夕の紅 Ⅰ
目を覚ました。
自室のベッドで横になっている状態だということはすぐに分かったが、同時に口の中に残る汚濁を脳が認識して気分は最悪。
長い間意識を閉ざしていたようで陽は既に沈みかけている。夕刻の鐘はまだのようで、昨日のようなミスを繰り返さずに済むと安堵したが、私が祈りを捧げることなどもうないのだから関係ないか。
「おい」
昼の鐘が鳴り、媒体を通して私に干渉してきた神なる者より直々に告げられたメヘルブの掟と私自身の真実。
神を否定した者には例外なく天罰が下り、いずれ必ず死に至るという恐るべき掟。あの女の子もきっと長くない。
そして、私とは、肉体と聖職者としての経験を他者から引用しただけの人形であり、本当に昨日生まれたばかりの持たざる赤子だったということ。
この街は意地悪な神が自ら工作した玩具箱に他ならず、部外者の私も、ここで生まれた全ての住民も、もうどこにも逃れることはできない。
掟は後から撤回できない。できたとしても、やってくれるはずがない。
「こら」
全てが悪い夢なら、寝覚めが悪い、で済む話だというのに、私はあの倉庫で教わった理不尽の数々をこの世の出来事として受け入れてしまっている。司教の役を与えられた哀れな羊としての自覚がある。
きっと、神からすれば完璧なキャスティングだったのだろう。
「なぁ」
私はこれからどうすればいいのか。アイデアなど浮かぶはずもない。
呑気に司教の任を全うし、同じような日々を繰り返す。別にそれだけでも良いのかもしれない。
しかしそれは、死ぬまでこの螺旋の中を回り続けることを意味する。この街の異常者たちと共に……。
それは幼心に嫌だ。嫌なのだが……脱却する術がない。今後の方針が固まらない。
私は、生まれたばかりの私という魂は何を望んでいるのか。自分のことだというのに、自分の心が全く分からず路頭に迷う。
「あー……」
マイアが神の媒体というのは皆に隠すべきだろうか? それとも私が初めて知っただけで、周知の事実なのだろうか? 結局その点もはっきりしなかった。
そこを弁えておかないと、すぐ傍で私を看病してくれている彼女と、それを媒体に私を見ているであろう悪神にとって、思い通りのピエロとなってしまうばかりなのだから心外も甚だしい。
「こら! 反応しろよ、赤ちゃん神父! 何で目を合わせたままシカトできんだよお前! 何の特技だそれ!」
「……あ」
そう。彼女はずっと私の隣にいたのだ。
ある程度謎が解けると、今度はそれを知ってこれからどうしたものかと考え込み、身の回りのことが明瞭でなくなってしまう。そういうことにしてほしい。
「マイア……ですよね?」
「寝ぼけてるわけじゃないんだろ? ならしっかりしろや」
「……良かった」
そこにいるのは神ではなく、確かに彼女だった。
あの赤い瞳も、不気味な貌もない。いつもの無礼なワインレッドがここにいる。その現実に安心した。
気の抜けた私を見てマイアが優しく微笑んだように見えたのは、まだ寝ぼけているせいだろう。
「ここまで運ぶの大変だったぞ。私だけじゃ怠いから他の連中にも手伝ってもらったんだが、よりにもよって司教が汚れたキャソックで内陣を突っ切るってどうなんだ?」
「マイアも運んでくれたのですか?」
「手伝っただけだ。あの場に立ち会ったわけだし、ある意味で私のせいだからな」
「それは……」
それは違う。貴女はただ神に乗っ取られていただけであって、共犯者ではないはずだ。
……とは言えなかった。彼女の都合も知らないくせに、分かった風に庇うのは筋違いだと思ったから。
だから、まだ無知な私は、代わりに感謝を伝えることを選んだ。
「ありがとうございました。おかげで休めました。とっくに気付いてましたが、マイアは優しいのですね」
今回のことだけじゃない。マイアはずっと私の調子を気にかけてくれていた。孤独だった私がどれだけ彼女に救われてきたことか。
神の媒体となっている状態の様相があまりにも強烈なため忘れてしまいがちだが、この女性には聖職者に値する精神性が確かに備わっており、私はその部分がずっと好きだった。
真っ向から礼を言われるのが予想外だったのか、マイアは暫らく窓の外を眺めた後、再び私に優しく微笑んでから離席した。
「そろそろ夕刻の鐘が鳴る。食堂に行けよ。昼抜いた分、腹減ってるだろ?」
「それよりも祈りに備えるべきでは?」
「もうやらないんじゃないのか? 他の連中はやらないと死ぬが、私とお前は平気だ。昨日の夕刻だってやってなかったんだろう?」
「マイアも……?」
外から来た私はともかく、マイアにも天罰は下らない?
確かに、神からすれば自分が下界に介入するための依り代があのように蝕まれるのは痛手なのかもしれない。神とはいえ、全てがやりたい放題というわけではないのは、掟が固定されていることからも推測できる。
つまり、媒体も変えられない? 神にとってマイアの体は手放せないものなのか?
……もし、もしも仮に、私がこの場でマイアを殺害したならば……神はもう二度と私に干渉してこないのか?
何か、全てが都合の良いように繋がって、マイアを終わらせただけで、天罰も、閉鎖も、全て無くなるのなら……!
そのようなポジティブシンキングにより、やつれた体に不思議と活力がみなぎってきた。そうだ、ゆっくりやろう!
毛布を吹き飛ばして、溌剌とベッドから起き上がる。
そうだ、これからじゃないか! 散々これまで人の命を弄んできたのだから、そろそろお前も死ぬ頃合いだろう!
誰か教えてほしい。私の話を聞いてほしい。導いてほしい。神を天上から失墜させる方法を私に伝授してほしい。
女の子だけじゃない。これまでのメヘルブ歴で神に虐げられてきた全ての民草の痛みを、屈辱を、私がまとめてお返ししてあげようではないか!
その手始めに、神に怯える哀れな羊たちの様子を嗤いに行こうか。マイアが置いていった新しいキャソックを羽織り、マイアの如く豪快にリビングへ繋がる扉を開くと……。
「なぁっ⁉」
……覚えのあるリアクションを目の当たりにして、自分の躁状態が無性に恥ずかしくなってしまった……。
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