報われる日はまだ遠い。新たな問題に直面して気持ちが追いつかないのか、ヤエは月を見据えて暫し口を閉ざした。
ユアンは何も言わない。誰かに促されるのではなく、少女が自ら声を上げなくては進展しないから。
即ち、信じたのだ。その青年の期待に、少女は……。
「……まあ、こういうものですよね。分かりましたよ。私が面倒を見ます」
子供の我儘を許す母親のように眉を困らせながら、月下の街並みを眺めて慈しむ微笑みを見せた。
「成長したな」
「いえ、これからもっと精進します」
「そう言えるなら十分だ。下りよう。それで別れだ」
「あっ!待ってください!」
お約束のようにエスコートする気のユアンだが、今回は断られた。
少女が今から伝えようとしている事には察しがつく。ユアンも別れ際に確認するつもりだったからだ。
つまり、珍しくリードされてしまったのだ。
「ユアン、私の口から言わせてください。生きる意味についてです」
青年は目蓋を閉じたまま、独りで立ち上がる少女と真っ直ぐ向き合う。
空気を読まず突風が起こる。
やったことのないものは不安だ。初めてこの高みに足をつけ、風に煽られれば取り乱すのも仕方ない。今のヤエでも流石に慌てるものと思い込んだから、十字架のピアスと修道服をなびかせるだけで一切動じていない少女の姿勢にユアンも内心驚いていた。
人間の成長は早い。人間でないユアンには分かりきれない要素だから、カイルの時と同様につい感心した。
「それ、分かりました。もしかしたらユアンが伝えようとしているものとは違う回答になるかもしれませんが、私なりの答えを見つけることが出来たのです」
「そうか。では、教えてもらおう」
生者として、あれだけ先を行っていたユアンを自分が出し抜いている。
優等生の印象があってもまだあどけなさが残るように、大人であっても所詮は子供。たとえ返しきれない恩がある相手であれ、それより優位でいられるのは気分が良く、ヤエは生まれて初めて悪戯な笑みを浮かべた。
ユアンとしてもそれは望むところだった。ただ任務をこなすだけではいずれ飽きがくる。
特に、これきりの関係であるなら尚更、最後に意外な素顔を見せてもらった方がこれまでの過程の価値が増すというもの。
「意味なんて考えてる暇があるなら頑張ってみればいい!ってことです!」
これほどの報酬は、きっとどこにもないのだから。
「フッ、見事だ!それなら俺もお前の未来に祝福があることを保証しよう。お前が自らネガティブになることはそう多くないだろうが、今回の神のようにお前を不幸へ貶めるような輩が現れた際には俺が始末しに来てやるぞ」
ユアンとしては本当にしてやられたのだ。
質問に答え終えたら、たとえヤエが浮かない様子のままであっても無情に退散するつもりでいたというのに、高潔な少女が見せた微笑みは、人智を超越した壮絶な生涯を送る傭兵でさえ欠かせない『思い出』となってしまった。
少女を抱えて草原へ飛び降りた。
人目につくので教会まで送り届けることはできないと断ると、ヤエも寄るところがあるため快諾した。
天使が扉を出現させた。ヤエももう驚かない。天界へ帰還する時だ。
「ではな。俺が来なくてもいいよう幸せになれ。あの元神父の秘書官や伴侶などお前に合っていそうじゃないか」
「わ、別れ際に妙なこと言わないでください!それに彼は私のことを妹のように思っているらしいですから!」
任務に赴いた別世界で繋がった者たちと別れることなど何も珍しくない。ユアンに一途な愛情を抱いた者もいれば、上手い別れ方ができなかったケースもあった。
今回にしても同じことが言える。この世界の真実が控えていたから、少女の憂いをそのままにして別れる未来も想定していた。
だからこそ、早過ぎる朝日を拝み、これほど爽快な心地で帰還できるのはユアンにとって久しぶりのことだった。
「俺の正体についてはいいのか?」
「気にはなりますけど、それより先に周りの人たちかなと」
「そうか。では、あえて伝えないでおく」
白い扉が開く。白光だけで中は何も見えない。その先がユアンの還る場所に繋がっているとしても、関心の持ちようがなかった。
ユアンほどではないが、ヤエにも勘はある。だから、あえてこの言葉を贈ることにした。
ヤエがそんなことを言うなんて、ユアンでさえ勘付かなかった。
「ユアン、暇ができたら遊びに来てください。生まれ変わったメヘルブを貴方に確かめてほしいのです」
光の中へ消えていく寸前でそんな言葉を投げられた。ユアンとしてもう別れを済ませた気でいたから、返答に少し間を置く必要があった。
「そうだな。では、次はここの地酒をいただくとしよう。その時は大いに語り明かそう。新しいこの街と、俺の冒険について。お互いがまだ知らない世界の歴史を」
天使・ユアンはメヘルブでの役目を終えて帰還した。彼の姿が見えなくなると扉が閉まり、消滅した。
ヤエは彼について初めて神の媒体と邂逅した際に少しだけ耳にしたが、それだけで彼の正体を掴めるはずもなく、メヘルブの人間は誰一人として彼を知らないまま。知らず神の傀儡と化したように、知らず天使により救済され、祝福を与えられたのだ。
この世界で白い傭兵について知っているのはヤエとカイルとマイアだけ。四度の夜、語り合った思い出は二人だけのものだ。
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