バッドモーニング・ファーザー Ⅲ
「貴方は……バヨクさん」
「はい」
まるで貫禄負けしたように低い目線からバヨクさんを見上げる格好となり、そこで彼の存在を思い出した。
初日、草原を越えて教会へ至るより前の段階で出会った街翁と呼ばれるこの街の重鎮。肌に皺を浮かべながらも厳かな顔立ちをしており、私以上に背筋が綺麗に伸びる老成ともなれば嫌でも印象に残る。引き出しからその記憶を発見するまでに時間は要したものの、忘れるはずがない。
そんな彼がどうしてここに?私がメヘルブに来て今日で三日目。彼の朝のルーティンなど把握しているわけがないが、少なくとも昨日のこの時間に相まみえることがなかった経験から意外に思う。
そして、どうして無言のまま私のことを見下ろしているのか……。心配は無用だが、それにしても何か反応はないものか……。
「お、おはようございます。あと、お久ぶりです……」
「……ええ」
そう返事したバヨクさんがようやく視線を逸らしてくれた。おかげで転んだままの緊張状態からは解放されたが、老けた相貌の中にある鋭い眼光が今度は私の背後に向けられていることに気付いた。
私もそれに釣られて彼の見据える先を追いかけた。当然、その最奥には巨大な十字架があった。
「あの……何でしょうか?」
彼がいま何を想っているのかが判断できない。その眼差しの意味を読み取れない。
あまりにも弱い繋がりだからか……教会外では最も多く言葉を交わした相手とはいえ、それでも初日の僅かな時間のみ。彼の性格も、日々の過ごし方も知るはずがない。
そして、信仰心の所在も……。
ただ、いきなり「貴方は神を本気で信じていますか?」とか「貴方は本当にこのままの生活で良いのですか?」などと聞くのはおこがましいにも程がある。私の知りたい本音がその先にあるとしても、それを確かめ合うには絆が浅過ぎる。
「バヨクさん……じゃなくて、街翁?」
「……」
またしても返事がない。流石に起き上がった。
もしや、怒っているのだろうか?
彼は街の中心人物ともいえる立場にあるため、教会内の出来事に関しても逐一知らせが入ってくるはず。
交友関係は分からない。シスターたちと親しい関係にあるとは思えぬ偏見があるが、彼女らを除いてもこの街は大人ばかり。十年毎に年代を分けたとしても彼のような高齢者が聖堂を訪れるのは確認済み。決して孤高というわけではなく、誰かとの繋がりがあるのは間違いない。
そんな彼に新しい司教の寸評を伝えに行く輩も中には紛れ込んでいるはずだろうし、司教とは名ばかりで碌に働いていないのが既にバレているかもしれない。
風貌より更に冗談の通じない相手だったら拙い。メヘルブの狂気に翻弄されるばかりでまともに動けなかったのですー……と言い訳しても許されない恐れがある。
天罰の開始はマイアの誕生からとはいえ、この辺境の麓街で長く暮らしてきた者ならば土地勘と言い換えてもいい特有の直感が研ぎ澄まされているはずだ。覇気のない私や聖堂を一望しただけでたるみが分かるほどの……。
その方向で結論付けると罪悪感から焦りが生じてくる。お叱りを受ける前に自分から謝っておこう。そうすれば多少は穏便に凌げるはずだ……!
「申し訳ありません!司教の任をいただきながら私はこれまでほとんど――」
「私が最初に言ったことを覚えておりますかな?」
「……へ?」
見切り発車は路線違い。あれだけ険しいと感じたご老人の瞳も今では慈愛の眼差しに変わっていた。私に不満を抱いている様子など微塵も窺えない。
「最初……というのは?」
改めて私を見つめるバヨクさんを前に、状況がいまいち把握できないまま初日のやり取りを振り返ってみる。
メヘルブという辺境を超えた辺境の麓街を管理する者。町長とも言うべき存在だが、皆からは街翁と呼ばれるこの老成。確か前司教からもそう呼ばれていたのだとか。
教会の外……街全体の指揮を執る彼と、教会の中の指揮を執る私。お互いの立場を知った上でもそれだけでは暇を持て余すと判断した私は確か……。
「……あー!!」
「どうやら思い出されたようですな」
ようやく自分の落ち度に気付いた私に対する老人の声音は優しかった。厳かな顔にしては穏やかで、とても怒りの感情は見受けられない。
まず、その落ち度についてだが……。私は確かメヘルブの街に足を踏み入れ、彼と邂逅した際に「まずは教会にて同業から諸々の事情を確認したい」と伝えて別れたのだった。聖職はおろか、働くこと自体への情熱がない私でもバヨクさんのおかげで過去の会話を思い出すことができた。
そして、その諸々の事情の確認についてだが……これはもう本当に埒が明かない。
彼と別れてすぐのこと。私は羊頭人の石像群に気分を害されて夕刻まで眠った始末。その後、聖堂にて皆に挨拶を行うところで辛うじて司教の面目を保ったつもりでいたが、あの場にバヨクさんはおらず、意見を放棄して教会に引き籠ったまま今日まで時間を経過させてしまったのだ。
肝心の事情についてはもう手に負えず参っている状態の上、教会の外に関しては正しく手を付けていない。司教の務めがどうこう以前に私のスタミナでは今後の方針など考えようがなかった。
「重ねて謝ります!本来ならあの後すぐに伺うべきでした!」
こちらにも事情があるにはあるが、ここは潔く頭を下げておこう。印象とは違い、思いのほか話の通じる相手なのかもしれないが、それなら尚のこと不和を起こしたくない。
……経験上、この街翁・バヨクも何かを秘めている可能性があるかもしれないという警戒心も込めて。
「謝ることなどありませぬ、新たなる神の声。いかがかな?この街の……そう、特徴は理解していただけただろうか?」
「は、はい。私が元いた場所とは勝手が違う分、驚くことも多いですが……平和そのもので良い心地です」
言葉を濁して問うてくるバヨクさんに嘘で答えた。
厄介なことだ。私のことを『神の声』と称する以上、彼もまた敬虔深い信徒のはずなのだから……。
信徒でさえぎこちなく言葉を選ばなければならない不自由。この街がどれだけ静かで健やかに暮らせる環境だとしても楽園とは言い難い。これでは神の鎖に繋がれた奴隷のような……。
……あれ?そういえば彼は一日目の夕刻も二日目の朝もこの聖堂には現れなかった。
神官の私を特別に慕っているのであれば自然と長く信仰を続けているものと思い込むところだが、オルカさんや礼拝に訪れる人々とは違いルーズなのだろうか?無論、毎日三度の祈りはどこかで行っているはずだが……。
まさか、この御仁こそが私の待っている……。
「……平和?」
「が、街翁?」
「メヘルブの全容は教わったのか?」
街翁は変貌し、空気は一変した。
今度は印象通りの威圧感。まるで絶対的な君主のように皺の分量を越えて表情に影が濃くなっていく。その顔色は初めに一瞬だけ見たことがあった。
しかし何故、ここに来てそれほど不機嫌になるのか?私はこの街を平和と評しただけなのに、これまでの怠惰を許しておいて、それが許せないのは一体……。
「全容とまではまだ……。しかし、この街の仕組みや歴史についてはシスター・マイアを始めとする同業からある程度教わりました。教会の外についてはこれからですが……」
「シスター・マイア……」
肩にかかるワインレッドの髪が印象的な修道服の女性。見てくれだけで言動は聖職者失格だと思いきや、時にはシスターらしく何も知らない私を導いてくれることもあった影の聖人。
私……の体と同じ二十七歳で、この閉ざされた街における全ての元凶。神の媒体。忌むべき仇敵と繋がっている彼女を私は……。
「……街翁?」
「うむ……」
男二人の沈黙。これまでずっと若い女性や子供たちと過ごす時間が続いたものだから大人の男性と向き合うのは却って新鮮だった。
ただ、この重苦しい雰囲気は耐え難いが……。
やはり何かを秘めている街の重鎮は、何かを決心したかのように独り頷いた後、こう言った。
「貴方はこの街が好きですか?」
それはあまりにも率直な……けど、神を否定してはいけない掟の中ではリスクのある問いかけであり、同時に私の本音を暴くように意欲的な歩み寄りだった。
「それは……」
立場を考えればイエスと即答すべきところ、仮面を被ることが段々と億劫になってきている私には何も答えることができなかった。
これではいけない。関係がこじれてしまう。そう分かっていても、街翁の繰り出した初歩的な質問を受けていよいよ自分を偽り切れなくなった私は黙したまま俯くことしかできなかった。
……しかし、メヘルブの狂った神の信徒の一員にして信仰深い街の支柱である彼は、予想外なことに私のこのような反応こそを歓迎するように妖しい笑みを浮かべた。
悪鬼のようだと思ったその笑顔も今ではそれほど不気味に感じない。堀が深く、皺ばかりの顔立ちなのだから当然だと、初日の私はどうして受容できなかったのだろう。
「では、前司教の死については?」
「いえ、それについては全く……。この後、祈りと朝食を終えた後でマイアに告解室の事件について説明を受けるつもりです。もっとも、彼女がちゃんと来てくれるか分かりませんが……」
「……承知しました。では、昼過ぎにでも私の家に来ていただけますかな?貴方様の知りたいことをお教えしましょう」
唐突に招待を受けた。もしやそれが目的でこの時間に教会の前で待機していたのだろうか?最初にも感じたことだが、やはり高齢のペースには敵わない。
それでも私にとって都合の良い提案には違わず、断る理由も特にない。
「分かりました。それでは昼過ぎに。今度は必ず伺います」
「ヒヒヒ……では、後ほど。私の家はここから噴水広場を東へ進んだ先に構えております。すぐにそれと分かるはずです」
街翁・バヨクは私の苦手な音を弾ませてから教会に背を向けた。これまで若者たちと共に過ごしてきた分、羊頭人の石像が並ぶ道に従い退去するその背中は……どれだけ姿勢が良くても葬儀のように畏まった末路のように思えた。
ところで、それにしても……。
「あれほどの御仁が、まさか……」
街翁・バヨクに関しても謎が生まれた。
それは私が欲してやまない要素の一つかも知れず、家に伺えば必ず教えてもらえる約束があるため、これまでみたく引き延ばされる心配がないのは有り難い。
やはり仕事ができる人は違う。ただ長生きしているだけでなく、皆から慕われている人間は手順を弁えているのだ。
私の命が保証されているとはいえ、私以外の全員の命が危ぶまれている事態を先に説明しなかったマイアのマイペースがおかしいだけだ。
――街翁・バヨクが、私の持ち得る情報通りの敬虔な信徒であるのなら……。
「カイル様?」
食堂の扉から銀髪のシスターがひょこッと顔を出してきた。
有意義だったとはいえ長く話過ぎた。もう朝食の時間だ。今日の献立はコンソメスープと何だろう?
「司教さま……じゃなくて、神父さま!おはようございまーす!」
「おはようございます」
「え?あ……おはようございます。二人とも」
……献立に期待したお気楽な思考が現実に向き直る。そういえば、まだそれをやっていなかった。
オルカさんに次いで生き残った二人の男の子が聖堂に現れた。
私とオルカさん。二人の男の子。二人ずつ前列の会衆席に並んで座り、鐘の音が鳴るのと同時に祈りを捧げた。まだその時ではないから、異端だとバレて男の子たちを不穏にさせないため、仕方なく祈祷の真似をした。
私はこれほどメヘルブの神を憎んでいるのに、このような行為に従うのを悔しく思う反面、腹の虫を抑えるのに夢中でそれ以上の屈辱は特になかった。
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