3日目
バッドモーニング・ファーザー Ⅰ
「……よく熟睡できるものだ」
遠くの空には陽が昇り始めている。メヘルブでの生活、その三日目は自嘲から始まった。
実は大分前から意識はあったのだが、目蓋が固く閉ざされている上に体が異様に重くて動くことが出来なかった。
まるで昨日の女の子みたいだ……と、あの惨劇が電流のように脳裏を走った。
しかし、私の体を縛るものはそういうものではないという事を思い出すと、ようやく全身にエネルギーが供給されて動けるようになった。
寝室の窓から見据える日の出。昨日は今日より高い位置にあったはずだが、それでも時間に余裕があった。慌てることもないだろうと悠長に構え、大きく欠伸をしながらリビングに出た。
まず初めに目に留まったのは、ヤエさんの用意してくれた紅茶セットだ。
リビングの照明を点けるほどではないとはいえ、朝になりきれていないこの時間帯はまだ暗め。そんな中でルビーのように赤く煌めいて見えるポットの中身に……。
「おい……」
嫌な連想を免れなかった。
今もこの狭い世界のどこかであいつが嗤っているのだと思うと汗が吹き出してくる。よって、急ぎ水分を欲した。
「はぁ……はぁっ!」
禁断症状でも出たかのような必死さで紅茶を口に含んだ。
誰も見ていない、カップにはちゃんと使って飲んだ跡が残っているから疑われることもないだろう……と、遠慮せずポットの注ぎ口から直接飲んだ。
自覚のある情緒不安定。こんな私を見たらまたヤエさんを驚かせてしまうな……。再びの自嘲と共に唇を手で拭った。
慣れないことをした代償に一筋が垂れて上着に染み付いてしまった。
どうせ着替えるのだから構わない。クウラさんか誰か、今日の洗濯当番の手を煩わせるだけで済む話だ。
「クソ……」
勢いに任せて全て飲み切ってしまった。これではシャワー上がりの一杯を堪能できないではないかと独り憤る。
……何だか日を追うごとに幼稚になっているような気がする。紅茶如きで取り乱すなと自重するも、これが心の拠り所なのだから気持ちが揺れるのは仕方ないと、自分を庇いたくなるのだ。
娯楽のなくなった空間で自分対自分の下らない争いをさせられている。
天罰が下らないから何だというのだ。私の身はもう既に憎き敵の手中に収められているのだ。自由も、快適さもあるはずがない。
「死にたくなってきた」
やはり女の子の末路が忘れられない。死ぬような苦痛から自らを救うために自壊の道を選んだ小さな生命のことが……。
きっと彼女だけでなく、これまで多くの人々が天罰から逃れるためにあのような決断を強いられてきたのだろう。
メヘルブの神は間違っている。
……そうやって掟を否定する(当然の疑問を唱える)ことであのように全身を赤い瞳に侵され、生きることに耐えられなくなり、やがては死に至る。
メヘルブの地に根付いてしまった狂気の信仰。マイアの誕生と共に始まった二十七年の地獄。これからも永遠に続いていく負の連鎖。
現在、メヘルブに生き残っているのは大人ばかりで、誰もがこの異常な掟に屈して静か過ぎる日々を繰りしている。遺憾だが、神自身も言っていた政治も戦争もないおかげで平和な社会が真に完成してしまっているのだ。
残る子供といえば、何も知らない二人の男の子だけ。ヤエさんを子供扱いするのは気が引ける。
しかし、過去を語った昨夕の様子から察するに、まだこの街の常識に順応し切れているわけではないようだった。
彼女自身は掟の境界線を弁えているようだが、まだ十七歳だと言うし……そも、人の行動原理などいくらでも色を変えるものであり、だからこそ新しい要素を取り込んで成長性を促進させられるわけなのだから……。
「うっ!?」
その先を考えるより先にヤエさんが赤い瞳に侵される姿を想像してしまった……。僅かにあどけなさを残しながら、姉のクウラさんと比べて姿勢の良い純潔な少女が悍ましい格好に堕ちる様を……。
「何だ……全然染まってないじゃないか……」
初めて変貌した女の子と体面した際のトラウマが蘇る。二度目は何とか歩み寄る気になれていたし、あれを思い出しても寒気を感じる程度で済むようになっていたはずなのに……対象が代わるとこれだ。
反射的にポットの注ぎ口を吸ってしまった。中身は空だと分かっていただろうに。あの祭壇のように……。
メヘルブ全体への不快と不信。赤い瞳の恐怖。次には「こういうものなんだよ」とマイアが言い捨てた、祭壇を始めとした諸々の仕組みに対しての違和感だった。
要するに、この世界の何もかもが私に合っていないのだ。
肩書きだけの聖職者だけというならまだしも、この籠の中にある常識の全てが受け入れられないのだ。そんな苦痛がこれからも続いていくのだと思うと、より反吐が出る。
一日目、教会までの道程となっている羊頭人の石像を見て気分を害した際、それでもいずれは慣れるものだと楽観視していたのを覚えている。人は慣れる生き物だからだ。良くも、悪くも。
しかし、三日目の朝となった今ではこれだ。好ましく思えたものは数少なく、どれもこれも私を脅かすか、苛立たせるばかりで心は荒む一方だ。
真実を知るまではまだマシだった。あの時に戻れたらと、叶わぬ想いが芽生えている。無駄な願いだと自答してネガティブに陥る。
政治と戦争がなくとも人はこんなにも苦しめるのだ。
もっとも、私の苦難はまだメヘルブに染まっていない若者たちとはまた別の形であり、それこそ誰とも分かり合えない稀少な囚われ方をしているわけだが……。
正体を知る前から神そのものを疑っていた聖職者ならざる性分。他所の聖職者を象っただけの生まれてまだ三日の幼き魂。
こんな私を使い、ただ愉しみたいだけの神さまは、わざと不適合な環境に私を生み出してしまった。
今、この時も私のことを見ているのだろうか……。浴室へ移る寸前、経験則から窓の向こうを窺ったが誰もいなかった。
私が神を恐怖したタイミングでマイアと神が入れ替わる。マイアはそう言っていた。ただし、倉庫で対話する際には時間差で現れたので曖昧な部分だが……。
あと、読心術ができるのは対面している時に限るとも。そんなことは当たり前のはずだが、このメヘルブという辺境の麓街全てを支配する掟を布くような存在であれば、あらゆる概念を無視して私を覗き見ることも可能ではないのかと勘繰ってしまう。
「ハハハ……。気持ち悪くなってきた……」
プライベートなんてどこにもない。心の拠り所が切れて気付いた。マイアも、ヤエさんも、子供たちも、私も……誰しもが神の傀儡なのだ。
嘔吐はしなかった。それが余計に辛かった。
この身を戒める苦痛は、これからもこの身に留まり続けるのだろうか?……そう考えると無気力になり、床に倒れ込んでしまった。
別に貧血の症状ではない。体調自体は正常で、その気になればいつでも走り出せるほど。
それが駄目なのだ。起きて、食して、務めて、眠れる。そんな平穏なサイクルが継続可能だという正常こそが認められないのだ。好ましいと思える環境であれば幸福に感じることだろうが、ここでは苦痛だ。
染まれたらどれだけ楽か。染まれない私を神は作った。日々ストレスを抱え、やがてどのように化けるのかを期待している神の思うままに私は流されていくだけなのだ。
「そんなの人生じゃない。平和じゃない……」
涙が零れた。うつ伏せの状態なので水滴が床にポツポツ落ちていった。
どうしてこのような真似をしているのかというと、私自身もはっきりしないところだが……おそらく構ってほしいのだろう。心配してほしいのだろう。マイア、クウラさん、ヤエさんに……。
そのようにシスターたちの顔を思い浮かべたところ、そういえば余りのオルカさんが男の子たちの面倒を見ているのだと思い出し、彼女が既に教会内にいるのなら急いで教会を開く必要もないと判断した。
何とか起き上がって浴室に移動したものの、その後の私はまるで殻に籠るように長い間シャワーを浴び続けていた。
オルカさんは子供たちを置いても朝の祈りを聖堂で行うのだろうか?それなら急いで替わってあげた方がよさそうだ。
……なんて考える余裕もないほど、シャワーの流れる音と、神のヒヒヒ笑いや女の子の潰れた声音の幻聴、そして恐怖心を誤魔化す私の狂った爆笑で浴室は満杯になっていた。
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