夕の紅 Ⅱ
「な、何ですか! 大丈夫ですか?」
「あっ、はい。すみません……」
容態ではなく頭が大丈夫かと問われているようで辛い。
ヤエさんもだが、私もかなり顔が赤くなっていることだろう。体調はもう問題ないのだ。体調は。
「倒れたと聞きましたが、元気そうです」
「ええ、もう平気です。何というか、寝起きの運動というか……」
誤魔化しは効かず、ヤエさんが怪訝そうな顔でこちらを覗いてくる。
キャソックを羽織った地位の高い聖職者が、安静にしていると思われる寝室から勢い良く飛び出してくるのだから不審にも程がある。自分の奇行をヤエさん目線で振り返ってみると、やばい奴がそこにいた。
「まあ、ここは司きょ……神父・カイルの部屋ですから、何をしようと貴方の自由ですけど。……はい、どうぞ」
「紅茶! これは助かります。そういえば昨日もこのくらいの時間に持ってきてくれたのでしたか」
「いえ、昨日はもっと早かったです。今日は、その……忙しかったので遅くなりました」
「気に病まないでください。私の我儘ですから。早速……」
ヤエさんが約束通り作ってきてくれた紅茶。ポットいっぱいのそれと付属のカップ。彼女がそれを丸テーブルに置いた直後、マナーなど構わず急いで注いだ。
瀕死寸前と言えるレベルの水分不足と、昼食を抜いたことによる空腹が極上のスパイスとなり、これまでより更に価値の増した絶品に感じられた。
その貴重な一杯をすぐ飲み干しても物足りず、即座に二杯目へ突入した。
「あの、そんなに喉が渇いていたなら水の方が良かったのでは……」
「すみません! マナーが悪いのは分かってますが、本当に美味しいので、つい……」
少々噛み合わない返事をしたのは承知だが、いっそのことポットから直接口に運びたいくらいだった。
それほどこの身は飢えていた。それほどこの身は……心の拠り所であり、苦難を耐えた報酬であるヤエさんの紅茶を堪能しないと気が済まなくなっているのだ。
「はぁ。この後すぐに夕食でしょう? 食堂には冷たい水もありますから、そんなに飲まないでください」
「あっ」
二杯目もすぐに終え、止まらず三杯目を……というタイミングでヤエさんがポットを取り上げてしまった。
流石にこのあたりで自重しておこう。先程の奇行もあるし、これ以上シスターの少女を困らせるのは気が引ける。
「分かりました。続きは食後にいただきます」
「そうしてください。それでは失礼します」
ヤエさんは納得して、再びポットを丸テーブルに戻して部屋を出ようとした。
その、まだ成人とは言えない小さな背中が気になって、私は不覚にも禁断の問いを投げてしまった。
「ヤエさん、貴女は神を信じていますか?」
「……」
返事はなかった。
質問の意味が分からないはずはないだろうが、質問の意図が分からなかったのだろうか。
この私でもヤエさんには心を許せるから、尚のこと沈黙が苦しい。
答えにくい問いなのは分かっている。地獄へ誘う死神の罠だ。疑うくらいなら問題ないだろうが、一線を越えて否定的な返答をしてしまえば、その瞬間、今も独房で悶えているであろう女の子と同じ目に遭ってしまう。
私の問いがセーフティーを外すきっかけとなり、私の目の前でその若い体が赤い瞳に侵される瞬間を想像して……これは駄目だと、掌で口を覆った。
「……無論です。何故そのようなことを貴方が聞くのですか?」
「いえ、その、まだ寝ぼけているのかも……なんて」
時間を無駄にしたとばかりにヤエさんがこちらを睨む。
しかし、私にはその眼差しが、あともう一押しだと直感できるサインに映った。
私がこのようなことを聞いた理由。神の媒体であるマイアの方が明確な答えを持っているかもしれない。
それでも私は、マイアたちより後に生まれたであろうこの少女に直接確かめたいことがあるのだ。
それは、二人きりの今こそが絶好のタイミングに他ならない。
「ヤエさんも天罰についてはご存じですね?」
「……はい」
「ヤエさんはシスターの中で最も年齢が若いと見受けられますが、天罰についてはいつ頃から知っていましたか?」
神の否定を避ける環境で生まれ育ち、今この瞬間まで天罰を躱し続けてきた彼女は極めて希少な存在と言えるだろう。
存命する三人の子供たちには知らされていない天罰という名の呪いを、ヤエさんは知っていた。
子供たちと比べれば大人に見える彼女でも年齢はきっと十代後半。そう大きくかけ離れているわけではないはず。
加えて、子供たちには名前が無く、彼女には『ヤエ』という名前がある。
その差は何なのか。それらをまとめて束ねる境界線は……どこか?
「……貴方の質問の意図が分かりました。天罰を受けた女の子を見に行ったのですから当然そこが気になるはずです。お答えしますよ」
ヤエさんは握った扉のハンドルを離してこちらに戻ってきてくれた。
ただし、表情は一転して暗く沈み、先程のやり取りからは信じられない、理不尽に翻弄される被害者のそれと化していた。
「私が天罰の内容を知ったのは二年前の誕生日です。それまでは大人たちによって上手く隠されてきました。姉さんも教えてくれませんでした。私は十七歳ですから、十五歳になるまでは何も知らない哀れな子供をやらされてきました。昨日まで一緒にいた年齢の近い友達が今日突然いなくなっても、それは別に珍しいことではないと、幼い頃からそう教え込まれていたのです。まあ、そう信じることで私もどうにかこの身を守ってこられたのですけど……」
「確かに、同じシスターは他にいても、貴女と年齢が近い住民を私はまだ一人も見ていない。ここまで生き残っているのは貴女だけと?」
「そうです。みんな天罰を受けるか、生まれてきた環境の手遅れさに絶望して自殺しました。あっ、オルカさんが二十一歳なので最も年が近いのですが、彼女こそ既に……。
神父・カイルもマイアさんから説明を受けたと思いますが、子供が神を、その……考えるのは仕方ないですから、あの女の子にしても等しく死に至る末路は避けられません」
ヤエさんの瞳からは僅かな光も窺えない。夕陽を映す瞳もやがては闇一色に染め上げられた。
救いのない残酷な掟だ。現在進行形で天罰を受けている最中の女の子だけでなく、ヤエさんのようにその運命から免れた者でさえ、これほどの心傷を負いながら生きていく始末なのだから、自殺も賢明な判断に思えてくる。
死するも、生き残るも関係ない。メヘルブに生まれてきた時点でその一生が神の眼に束縛されてしまう。
全てが詰んでいるのだ。最初から。
「子供たちには名前が無いようですが、貴女にはありますね。その差は……いえ、理由は?」
「私たちが両親やそれに類する親代わりから名前を与えられるのは、天罰の真実を告げられたその日となっているそうです。それまでは無名のあの子、その子として、何も知らない無邪気な羊のフリをして日々を過ごすのです」
「では、ヤエさんの名前も二年前に? 普通は生まれた後か、早くて母のお腹の中にいる頃には名前を付けられるものでしょう。何故それほどまでに遅いのですか?」
「いえ、私は物心がついた頃から『ヤエ』でしたよ。決まりであって絶対ではありませんから、例外もあります。
けど、大半は名前を与えられません。どうせ死ぬからです。早々に命が尽きるなら名前なんて付けない方がいい。長生きするか分からない者に愛着が湧くような真似をしたところで、絶望するのは生き続ける側の方ですから」
そういうことだったのか……。
子供たちに名前が無いのは、名付けるだけ大人が損をするからだった。
名を与え、愛すると誓った子供が不意の天罰により命を落とす。その子供を愛した大人も世界に失望して天罰を受けるか、自殺をする羽目になればその一族の存続が絶えてしまう。
そのような負の連鎖によってメヘルブから人が減っていく結果になるのなら、確かに理屈の上では正しいやり方かもしれない。民衆の保身を優先するならば。
あるいは、失敗の後が、現在のメヘルブなのかもしれないが。
「いつからですか? 一体いつから、このメヘルブにはこんな掟があるのです?」
こんな、という言い方は神を侮蔑するような失言に聞こえたかもしれない。ヤエさんが私の不用心に目を丸くしているが、生憎と私に天罰は下らない。
「この掟は私が生まれる前からありました。けど、遥か昔のことでもありません」
「それは、まさか……」
「私にこの真実を語ったのはマイアさんです。そして、この掟が始まったのは二十七年前のこと。
全てはメヘルブ歴で唯一人、ワインレッドの髪を持って生まれた選ばれし聖女、シスター・マイアが誕生したその瞬間から幕を開けたのです」
「いただきまーす!」「いただきます」
「はい。召し上がれ」
ヤエさんと別れて食堂に行くと、今日はオルカさんが夕食の支度をしていた。
そして、まさかのマイアが男の子たちの面倒を見ていたのだから驚きだ。初めて彼女が良い大人をやっている姿を目の当たりにした気がする。
夕刻の鐘もここで聞くことになった。もう祈祷などするつもりはなかったのだが、皆の手前、やらざるを得なかった。
その間ずっとマイアが私を見てニヤニヤしていたのが嫌な感じだった。貴女もやりなさいよ。
「カイル様、体調はもうよろしいのですか?」
丸テーブルの方に座る私とこいつに夕食のメニューを乗せたトレーを配りつつ、オルカさんが案じてきた。
様々な具材を一口大の大きさにカットして煮込んだクリームシチューが今回の主役のようで、鍋にはその余りが沢山残っていた。
「ご心配をお掛けしました。今はもう昼食を省いた分だけ空腹で、また倒れてしまいそうです」
「まあ。フフ、ではいっぱい食べてくださいね。シチューはおかわりできますから、よろしければ」
オルカさんはそう言って、男の子たちの待つ長方形テーブルの方へに行ってしまった。今回は対面できず、彼女の食事する様も覗きにくい。
よって、私の前に座る相手はというと……。
「神父、酒持ってきてやったぞ。水なんかいつでも飲めんだからこっちにしろよ」
オルカさんが調理してくれたものは、どこから出てきたのか不明なウイスキーと合わせてマイアの晩酌を充実させるためのツマミとなってしまった。
昨日のワインといい、何という酒豪かと、呆れを通り越して感嘆してしまう。
そして、マイアの偉い態度は当然子供たちの興味を引くものなわけで……。
「あー! またマイアが酒飲んでる! ロクに働いてもいない駄目な大人のくせに!」
「うるせー。私はお前と違って裏でめちゃくちゃ働いてんだよ。ガキは黙ってな」
「嘘だよ! 俺たち今日はずっと掃除してたけど、マイアは神父さんとサボってたじゃんか! なぁ?」
「うん」
落ち着いた男の子が相槌を打ったのが少し意外だった。
マイアは子供たちからもシスター失格のレッテルを張られているようだが、私もこれと同じ駄目なタイプの大人として扱われそうで不服だ。
「サボってねぇよ。色々こいつに説明してたんだ。二人きりの倉庫で、密でな」
「密?」
「大人になったら分かるだろうよ。それまでお利口であれや」
含みのある言い方で男の子をあしらうと、マイアはウイスキーを豪快に胃へ運んだ。
男の子たちはマイアの際どい発言の意味が分からなかったようで、もうこれ以上馬鹿に構ってはいられないと判断してシチューに集中した。
ただ、オルカさんだけは意味を理解してしまったようで、まさか本当に? お二人が? 神聖な場所で? と、赤面しながら私にノンバーバルコミュニケーションを試みてきた。
私は懸命に首を横に振ったが、彼女のような清廉なシスターにもそれを思う卑しさがあるのだと分かり、密かに興奮したことだけは少なからず事実である。
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