夜の棺 Ⅳ

 一度自室に戻り、浴室のシャワーからバケツへ水を補給した頃、オルカさんと入れ替わる形でクウラさんが聖堂に来ていた。

 私は謝ってから清掃の後片付けはどうすればいいかを教わった。

 血に塗れた布類は子供たちに見つからない形でゴミ箱行き、あるいは教会の裏手にある焼却炉へ。

 零れ落ちた眼球についても同様だが、これは遺体と一緒に祭壇へ捧げても良かったらしい。マイアからは聞かれなかったことだ。マイアなりに私のメンタルを鑑みて、わざと黙っていたのかもしれないと解釈した。

「カイル君は働き者だねー。自分から面倒な仕事を引き受けるなんて。いやー助かる、助かる」

 跪いて床拭きに励む私にクウラさんがそう言ってきた。

 私としてはいち早くオルカさんと別れたかっただけで、こんな事後処理など他の者に任せてさっさと退散したいのが本音だが、それを口にできる面の厚さはまだない。

「率先して動かねば善心の徒として相応しくありませんので」

 ……どういうことだろう?

 それらしいことを言ってみたつもりだが、自分でも意味がよく分からなかった。

 失態を気取られぬよう顔を俯かせて血痕を拭き取る。そんな私の背中を見つめるクウラさんは……。

「うむ……ぜんしんのと……ね。なるほどー! それ大事だよねー!」

 良かった。何も考えず発言したことをクウラさんに悟られなかった。相手が納得したフリをしてくれればこちらのミスは決してバレることがないのだから。

「けどまあ、やっぱり私も手伝うよ。全部自分でやるよりも誰かと協力した方が早く片付くんだからさ」

「それは有り難いですが、クウラさんは今夜の担当ではないのでしょう? 気を遣わず晩酌を再開されても何も問題はありませんよ」

「何でお酒飲んでるって思ったの⁉ 飲んでたけど! でも、そっちこそ気にしないで。教会のことになるとジッとしてられないタイプなの。だから、やらせて?」

 クウラさんは未使用の雑巾に洗剤を直接垂らし、私と並んで清掃に取り掛かった。

 私が水拭きを済ませた箇所をクウラさんが仕上げる形となるようだ。

 クウラさんは手慣れており、あらよる動作が迅速だった。僅かに残る血痕もあっという間に雑巾へ吸い込まれ、聖堂の床が本来の清潔さを取り戻していく。

 私も負けじと素早く床を擦るが、すぐ彼女に追いつかれてしまう。シスター・クウラの体が私の真横に並んだ。

 一応、年齢も近い男女のため、一筋の汗を垂らす火照った顔で近くに寄られると意識せざるを得ない。

 本当に距離の近い女性だ。道理でファンが多い。アルコールの臭いを帯びてさえいなければ私も魅了されていたに違いない。


 事後処理を終えた聖堂と倉庫には、僅かな痕跡も残っていない。血の滲みも、匂いも、始めから惨劇などなかったかのように本来の姿に戻った。

 焼却炉の使用は昼間のみとなっているため、溜まった赤いゴミたちは一先ず独房に詰めて、扉を固く閉ざしておいた。

 これで終わり。クウラさんを見送った後で教会の入口も閉じたから、今宵のうちに済ませるべき仕事は全て片付けたはずだ。

 その達成感と、忙しない時間の経過に溜め息が出る。長く暗闇を彷徨っていたようで、終わってみれば呆気なく思えるものだ。

 少なくとも、メヘルブの恐怖と狂気に参っていた頃と比べれば、疲れを感じるだけの今はとても健全だろう。人の営みに貢献できた喜びをようやく体感することができたのだ。

 倉庫を出て消灯済みの聖堂へ。

 月も傾き、いよいよ十字架も碌に目視できなくなる時間帯まで進んだ。

 ここに留まる必要もない。自室へ帰ろう。

 天窓から覗ける漆黒の空を一瞥して過ぎ去る、冒険のないストーリー。

 それでいい。それが無難にやっていくには正しいことのはずなのに……。

「は、ははは……」

 自分の行動で笑えるなんてよっぽど参っているのだろう。ベッドに入ればすぐ入眠できるほどの疲労感があるのは確かだが、それにしても人間というのは働き過ぎるとタガが外れてしまう生き物だっただろうか。

 たとえ同族であっても、生まれたばかりの私にはそのあたりがよく分からない。

 常識とか、普通とか、正直何が何だかよく分かっていない。知識がない。

「あはは……はははは……」

 メヘルブの神も、その信徒たちも、みんな、みんな、狂ってるだなんて、まだ二日しか生きていない私が決め付けていいことじゃなかったのかもしれない。分かり合うことは無いだなんて、私などが決め付けていいことじゃなかったのかもしれない。

 不思議だ。ハイになっている今の方が達観して自分の稚拙ぶりを反省できるなんて。


 ――笑いか、あるいは発狂を抑えて、祭壇の蓋を外した。


 オルカさんに謝罪した際、実は害虫の集る密室に閉じ込められたような、身の毛のよだつ不快感があったのだが、マイアのように心を見透かされる相手ではないからといって、そのように想像することさえあってはならないことだと、改めて彼女へ直接の懺悔をしたい気分だ。告解室を開放してもらいたい。

「ふふふふ……」

 要するに、私も大分この街に馴染んできたというのを伝えたかったのです。

 それとも、狂気が身に染みてきた、と言い表すのが正しい綾でしょうか?

 マイアの過去、前司教の死、告解室、それから、それから……。

 謎はまだいくつも残っていますが、おそらくこれ以上ぶっ飛んだ要素はもう出てこないはず。

 慣れないドッキリのやられ役をやらされるのも辛くなってきました。私はこちら側より、そちら側の方が適しているからです。


 ――深淵を覗くも、中には何も入っていなかった。


 ただし、勘違いをしないでいただきたい点がある。

 私はメヘルブの民草を真剣に見計らうべきだと考えるようになっただけで、彼らの在り方を全面的に認めるつもりは毛頭ないということ。

 オルカさんを始め、神へ服従する皆の姿勢だけはどうにも容認し難い。それだけはどうしても慣れないし、狂気などという便利な都合で誤魔化せる話でもない。

 それは何故か。根本の問題を解決するために私がやるべきことは何なのか。

 それは明らかなことだが、どうしてもその手段が判明しない。

 このままでは憤怒だけが積もるばかりで前進しない。物語は停滞し、ありふれた日々を過ごすばかりの螺旋に囚われてしまう。

 つい先程のクウラさんの言葉が印象に残っている。誰かと協力した方が早く片付く、友愛のシスターはそう言っていた。

 飲んだくれで、等しくこの狂った街の一員であったとしても、そう言った時の彼女の瞳は一切の淀みもなく澄んでいたのを覚えている。

 故に不意を突かれた。マイアに何度も救われ、ヤエさんを信じておきながら、私は常に孤独だと悲観して誰にも歩み寄ろうとしてこなかったからだ。私の本質が聖職者ではないということを実感した瞬間だった。

 無論、クウラさんは私の本心を知らないだろうし、私も変革の具体案をどう探せばいいのか分からない。

 それもそのはずだ。私がこれからやろうとしていることは、誰にも察知できない上に賛同する者すら現れる見込みがない。

 それを為す以上は異端では済まされず、メヘルブの全信徒を敵に回す裏切り行為に他ならないのだ。命懸けになるより前に殺されてしまう。

「ごめんなさい。なんて……」

 だから、まだ始められない。

 共犯者と握手を交わすその時まで、メヘルブの暗雲を余さず払い飛ばす異端戦争の火蓋を切ることは叶わない。

 そのきっかけが私の元へ来るまでは、苦痛だが、神父・カイルを続行するしかないのだろう。

 立場だけで信仰心の欠片もない、偽りの聖職者の役は続く。聖堂には他に誰もいないため、遠慮せず大きく舌打ちをした。

 マイアの言う通り、祭壇の中身は空になっていた。遺体だけでなく、血の一滴すら綺麗に清掃されている。

 これが本当に神が食した結果だというのなら、この胃袋は神殺しを果たすためのヒントになるかもしれない。蓋を元に戻してから幼稚な発想を以て自室に帰った。

 今宵、来たるはずの同志たちは姿を現すことなく、激動の二日目は静かに過ぎ去っていった。

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