夜の棺 Ⅲ

 殺めるつもりで首を絞めたわけじゃない。

 数分も経てば目を覚ますのは分かっていたこと。死に至らしめるほどの拷問を遂げたわけでもなく、それ故に今後の付き合いを憂いたわけなのだから。

 再び相まみえることになれば、私に対する拒絶の念か、あるいは和解不可の敵意を向けてくるのが当然だ。結果は無傷で後遺症もないはずだが、それでも自らを虐げた相手を許容できるはずがない。

 私が今後どのような刑に処されるのかをマイアは教えてくれなかったが、仮にこのままメヘルブに残留するとしても、オルカさんからの侮蔑は免れないに決まっている。

 だから、その彼女が私とのコミュニケーションを良しとしているなど信じ難い事態だ。

「お疲れ様です、カイル様。主へ供物の献上をされていたのですよね?」

 私から受けた暴行など私が勘違いした夢幻だったかのように、いつも通りの切なく佳麗なオルカさんがそこにいた。

「オルカさん……」

「カイル様、私もお手伝いをしたいのですが、男の子たちの見守りもしないといけませんよね。さて、どうしましょうか?」

 本当にいつも通りのオルカさんだ。

 出会ってまだ二日目だが、それでもシスター・オルカとは昔からこのように丁寧で気が遣える理想の女性聖職者だったと断定できる。

 それでも、仮に彼女が私に落とされたことを気にしていないとしても、私の方があの惨い経験を清算できず脳裏に焼き付けたままでいる。

 その美貌を瞳に映すたび、生に縋る苦悶の顔が思い浮かぶようになってしまった。

「カイル様?」

「子供たちはクウラさんに任せたので、今日のところは休んで下さい。清掃の方も私だけで事足りますから」

「クウラさんですか? 今夜はお休みのはずなのに、来てくださったのですね。では、すぐにでも配置に戻らないと。清掃の方も本来は私たちの務めですので、カイル様のお手を煩わせるわけにはいきませんよね。えっと……」

 振る舞い自体は変わらない。自ら率先して仕事に取り掛かろうとする献身も彼女らしいが……。

「オルカさん、貴女にはもうゆっくり休んでもらいたい。あのようなことがあった後ですし、負担の掛かることは……」

 私にオルカさんの身を案じる資格はない。それは重々承知している。

 しかし、初犯の重みによるものか、その弱った体に鞭打つような運動をされて、更なる悲劇に繋がることを私は酷く警戒していた。もし私が離れた後でそのようなことが起こったとしても、その要因は私の采配ミスによるものであり、元を辿ればあの暴行が原因だとみなされるに違いないからだ。

 要するに我が身可愛さがまだ抜けないということ。これ以上の気まずさにはきっと堪えられないという、我儘から来る建前上の配慮でしかないのだが……。

「そうはいきません。どちらも私の務めなのですから。では、クウラさんが代わってくれている間にこちらを」

 残念ながら伝わらなかった。

 私が口下手なだけかもしれないが、彼女にはこちらの意図が届かないことが多々ある。それがやがて怒りへ繋がり、あのような形になったわけだ。

 マイアのように反則ではなくとも、オルカさんを相手にする際もはっきりと想いを伝えた方が良いのかもしれない。

「オルカさん」

「はい、カイル様」

 疲労の蓄積された重たい腰をゆっくり起こす。生気を取り戻した美貌と改めて向き合うために。

「あの、先程は本当に非礼極まりない行為を……」

「……」

 オルカさんは無言で首を傾げた。よくもお前が私の時間を取れるものだな……と、そう訴える態度に違いない。

「罰は甘んじて受けます。勿論、ここのやり方に則る形で。私が全て悪いのです。新参者が偉そうにメヘルブの常識を否定し、これまで保ってきた秩序を揺るがしかねない過ちを犯すなど、許されざる異端に違いありません」

「…………」

 心にもない反省文。我ながらよく詭弁が出てくる、出てくる。

 オルカさんへ詫びる精神はこの私にも備わっている。

 それでも、この街の異常を受容することだけは天地が逆転してもあり得ないこと。

 だから彼女の信仰を拒絶したのだし、この先も同じシチュエーションになればきっと同じように彼女を傷付けるオチに至るかもしれない。

 ならば、そうなる前に私を罰してほしい。神が下す天罰などでなく、歴とした同族の手による裁きであれば文句はないから。

 そのような真っ当な人間が、まだこの世界に残っているのなら。

「ですから、敬虔な貴女がこんな異端の傍になどいない方がいい。私の処遇についてはマイアから追って報せるようにするので、私とはこれきりで。今日はもう帰って、明日の祈りに備えてください」

「……………………」

 ……沈黙が長過ぎる。いくら不快な相手とはいえ、一方的に喋らされるのは勘弁してほしい。

 さっきまで普通に会話していただろうに、何故そんな、千切れそうになるまでか細い首を曲げて私の瞳を覗いているのか。

「あの、オルカさん?」

 これまで数多の非常識を目の当たりにしてきたが、今回はまた毛色が違う。

 これは一体どういう反応なのか。コンマ単位で中身の少ない脳を駆動してみるも、呆れて言葉も出ない、以外何も思い付かなかった。

 曇った瞳。もげそうな首。上がらない口角。

 虚無そのものと言えるオルカさんの様相は、神が憑依した状態のマイアとは違うベクトルで不気味だった。

「カイル様」

 ピアノの音色のように優しい声が再び拝聴できただけで癒やされる。罪を許された罪人のような気分。

 あれ程のことをしたのだから、沈黙や変貌くらい耐えなければ。彼女が私を忌み、平静でいられないのは当然だと分かっているだろうに。

 明日にはメヘルブの民衆から石を投げられ、業火に身を焼かれる末路を辿る可能性だってあるのだから。

「私を虐げたことは気になさらないで下さい」

「……え?」

 それでも、私はまだメヘルブの一員になり切れていないし、最後までなれるはずもないのだけど。

「このようにもう回復しましたので、私は気にしていません」

「気にしていないって、そんな馬鹿な……」

「むしろ悪いのは私の方でした。だって――」

 だから、彼女の在り方なんて、どれだけ熱心に観察しても計り知れるはずもない。

 何故なら……。


「だって、神官の貴方様が下した判断なら間違いのはずがありません。突然だったので驚き、つい抵抗してしまいましたが、私の方は大人しく死を受け入れる心構えで在るべきでした。申し訳ありませんでした。貴方の制裁こそ正義の執行に他ならなかったというのに……」


 何故なら、私とオルカさんの間で起こる全てのトラブルこそが些事であり、杞憂となるほど、シスター・オルカの信仰は救えないところまでイッていたからだ。


 その身を虐げられてもなお、非は己にあると彼女は懺悔した。

 あれ程までに焦がれたシスター・オルカの微笑みも、今となってはメヘルブの狂気の一要素としか思えず畏怖を覚える。

 これ以上、この狂った女と二人きりで狭い空間を共有し続けるのは危険だ。次はもうない。

 私は気持ちの整理もつかぬまま、何とかして彼女を退けるためにその場凌ぎのアイデアを提案した。

「……分かりました。一先ずはそういうことで……。けど、片付けは私だけでやりますから、オルカさんはクウラさんと代わって食堂に戻ってください」

 無論、シスター・オルカの在り方に納得したわけではない。それはこの先も永遠に認められない。私と彼女では信仰心に決定的な温度差がある。


 ――もし、私たちが心から分かり合う瞬間が訪れるとしたら、それが叶う条件はたった一つに絞られる。


「本当によろしいのですか? 本来、司教様の役目は天罰を受けた者を祭壇に納めるところまでです。その後の片付けは私たちの業務ですのに……」

「勝手に帰宅したシスターが既にいるので気にしないでください。それに、子供たちの見守りなら多少は休めるはずです」

 何もさせずに帰らせるのは不可能だと諦めて、負担の少ない仕事を与える道を選んだ。面倒を見るべき子供はもう二人しかおらず、いざとなれば空の寝室で好きに寛げばいい。

「フフ、カイル様はマイアさんに厳しいのですね」

「そうでしょうか? あれが聖職者失格なのは誰が見ても明らかなことですし、オルカさんの方こそ甘やかし過ぎですよ」

「善いのです。マイアさんは私の恩人ですから。でも、確かにマイアさんの自由さは新しくメヘルブに来られた方からすると不思議に映るかもしれませんね」

「不思議、ですか。なるほど……」

 気になる発言があった。マイアがオルカさんの恩人?

 確かにマイアは、精神的には聖人の側に違いないと一目置いているが、それでオルカさんを救うことになった出来事とは一体何なのか。

 マイアだけでなく、オルカさんの境遇も等しく知っていかなければならないだろうか。

 私は既に罪人。メヘルブの歴史を追求することはもう叶わないはずなのに、今こうして加害者の私と被害者のシスターが落ち着いて話をしていることすら奇妙な状況なのだから、身構えるほど罰は重くないのかもしれない。

 前司教の死も、シスターたちやメヘルブの掟には関係しない事件だったのかもしれないが、つい先日まで私と同じ目線で説教台に立っていた者の無念には根本の問題を解決するための糸口があるように思える。

「では、貴方様の指示通りに。こちらはお任せして、子供たちのもとに戻ります。クウラさんには悪いことをしてしまいました」

「あとで私からも謝ると伝えておいてください」

 オルカさんが頭を下げて立ち去る。一本たりとも乱れず真っ直ぐ整っていた銀色の長髪は、私のせいでボサボサになっていた。

 そんな事後の様を見て見ぬフリなどできるはずもなく、彼女には不要な配慮だと分かっていてもこちらの気が収まらなかった。

「オルカさん! あの、本当にごめんなさい」

 聖堂まであと一歩というところでシスターは立ち止まり、キョトンとした顔でこちらを覗いてくる。依然として私の謝罪の意味は伝わらなかった。

「カイル様、間違っていたのは私ですから。それほど悔いておられるのなら先程の儀式を再開するのも善いかと。いえ、むしろ祭壇で行う方が最善でしょうか?」

 ほら、全く通じていないじゃないか。

「それはもういいです。金輪際、私が貴女を虐げることはあり得ません」

「左様ですか。それが神官たる貴方様の判断であれば」

 オルカさんはその場で私に向けて祈りを捧げた。彼女の中で私は主と同格の存在に達しているらしい。

 それともまさか、始めからそのつもりで付き合っていたのか?

 誰に対しても差別なく丁寧に接する女性だとは分かっていた。だからこそ見抜けなかったというのか。

 もしも本当に私をあの悪神と同じように崇めていたならば、そんな彼女に好意を抱いていた私は何と滑稽で、皮肉な因果に弄ばれていたのだろう。

 これまでのオルカさんとのやり取りが順に思い出される。昨日の昼、聖堂で初めて対面してからあの独房の決別に至るまでの経緯を。

 その全てがまやかしであり、浮足立った私の勘違いの絆だったという事実が悔しくて、同時に恥ずかしい。分かり合えないと気付いていたくせに未練は拭えない。

 神の声が、神の傀儡か。

 これ以上の惨めな追想と、眼前の敬虔な羊について考えるとまた暴走する恐れがある。急ぎ方向転換して彼女を退場させなくては。

「祈りを解いて下さい、オルカさん。もういいですから。ところで、意識を取り戻したのはいつ頃だったのでしょう?」

 私の言葉に従い、祈祷を終えた彼女の目には光が戻っていた。いつも通りの麗しいシスターが、いつも通りの微笑みをくれた。

「はい。鐘の音が聞こえたので、眠っている場合ではないと思い、目を覚ましたのです。祈りを怠るわけにはいきませんから」

 私は何も言い返さず、バケツに雑巾と洗剤を突っ込んで作業に取り掛かった。

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