昼の真実(神の傀儡)

 情けない体勢のまま全身が笑って動けないものだから、マイアの方から私のいる倉庫に来てくれた。呆れた顔で私の醜態を憐れんでいる。

 いつも通りの彼女で安心したが、それでは先程の笑い声は何だったのかという疑問が生じる。

 キリがない。これ以上、得体の知れないものに弄ばれるのはうんざりだ。ここではっきりさせてやる。

 赤い瞳と笑い声の意味。

 きっと、理由を聞いたところで納得はできないのだろうが、せめて謎の正体を知っておくくらいは今のうちに済ませておきたい。

「マイア、着替える前に教えてください」

「何だよ。質問はもういいんじゃなかったのか?」

 彼女はすこぶる機嫌が悪くなっていた。

 汚れた顔のまま焦らされたのだから当然か……。これは私の方が悪いと思い、箱詰めされた新品の真っ白なタオルを一枚取り出して彼女に差し出した。

 間が悪いのは承知だが、これだけはどうしてもこの場で確かめておきたいのだ。

「昨晩と今さっきのことです。あの気味の悪い笑い方は何なのですか? いえ、それはこの際どうでもいいのか……?」

「質問するならはっきりしろよ。私を押し倒したことも言いふらしてやろうか?」

 タオルで顔を拭うマイア。ただ汚れたから拭き取っているだけで、汚物に塗れたこと自体は別に嫌でもないような、丁寧な清掃だった。

「あの赤い眼は何なのですか!」

 思わず声を張り上げた。マイアがそれに一切動じていないのが腹立たしい。いや、悔しい?

 

 カーン、カーン、カーン。

 

 本日二度目となる鐘の音を聞いた。

 皆の生活における行動の目安ともなるこの音を私はまだ三度しか聞いていない。

 一度目は自室。二度目は聖堂。そして今回はこの場所。教会内を順に回っている。

 意味があるとは到底思えないが、私の行動も全ては大いなる者の手により自在に操作されているのではないかと勘繰ってしまい、また吐き気がしてきた。

「鐘の音、聞こえてるだろ? 祈らなくていいのか?」

「そういう貴女こそ、祈らないということは、神を否定することに繋がるのでは?」

 必死に強がってみたが、女の子のようになりたくないのが本音だ。あのような状態に陥ってしまえば一貫の終わりだと、心臓が激しく警告している。

 今頃、私たち以外の全員が神へ祈りを捧げているのだろう。

 自分は貴方様を信じております。だからあんな惨い姿にしないでください……と、慈悲を乞うている最中なのだ。

 メヘルブの住民は誰もが神の傀儡なのだ。そんな傀儡たちの知恵により辛うじて罰を免れている子供たちがあまりにも不憫でならない。

 あの三人……いや、もう二人だけか……。彼らはきっと、昨日まで隣にいた自分と年齢の近い誰かが突然いなくなることさえも自然現象の一つなのだと連中から洗脳されてきたのだろうな。

 気に食わない。

 真実を隠す大人たちが、ではない。彼らはどうしようもない子供の猜疑心をできる限り制御していると捉えることもできるからまだ救いがある。僅かながら理性が残っている。

 よって、私が最も気に食わないのは、憤怒を抑えられないその原因は……!

「いいのか? お前もああなるぞ」

「……マイア」

 だから言ってやる。あのような末路はご免だが、それ以上に許せないものがあるから。

 仕方ないだろう。私なんてあの子供たち以上に無垢で、自分の過去や境遇さえもよく分っていない赤子のまま、この街の真実を知る段階へ到達してしまったのだから。

 その好奇心に、またはありのままの原初の怒りに、全霊を委ねてしまうのは仕方のないことだと思わないか?

「神とはもしや、とてつもなく無能で迷惑な畜生なのではないですか?」

 さあ、この異端をお前が見ているならば、今すぐこの身に罰が下ることでしょう。

 私は死刑執行を甘んじて受け入れ、断頭台に首を乗せる凶悪犯。

 この身が隈なく赤い瞳で染まる姿をイメージしては大汗をかいて震え、己の過ちを後悔するようにまだ健在な自分の目蓋を強く瞑って執行の刻限を待つ。

「……は」

 しかし、私の身に異変はない。

 もちろん気分は最悪だが、侵食が始まる予感もしない。

 それどころか、ずっと堪えていた不満を曝け出せた爽快感が徐々に恐怖を覆し、笑いが込み上げてくるほどだった。

「は……はは……」

 渇いた笑いだ。独房から続く重苦しい空気のせいで喉が枯れていたから。

 同時に皆が畏怖する天罰なるものが私には下らないのだと分かった瞬間でもあった。

 この優越感。神の威を物ともしない生者としての尊厳の極致。私はこのメヘルブで唯一、神を克服した人間なのだ!

 ……いや、これでは最早……と、私は今になって気付いたその些細なズレについておもむろに問うてみた。

「シスター・マイア、これってもしや盛大なドッキリだったのではな――」


「ヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒッ!」


 そいつはいきなりやってきた。

 何の根拠もなく、しばらくは来ないだろうと油断していた私を嘲笑う、この世の生物が発していいものではない不協和音。

 薬漬けで狂ったかのようにかっ開かれた目蓋の中で光る鮮血の瞳が私に向けられ、眼光が倉庫一帯を焼き尽くした。

「お……」

「ヒヒヒ、ヒヒヒヒヒ!」

「お前は何だ! ……マイアなのか?」

「ヒヒ……」

 そいつはまた唐突に不気味な笑いを止めて、ガクンと俯いた。

 マイア自身か、あるいはその体に憑依した何者かは電源が切れたように固まり、直後、沈んだ首をゆるりと起き上がらせてから私にニヤついた。

「僕は、メヘルブの神なる者。マイアを媒体にして遠い次元から君と話をしにきたよ」

「……神?」

 マイアの体で、マイアとかけ離れた表情と声質で神と騙った何者か。

 その声音は我々がイメージする厳格ながらも慈愛を秘めた神とは大分違い、むしろ物腰柔らかい若めの男性を連想させた。

「想像と違って困惑しているのかい? でも生憎、僕はこういう存在だよ、神父・カイル君」

 何も言い返せない。

 コミュニケーションを避けたいからではない。むしろ意外なほどに成立しそうだ。

 気になるのは、この語りが本当に神なる者の御業だとして、それがなぜ私に干渉してきたのかだ。

 何故、マイアがその媒体に選ばれたのか。神を否定したばかりの私に天罰を下すこともせず、なぜそのように友好的なアプローチを取るのか。

 お前には全てが見えているだろうに、どうして異端なる私を見逃すのか。

「うん、うん。また新たに追加された謎に頭を悩ませているようだね、カイル君。いいよ。君は僕が選んだお気に入りだからね。教えてあげる」

 ……僕が選んだお気に入り?

 私がメヘルブの地に足を踏み入れるより前から私のことを知っていたとでも言うのか?

 その時、私の中にある最初の記憶が蘇った。 

 最初とは、メヘルブの正門に着いて以降のことだ。そこに至るまでにあったはずの足跡が消失し、自分が聖職者であること以外全ての記憶を忘れていることを自覚した頃。

 とても大切なことながら、怪奇現象の連続により後回しとなった大前提の謎が、いま正に神の口から語られようとしているのではないか。

「カイル君。まずね、君にとても良いことを教えてあげる。君はね、僕をどれだけ否定しても構わない。他のみんなと違ってあのような罰が下ることはない」

「……どうして私だけ?」

「出来ないんだよ。僕に裁けるのはメヘルブで生まれた者のみであって、君のように外からやってきた者はどうしても裁けないんだ。そういうルールになっている」

「どうしてそんな不自由なルールを布いた?」

「不自由? どこが? 確かにここは閉鎖的だ。加えて一度入れば絶対に出られない。だけどここには民衆を虐げる政治も戦争もないじゃないか。一体誰のおかげで平和を謳歌できてると思ってんだよ!」

「なっ……」

 神。マイアの体を使って、そう驕る者がいきなり声を張り上げると、僅かでも友好的だと誤解したため、不覚にも驚愕してしまった。

 私の身は保証されていると分かっていても、規格外の存在が目の前でいきなり機嫌を損ねるだけで繊細な心が砕けそうになる。情けないことに手足が震えて止まない。

 一方、弱る私を見て神は興奮し、鼻息を荒げながら笑っていた。私がこのように怯える様こそが神の欲していたリアクションだったのだろう。

「ヒヒッ! 他の場所はもっと悲惨だと思うよ。神も賢者もいないような世界だと、人間同士が潰し合い、奪い合い、悟り合うばかりでストーリーにもならないんだから。まあ、向こうの方が神を救世主として認識する人間の割合は多いけど、今はどうでもいいことだよね。

 人間が神を感じられるはずがない。感じるという者がいれば、それは嘘吐きさ。

 つまり、だから、それなら、僕を真の主と信じて螺旋の中、穏やかな日々を繰り返す方が楽に決まっているじゃないか。分かるだろう? 僕は皆を救ってあげているんだよ」

「救うだと? よく言う。それならあの天罰は何だ? 何故あそこまでやる必要がある? 皆はあのようにされるのが怖ろしいから祈っているだけではないのか? 皆はお前ではなく、自らの心を救ってくれる都合の良い空想に対して安寧を望んでいるだけだ!」

「大丈夫かい? カイル君。今、僕の救い方についてと皆の祈り方に対する偏見が混ざっていて、構成がおかしかったよ」

「こいつ……」

 駄目だ。頭に血が昇って訴えたいことを上手く整理できない。神などと分かり合う気はないというのに、自分の想いが伝わらないと調子が崩れてしまう。

 何より、動揺する私を掌に乗せてじっくりと観察する神のご満悦顔が非常に腹立たしくてならない。ヒヒヒと、喉元で小さく鳴いているのが私の耳にも届いている。

「他の場所はもっと悲惨だと言ったが、果たしてそれはどうか?」

「うん?」

 それでも引くわけにはいかない。嫌悪した相手に言い負かされるのは恥だ。

 ずっと安全圏から私たちを見ているだけのお前より、私の方が世の理も人の力も知っている。

 人と神を結ぶ神官の立場など関係ない。単に私個人が神の皮を被ったこの悪魔を失脚させないと気が済まなくなっていた。

 ただでさえこのメヘルブで唯一それが叶うのが私なのだから、残る男の子たちのためにも戦わなくてはならない。

「自分より格下の者に少し貶されただけであのような惨い呪いをかけるお前こそが小物だ。それぞれの罪の重さを考え、見極める能力が足りていない。

 いいか? 告解室を訪れた迷える者たちを正しく導いてきたのはお前じゃない。私たちだ! お前は一度だって直接的にも、間接的にも誰かを救ったことなどないんだよ!」

「僕が怖いんだね、カイル君。だからどうしても話をすり替えたがる。先に新しい話題を振れば一先ずは安心できるものね」

 不気味な笑みとは違い、今度は包容する慈愛の笑みを浮かべている。

 それが、私の怒りなど羊の鳴き声ほどの健気なものだと、これまで私が信徒たちに対して常々思ってきたことだから分かってしまう。

「黙れ! ずっと不快なんだよお前は! そも、お前はメヘルブを救う神だと騙っているが、外から来た私からすれば神に跪いて生きていかなければならないこの街の方がよっぽど――」

「外から来たというのは、一体どちらから?」

「どこからって、それは当然……しんぷをやっていた……とかいの……ながいたびをへて……」

「うーーーん。まだ少しだけ本体の記憶が残っているようだね。特殊な聖職者の中から選んでいるから必要な知識だけを引き継いでくれれば良かったんだけど、難しいところだ」

「何を言って……」

 確信があった。次の瞬間、衝撃の真実を突きつけられてしまう。遂にその時が来てしまうのだと。

 生者の誰もが負う、当たり前の要素。それでも何故か私には欠けていたもの。

 全く、この調子でよくここまで粘れたものだ。

 いや、知らないからこそ馬鹿みたくやってこれたのだろうなぁ。

 だって、真実ってやつはいつだって、自分にとって都合の悪いものばかりなのだから。

「君のその体はね、君のものじゃないんだよ。意味が分かるかい? 偽名の羊君。

 このメヘルブで司教をやるのに都合が良い聖職者を外界の歴史から引用して、話を円滑に進めるために必要な最低限の知識と常識を取り込んでから正門前に召喚する。都会で神父をやっていたというのは、その者の人生経験の残滓に過ぎない。君の記憶ではないんだよ」

「嗚呼……あ……ぁ?」

 全身から力が抜け、うつ伏せで倒れた。とてもじゃないが碌に立ってなどいられない痙攣発作と発汗量だ。

 どうやら私の想像を容易く超える真実だったようだが、今の私には何もないのでどうしようもない。

「君のモデルとなった人物こそが都会で神父をやっていただけ。君の魂は昨日、赤い門の前で生まれたばかりなんだよ。足跡なんて最初から無いに決まっているのさ。

 君自身、心の奥底で自分のことを生まれたばかりの赤子だと自虐していたそうじゃないか。君か、もしくは君のモデルの残滓は良い例えをするね」

 ……何だ、そういうことか。

 良かった。全て繋がった。これでようやくすっきりした。

 まだまだ謎はあるが、優先して知るべきことは全て知れたはず。

 つまり、私には何もないのだ。初めから。

 この体は自分のものではなく、僅かに覚えていた聖職者としての知識さえも、私の経験値ではなかった。

 モデルは歴史から引用したと言っていたが、その人物は自分と同じ容姿の赤子が今これだけの醜態を晒していることなど察知せず、神父として豊かな日々を過ごしているか、あるいは既に全うした後なのだろう。

 私には、本当に、何も、何も無かったんだね。

「ヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒ! さすがにショックだったかい? 無理もないよ! 君のモデルは逞しいものだが、君の魂はあまりにも繊細だからね! 残る子供たちよりも下! 赤ん坊そのものだ! まあ、手紙なんて存在しない物を使って自分が大人の聖職者だと思い込むように催眠をかけたのも僕なんだけどね!」

 うるさい、うるさい。頭が割れる。

 あれほど熱くなっていた頭が今では凍るように冷たい。呪いを受けた者は寒気にも襲われるらしいが、きっとこれも負けていないはず。

 火急、休息を要する私の頭が意識を閉ざしかけている。気絶ってこういう感じなんだ。初めて知ってなぁ。

「ゆっくりやろうよ、カイル君。皆も口を揃えて言っていただろう? 急いでも仕方ないって。だってどうしようもないんだし。

 掟は絶対! やること少ないこの世界! のんびりお祈りでもしないと間が持たない! ヒヒヒヒ! 天罰の始まり、媒体となったこのシスター、前司教の死に様……他にもまだまだ謎はある。ヒヒ! これからじゃないか! 君の人生は始まったばかりだろう!」

 床に伏した私の傍で疫病神が嗤っている。

 メヘルブの民たちがこのような掟に囚われながらも善良なままでいられるのは、己の信じる主の本性がこのような狂気だとは知る由もないからだと理解した。

 それ故に私は、残る体力を振り絞ってあと一つ、こいつに関することで聞いておかなければならないことを声にした。

「私に……真実を教えたのは何故だ?」

 それだけ先に教えてくれ。他の人々が、マイアが神の媒体としてこのような様相になることを認識しているのかどうかも一緒に分かるかもしれないから。

 しかし、ここでまさかの沈黙だった。

 早く答えてほしい。こっちはもう限界で眠ってしまいそうなのだから。

「……君が面白いからだよ、羊君。メヘルブのルールに染まった連中にはもう飽きてしまったが、君は特別だ。罰を受けない君はこれからの生活の中で誰とも分かり合えないことを思い知らされて孤独に堕ちる。

 その先が楽しみなんだよ! 正門なんて存在しない。周囲の壁を壊して外に出ることもできない。山を越えて遠くに逃れることもできない。始めからそういうルールになっている。どこにも逃げ場のないこの街で、何も縋るものがない君は一体どうなってしまうのだろうね!」

 神が嗤っている。酷く不細工な顔だ。私はマイアの、ボーイッシュだが綺麗な顔立ちを気に入っていたのに何てことをしてくれるんだ。

 あと、おそらくこいつは私を長く苦しませるためにわざと間を取ってから答えたようで心底不快だが、私の最後の問いをしっかり聞き入れてくれたことだけは有り難かったよ。ちくしょう。

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