バッドモーニング・ファーザー Ⅱ
「おはようございます。カイル様」
朝一番から憂鬱な私をオルカさんが歓迎してくれた。いつも通りの癒やされる微笑み。昨日の出来事は本当に夢幻と化したのだ。
「お、おはようございます。オルカさん。調子はどうですか?」
「はい。お陰様で休息も十分に取れましたので、今はこのように朝食の下準備をしながら祈祷に備えております」
「そうですか。ハハ……」
思わず乾いた笑いが漏れてしまった。相変わらず今朝も彼女との会話は噛み合わない。
シャワーと着替えを済ませた私は教会の扉を開くより先に食堂を訪れた。理由としては、オルカさんが既に教会内にいるのなら入口の開放は後回しでいいのと、紅茶切れにより喉が渇いたため何か飲み物を貰いたかったからだ。オルカさんの体調など二の次だった。
「すみません、オルカさん。何か飲み物はありますか?」
「よく冷えたお水がありますよ。普通のものと、ほのかに葡萄の香りのするものがあります」
「葡萄……」
オルカさんが指し示した先には共用のピッチャーが二つ置かれていた。透明なものと、薄い紫色のもの。私は迷わず後者を選び、食器棚からコップを取り出して注いだ。
「これもヤエさんのお手製でしょうか?」
「ヤエさんですか?さあ、どうでしょう」
……オルカさんも知らない?
私より遥かに長い時間ここで暮らしているだろうに、冗談を言ったわけではなく本当にこのピッチャーを用意した者が誰か知らない様子だ。そんな得体の知れないものを疑うことなく私に勧めてくるのも妙なことだが、こういった振る舞いもオルカさんにとっては『普通』のことなのだろう。
神の要素を省いた会話すら碌に成り立たない。胸の内から徐々に沸き立つ怒りの感情を抑制することで何とか平穏が保たれている。
私のことを神と同等に崇めていても、仮に私が神官でなくても、きっと私たちは噛み合わないのだ。
皆はどうなのだろう?オルカさんの狂信についてどう思っているのか。彼女との繋がりはどのような形なのか。
マイアはあの調子だし、過去にオルカさんを救ったことがあるようで妙に慕われている。マイアの方からオルカさんの過剰な信仰心に異を唱える描写も想像がつかない。
クウラさんとの関係も良好に見えた。特に当たり障りもなく、同じ役職同士で上手く協力し合えているようだった。
……ただし、クウラさんがオルカさんの狂信を知っているのかは定かじゃない。もし知った上であのように付き合えるのならば、私はクウラさんさえも忌避しなければならなくなってしまう。
ヤエさんとオルカさんの関係だが……これは一筋縄ではいかないものと予想している。
この葡萄水にしても言えることだが、思い出してみれば私の部屋に置かれた紅茶についてもオルカさんは知らない様子だったと、一日目の記憶を遡る。
更に昨夕だ。自らの壮絶な過去を語るヤエさんはオルカさんについて何かを濁すように言の葉を閉ざしていたはず。オルカさんの方はまだしも、ヤエさんはオルカさんに対して思うところがあるかもしれない。
あとは男の子たちと教会の外の人々。即ち、シスター・オルカを囲う環境そのものについて。
この街の子供たちは何も知らない。何も知ることができない。天罰に関する情報を遮断され、大人として認められるまでの間は信仰を怠らない無垢な子供で在り続けなければならない。
たとえ、どうして大人たちはそれほど神さまを敬うのかと、そも『神』に対する疑問を抱いても、そこから否定に繋がらないように……それこそ、シスター・オルカの姿勢を見本にすべしと何度も言われてきたに違いない。
私にとって異質なオルカさんが子供たちにとっては教本も同然。疑っては(信じているフリをしなくては)ならないのだ。
そして、メヘルブの人々についてだが……。思えば私は、教会に籠ったきりまともに街を歩いていない。
私が彼らと対面したのは初日の来訪時と夕刻の挨拶時。あとは二日目の朝、教会の扉を開いてオルカさんを中へ招く際、広場に集まっていた数人と会釈。この街の真実を知らされる前、礼拝に来ていた信仰深い者たちと実のない会話を交わした。この程度だ。
前司教の死。未知の告解室。マイアとオルカさんの過去。オルカさんとヤエさんの関係。
そして、神を■す方法……。
他にも気になることは山ほどある。昨日だけでもこの街の特色をほぼ網羅したつもりでいたが、全然まだまだ。知れば知るほど深淵は暗く、光が遠のいていく。
加えて街の人々だ。一応まだ司教役だったので本来ならそこを第一に考えるべきなのだが、そんな余裕はなかったと理解してもらえるだろうか?
そも、神など信じていなかった私は始めのうちから祈祷にこだわる彼らのことを内心では嘲笑っていた。鬱陶しさすら覚えた。
特に、コンソメスープの味の濃さを調節中の彼女を眺めていると、不満は次第に増していき……結果としてああなった。
しかし、この街の真実に触れて以降は僅かに変化が生じた。
私自身まだ明確に覚知できていない点なのだが……天罰を免れるためだけに信仰を強制されている奴隷のような皆に対しての憤りはなくなり、むしろ何とかしたいと思うようになった。私には信仰心など最初からないため、皆を神から解放することは最早異端ですらない。
その上、この街の『神』は我々の想像した厳かで全てを推し量れる崇高な超越者ですらなかったのだから、ある意味で私の方が聖職者として正しい気さえしてくる。
そう、まだ曖昧ではっきりしない覚悟だ。昨日のうちにそれを為す手段が私の元に来なくて良かった。時期尚早のまま変革を起こしても私がその先の時代に置いてかれてしまい、今以上の不条理に翻弄されるのは目に見えているから。
長く教会に籠ってばかりだと悩みは増える一方だ。薬は用法・用量に従って投与するから効果が表れ、教会はたまに伺うからこそ心が安らぐのだろう。
教会を根城にする私こそ外へ出た方が良い。この街のことを、この街の人々のことを、教わった情報だけでなく自らの目で見て、手で触れることで新たな気付きを得られるかもしれない。
「カイル様?」
「えっ?ああ、お気になさらず……」
窓越しに外の風景を見据えて物思いに耽っていたはずだが、いつの間にかオルカさんと至近距離で視線を交わしていた。
私の体がキッチンに迫っていたので、心ここにあらずのまま近づく私にオルカさんは困惑していた。コップに入れたはずの葡萄水は無くなっていた。これを洗いに戻ったのだろう。
「洗っておきます」
「いえ、これくらい自分で」
率先して洗い物に励むオルカさんに遠慮した。よくある男女の譲り合い。神や街の異常が絡まなければこんなにも静かでいられるのに……。
「私に任せてください。それより、間もなく朝の祈りが始まりますので、男の子たちを呼んできてほしいのです。二人ともお寝坊さんなので」
「ああ、それはいけませんね。祈りを怠るのはよくない」
「はい。なので、急いで聖堂に行かないと」
変わらず落ち着いた口調だが、内心の焦りまでは隠せず寝室を案内するジェスチャーは大きい。
命の危機だからか。信仰のためか。
『神を否定した者には必ず天罰が下る。生き残るために祈りましょう。』
天罰がどのようなものかを知った後、祈祷しない私を見てマイアは「お前もああなるぞ」と言った。
つまり、普通は祈祷を怠っただけでも天罰が下る。
一日三回の鐘の音と共に主へ向けて両手の指を組み、瞳を閉ざす。その行為を何らかのアクシデントにより逃しただけでも駄目なのだ。
あらためてメヘルブに生まれてきてしまった人々の天運のなさを、引きの悪さを憐れむのと同時に……自分は特別にそれが免除されていることに優位性を感じてしまった。
「分かりました。祈りは聖堂で?」
「それが望ましいのですが……」
表情まで焦りを露わにし始めた。常に微笑んでいてほしいと願っていたはずなのに、今は彼女に何も期待を持てない。
「どうかしましたか?」
「いえ、実は……」
この歯切れの悪さも久しぶりに思えてくる。そういえばこのようにか弱い女性だった。それ故、神に心酔することでその細身を鎧で守っているのかもしれない。
「実は最近、男の子が祈祷に何の意味があるのかよく分からないと言うことが多くなっているのです。それだけでは試練を受けるまでには至りませんが、大いなる主を疑うなどあってはなりません」
「ああ……」
このままでは祈祷を拒み、神の否定に繋がってしまう……そういうわけではなかった。
メヘルブの信徒としてあってはならない態度だという視点で男の子のどちらかの身を……案じているのではなく、許せずにいるらしい。
「男の子というのは?」
「あっ、そうでしたね。えッと、わんぱくな子の方です。落ち着いた子はあまり感情を表現しないので判断が難しいのですが、一先ずは善き信徒かと……」
「分かりました。では、彼らを起こして――」
私と相対する主義を持つ者が私の庇護すべき対象を監視していることに漸次、余計なお世話だと言い返したくなる鬱憤が溜まる中……男の子たちの寝室から大声が聞こえてきた。
大声といってもハプニングを思わせるようなものではない。察するに、わんぱくな男の子が食堂に聞こえるほどの大あくびをしてからもう一人の起床を促すように動き出しただけのようだ。
「あら、フフ……」
「ハハ……」
つい顔を見つめて笑い合ってしまった。全く、情緒が安定しない。私は彼女の在り方を哀れに思いながらも抱いた好意を捨てきれずにいる。
そんな私たちの危うい綱渡りを天使の悪戯が活路に変えてしまう。
庇護の対象などとんでもない。何も為し得ないまま長い時間を過ごし、余計なしがらみを増やしていくばかりの私たち大人が、子供の何気ない言動に救われることなど極ありふれた話であり、それはこの閉鎖された辺境の街でも等しく同じだ。
私はまだオルカさんを諦めきれていない。聖職者のしがらみに囚われる必要がなくなったから遠慮なく口説き落とせるとか、そんな浮ついたことではなく。
もっと些細なこと。ありふれた営みの中に貴女を幸せにできるものがたくさんあるということ。貴女を幸福に導くのは神の掟などではなく、貴女のすぐ傍に在るということを伝えられるようになりたい。
「起こす必要はなくなりましたね」
「カイル様?」
一番の用事をとっくに済ませたのに思いのほか時間を要した。先に食堂を出る私にオルカさんが声を掛ける。
「教会の扉を開けに行きます。礼拝の歓迎より先に朝食ですが、ルーティンにしておきたいので」
「立派な心掛けですね」
司教の自覚に感心するオルカさんに軽く頭を下げてから食堂を後にした。
彼女の微笑みが酷く胸に突き刺さるようになっていた。
自室からは遠く感じるが、食堂から入口は目と鼻の距離だ。
今日こそガサ入れをと望む向かいの告解室を横目に教会を開放する。
聖職者の性か。とうに目を覚まして活動しているというのに、この大扉を開く時にこそ新しい一日の始まりを実感する。
この瞬間だけは特別だ。諸々の陰鬱な不都合を忘れ去り、爽やかな心地で聖堂に今日の風を通したところ……。
「新たなる神の声……」
「おわぁっ!?」
自室の扉や窓と比べて入口の大扉は当然重くて固い。ゆっくり開くことになるため、外に佇んでいた者の迫力もより強まる。みっともなく尻もちを着いてしまった。マイアがいなくて良かった……。
そのドッキリの正体が初日のみ対面した街翁と呼ばれる老人だと脳が記憶を呼び起こすまでに時間を要し、その分だけ沈黙がシュールに続いた。
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