昼の真実(天罰)

 扉の先は倉庫だった。日用品の在庫などが積まれている。私のキャソックやクラジーマン等の予備も壁際の棚に敷き詰められているのが目に留まり、前司教と同様、私も最期までここで生きていくのかと斜に構えてしまう。

「マイア……」

「ああ、こっちだ」

 倉庫に女の子はいない。

 ただ、女の子の寝室で嗅いだ腐臭がここではより強く感じられて吐き気を催す。倉庫の窓は不用心にも全開となっていて、その分だけこの腐臭を僅かながら外へ追いやっていてもだ。

 倉庫には一つの窓、二つの扉がある。この設計を私は知っている。

「もしかして私の部屋と同じ構造ですか?」

「形は同じだよ。ただ、寝室と浴室はないがな。その代わり――」

 マイアは奥の扉、私の部屋で寝室に対向する方をノックをした。その先にいるのか。

「起きてるか? 望み通り、神父さまを連れてきてやったぞ」

 赤いシスターの呼び声に扉一枚隔てた向こうにいる者が応えた。

「シ……ン……プ……サ……マ……?」

「は?」

 身構えようもなかった。十歳にも満たない幼い女性の声帯から発せられるものとして、あまりにも不適切な掠れ声だったからだ。

 ボロボロの世捨て老人がこれでもかとアルコールを大量摂取して喉を破壊した末路のような、人間として手遅れな者の断末魔に他ならなかった。

 女の子が生きていたと分かり一安心……なんてわけあるか。たった一声で、焦っても仕方ないというシスターたちの楽観的な態度に同意できてしまった。

「今のは……」

「開けるぞ」

「待っ――」

 マイアは間髪入れず手持ちの鍵で女の子の待つフロアの扉を開けた。

 それは聖堂と倉庫を分かつためのものではなく、この場所を隔離するためのものだったのだ。

 ところで、決心がつくまで待ってほしかったとか、事前に説明してほしかったとかいうのは、真実から程遠い弱者たちの取るに足らない言い訳であり、世界の秩序を明確に把握している強者たちにとって、その嘆きは道化にも能わない負け犬の遠吠え程のものでしかないらしい。

 

 ……ひどい。酷い。ヒドすぎる。

 このようなことがあっていいのか。いいわけがない。これが本当に現実で、私たちの生きる世界に真実として在って善いものではない。

 なんだ、何だこれ……何だ此れは!

 ほら見ろ。やっぱり人を救う神なんてどこにもいないじゃないか。それなのに必死に縋って、馬鹿だなみんな。特にオルカ!

 だって、そいつが本当に存在するのなら、まだ何も過ちを犯すはずもない無垢な子供がこんな目に遭わされているのに、それを黙って見過ごすはずがないじゃないか。

「シ……ン……プサ……マ? キテ……ク……レタ……ノ……?」

 断末魔のまま喋っている。

 私の寝室と同じ広さで、同じ位置に窓もあるが、ここは向こうと違って独房のような終末の雰囲気を醸し出している。

 この部屋に置かれているものといえば、目の前のこれと、それが逃げ出さないように拘束する壁から伸びる鎖手錠。あとは昨日見た絵本が……あれではもう読めないだろうに、エサみたく傍に置かれていた。

「シンプ……サマ……? イナイ……ノ……?」

「ぁ……えっ……」

「ああなるともう目が見えなくなるんだよ。耳もかなり悪くなるから近付かないと会話も儘ならない。聖職者ならそれらしく、何も差別せずに歩み寄ってやりな」

 マイアは独房の鍵を閉めると、それに欠片も嫌悪感を見せず通過して窓を開けた。これまでとは比較にならない激臭を外に吐き出すために……。

「念のため見張っとく」

 マイアは昨夜とは逆に室内側から窓枠を跨いで外に出ていった。

 頼みの綱が離れた位置に移動してしまい、私とそれの二人きりになると、途端に猛烈な不安と恐怖に襲われた。

「シンプサ……マ……?」

 両脚が震えてまともに動けない。喉も詰まって思い通りに発声できない。

 マイアの言う通り、聖職者ならば歩み寄らねばならない。問わねばならない。

 しかし、どうしてもそれが叶わず立ち尽くしてしまう。

 一刻も早く、どのような過ちを犯してそのような末路に至ったのかを、皆が信じる主に代わり懺悔を受容し、皆が信じる主のようにその罪を許さねばならないのに。

 その基盤。迷える人と、それを導く主の関係。私にはその主義が根本から間違っているように思えてならなかった。

「シンプサマ……ドコオオオオオ!」

「あっ……」

 咆哮を受けた私はだらしなく尻もちを着いた。

 幼いながらに面倒見の良い女の子。それが今、私の目の前でこのような姿で叫び出すのだから仰天して当然のはずだ。

「は、はい。来ましたよ……」

 これでは埒が明かないと、距離は詰められないが懸命に話しかけてみた。

 だが、私の声は貧弱で全く通らなかった。もっとはっきり喋れと、自身の無力に苛立つ始末。

 歩み寄るしかない……。

 一応、辛うじて人間のシルエットを保ってはいるが、私にはどうしてもこれを同じ人間だと容認することができそうにない。

 目が見えないというのは、女の子が両腕をフラフラと泳がせているから分かる。視力については一先ずどうでもいい。

 しかし、それで何故、死ぬ寸前のような女の子だったものは……。


 大小様々なサイズの目蓋と、そこから覗く眩い赤色の瞳に全身を侵されているのだろうか?


 これが天罰の結果?

 これが異端者の負うべき業?

 女の子がそれほどの過ちを犯したのか?

 いよいよ何も分からない。一体どういう理屈なのか、分からない。

 これは受け付けられない。堪らず豪快に嘔吐してしまった。

 いくら吐いてもこの気味悪さは抜けなかった。思考を放棄したい。もうこのまま顔面が吐瀉物に塗れることも構わず倒れ込んでしまいたい。

 怖ろしいのは、化け物になった女の子だけじゃない。

 これをやった神の正体が人を傀儡にして愉しむクズだとよく分かるのが気持ち悪い。

 これを正義として許容し、主の所業を疑わず祈り続けるメヘルブの連中が気持ち悪い。

 腹が痩せるまで嘔吐を繰り返すと、外を見張っていたマイアが見かねて口を開いた。

「神父、それが私たちで言うところの天罰だ。あることをやらかすとそうなる。この街の人間は誰であれね」

「あることって?」

「それは……」

 絞り出した繊細な声がマイアには届いた。

 嫌でも知らなくてはならない。メヘルブの掟を。どうして子供にこのような罰が下るのか。それが何故、こんなにも惨い手段でなければならないのかを。

 マイアは先の言葉を噤んで女の子だったものを見つめていた。

 私も硬直した首を何とか曲げてそちらを振り向くと、それが独りで喋り始めた。

「しんぷさま……いるの? いるならきいて。わたしね、わるいことをしちゃったの。おとなのみなさまにあんなにちゅうい……されてたのに。ながいきしたい……なら……ぜったいにやぶっちゃだめっていわれてたのに……」

 先程までと比べて少しだけ聞き取りやすくなった。同じ人間としての意思の疎通が叶いそうだと微かに期待が持てる。

 それでも、私の知るあの女の子はもう二度と戻ってこないのだと分かると、不意に涙が零れた。

「でもわたし……しんぷさまになまえ、を、きかれてわからなくなったの……おとなにはなまえがあってわたしたちには、な、い。みんななにかをかくして、る…………」

 彼女はきっと、猛烈な苦痛に耐えながら胸の内を曝け出しているに違いない。

 あまりの理不尽と、それを了解する周りの世界。

 昨日やって来たばかりの私などとは違い、この子はもっと長い時間を使って当然の疑問を抱え、その果てにこのような姿にさせられたのか。

「寝たみたいだな。無理もない。この状態で喋ると相当疲れるみたいだぞ。特に今みたく相手に聞き取りやすい喋りを意識するとな」

 いつの間にか私と女の子の間にマイアが割って入っていた。

 この子とは違い、全てを知っている大人の一員。この凄惨な悲劇を目の当たりにしても一切取り乱すことのない異常者。

 とっくにこの街の掟に染まった、神の……。

「マイア、教えてください。全てを」

「いいだろう。お前の質問に答えよう」

 全て曝け出してやるのだ。この狂った街の狂った常識を。

 その後で、私は連中を……。

「まず、この子は何故このような目に?」

「ルールを破ったからさ」

「そのルールとは?」

「神を否定するような言動を取ると天罰が下る。お前には天罰より呪いと言った方が分かりやすいか? このメヘルブで神を認めない者は決して許されない。それをやったら誰であれ次の瞬間にはこうなる運命なんだよ」

「この子が何をしたのですか!」

「だから神を否定したんだろ。昨夜のことだ。クウラから聞いた話では、この子にその絵本を読んでやってる時に聞かれたんだと。神さまは本当にいるのかと。どうして大人たちはそんなに神さまを怖がってるのか、ってな」

「それだけではまだ否定したことには……」

「ああ。だからそこから神などいないって方向にエスカレートしたんだ。唐突でもないさ。祈る行為そのものが子供には意味不明に思えて仕方ないだろうからな」

「子供たちは天罰がこのように惨い呪いだと知っているのですか?」

「いや、教えていない。倉庫の窓が開いていただろ。クウラがこの子の寝室の窓からあそこを通ってこの部屋まで運んできたんだ。何故か分かるな?

 万が一にも食堂を通った時に他のガキ共と出くわしたらバレちまうからさ。臭いもあるしな。だから、勘付かれるのを避けるためにわざわざ外から回ったのさ。よく一人で対応してくれたもんだよ。

 もっとも、ここの窓は呪われた者とサシの時には開けないようにしてるから、今ようやく換気できたわけだが」

「何故、真実を教えないのです……」

「子供だからだよ。こうなるぞと教えて、怖ろしいから気をつけようってところで踏み留まれるなら別にいいがな。

 そうじゃなくて、こんな怖ろしい世界に生まれたくなかった! 神サマなんて大嫌い! なんて考えるようになったらその時点でアウトだろ? 他へ連鎖するリスクもある。過去に例もあるしな。知らない方がまだマシという『決まり』になってるんだ。少なくとも、大人になるまではな」

「では、子供が三人しかいない理由は?」

「三人以外死んだからだよ。死にやすいんだ、子供は。無垢だからな。ついうっかり神を否定してしまう。そうなったらもう元の姿には戻れないから誰かに殺してもらうしかなくなる。もしくは――」

「この状態は確かに酷い。けど、一応は生き永らえることができるのですよね?」

「無理だ。よく見ろ。まず、口が眼になってるから食事ができない。点滴しようにも眼が邪魔で注射が入らない。あと、めちゃくちゃ吐き気がするのに吐き出す口が無いから胃と脳に不快感を残すしかない。酷く寒気を感じるが、眼を外界に晒しておかないとパニックになるから服は着れない。

 そして何より、他人の蔑む視線が辛くて、とてもじゃないが生きてなんかいられない」

「……」

「あとかなり痒いらしい。けど、眼が邪魔して肌を掻けないんだ。眼を掻いたら血が飛び散って死に迫る」

「…………」

「もういいか? じゃあどいてくれよ」

「………………え?」

 あまりの地獄絵図に言葉を失う。

 まだ問うべきことは山ほどあるはずなのに、これ以上は流石に堪えられない。

 この度し難い呪いの数々が紛れもなく事実として証明されているのが堪えられない。

 だから私は、この地獄の全容……その一部分のみを聞かされただけでおかしくなってしまい、自分でも知らぬうちにこの狂った街で平然と聖職者の役を務める赤い怪物を押し倒し、容易く握り潰せてしまえそうな柔い両肩を強く握っていた。

 我に返り、急いで退く。

 土下座でもしなければ済まない蛮行だが、それは余裕のある者にできる形だけの謝罪であり、今の私には到底できそうにない。

 マイアは狼狽える私に何も言わず、その場で眠ったように動かなくなった。

 流石にやりすぎた。今のは相当痛かったはずだ。

「あ……」

 私から出た涙と汚物で彼女の顔が塗れている。当の私より酷い有り様になってしまった。

「シスター・マイア……」

「もういいのか?」

 質問はもういいのか、という意味だろうか?

 別の意味があるにせよ、もう限界だ。長い時間この異物と異臭と異常を相手にすれば私まで狂ってしまう。

「聞くべきことは山程ありますけど、一先ず休ませてください。疲れました……」

「そうか。お前がそれでいいなら、私もそれに合わせるだけだ。……手」

 またマイアが手を差し伸べてきたので、先に立ち上がってから彼女の手を掴んでゆっくりと起こした。

 私のせいで顔も修道服も酷く汚れてしまったのに、それを不快に思う素振りを見せないのが不思議だった。

「あの、大変失礼を……」

「別にいい。それより着替えを持ってきてくれ。お前のも私のも倉庫の棚に入ってる」

「分かりました……」

 足早に独房を出た。地獄から天国へ。

 衣類の積まれた棚から私のキャソックと彼女の修道服を取り出した。サイズは合っているだろうか?

 先程までの憂鬱なばかりの時間と違い、今は心が充実している。いかに狂った世界といえど、他者の役に立つ行いは自らをも満たす素晴らしい善行なのだと信じ切れる。人の為にやるから善いのだ。

 そうして天国の心地良さに浸かっていると……。


「ヒヒヒヒヒヒヒヒ! ヒヒヒヒ! ヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒッ!」


 地獄より、忘れた頃にあの笑い声が聞こえてきた。

 私は腕に抱えた着替えを放り捨てて駆け出すと、聖堂に繋がる扉の前で全霊の祈りを捧げた。

 嗚呼……なるほど。これは確かに怖ろしい。神に縋りたくなる気持ちも分かるというもの。

 あれが何なのかを真っ先に聞いておけば良かった。

 今の時点で唯一はっきりしていることは、あれと天罰は同じ赤い瞳をしており、つまりは同じ奴の犯行に違いないということだ。

 きっと、皆が馬鹿みたいに屈服している奴の仕業に違いない。

 神そのものか、あるいはそのような反則を行使できる何者かが私たちを怖がらせて、苦しませて、壊して、愉しんでいるのだ。そうだと確信した。

 メヘルブには神がいる。

 その事実があまりにも怖ろしくて、私は組んだ両手だけを宙に残してその場で必死に土下座を続けた。

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