夜の羊

 夕食を終えて男の子たちが浴室に移った頃、食器を洗い終えたオルカさんは日々のルーティンであるその日最後の祈祷を行うため聖堂に向かった。

 今夜はそのオルカさんが子供たちを見守る当番のため、彼女が抜ける間だけ代わりに残ると手を挙げた。

 自室に戻ったところでやることがない。早起きとはいえ昼に寝てしまった分、外が真っ暗になったこの時間でも眠気はまるでない。

 故に自ら率先して食器の片付けに励んでいる。オルカさんは後で自分がやると言っていたが、暇潰しに丁度良かったので、仕事を奪ってしまうことにした。

 途中、つい何度も背後を振り返ってしまった。

 女の子のことが忘れられない。

 昨日のこの時間だ。確か私は、とても怖い顔に豹変してあの子を泣かせた。読んでほしいという絵本を抱えて私の背後に立ち、私もそれに関心を示したが、結局は断られてしまったのだった。

 そして、女の子が寝室に逃れる寸前で、私は突拍子もなく彼女に名前を聞き、そのようなものは無いと返された。

 あのくだりが本当にきっかけなのか?

 私の対応は女の子に天罰が下る引き金として足るものだっただろうか?

 女の子から直接「お前のせいだ」と恨まれてしまえば容疑を認める他ないが、もし、想像通り女の子が元から神に対する疑念を抱き、それが積もりに積もった結果で神の否定に繋がっただけであるのなら……。

「気にすることはない」

 気にすることはないのだ。誰も私を責めないのがその証拠だろう。

 この街で子供が生き永らえることは稀だと、ヤエさんから聞いたばかりではないか。

 私が気にすることじゃない。私は何も悪くない。

 水気を拭いた白い小皿を手に取り、引き出しの定位置に仕舞おうとすると、パキッという亀裂の生じる音がした。

「あ……」

 手元を見ると、小皿が均等に分断されており、掌から血が漏れ出ていた。

 元からヒビが入っていたわけではないはず。原型の感触を覚えているから確信できる。

 私が無意識に力を入れて無理やり壊した結果なのだ。

 昨日と同じだ。私の精神は何も成長せず、素直な憤りをこの身から表出している。

 私は幼いながらも司教であり、同時に神を否定できるメヘルブの部外者。

 その務め、あるいは使命から目を背けて、このようなどうでもいいことに時間を削いでいるのが現状なのだ。

 聖堂に出ない司教などこんなものだ、と言えばそこまでだ。頼まれたわけでもなく勝手にやり始めたわけだし。

 しかし、使命に重きを置いてみると、全く無駄な作業に思えてならない。こんなことをやっている暇はないはずだし、時間が惜しい。

 私は今、何をするべきか。何をするのが最も正しく、最も納得できるのか。

 それは考えるまでもなく明快な話だ。

「会いに行こう」

 憤りを抑えられぬまま食堂を出た。


 きっとまた血走った形相を浮かべているのだろう。

 くだらない片付けも、庇護すべき男の子たちさえも放って、早足で聖堂を渡る。

 倉庫の扉を開くところ、いつも通りの席で、いつも通りの祈りを捧げていた羊が、何事かと慌てて私の仮名を連呼していたがシカトした。貴女方の茶番に付き合えるほど今の私は酔狂じゃない。

 最初から決めていたことだから、女の子が拘束されている独房へ着くまでに障壁はない。夕刻の鐘が鳴るより前、ヤエさんを見送って部屋を出る際に独房の鍵をキャソックの内ポケットに入れておいた。

 初見では、天罰の姿を気味悪く感じるばかりで碌に向き合うこともできなかったが、今は違う。

 事情を教え込まれ、恐怖心を憤怒である程度押さえられている今なら、きっと彼女と向き合えるはず。

 そのような若い威勢に身を任せ、倉庫の先に待つ彼女の元に辿り着いた。


 しかし、それは……かつて人間の女の子として成立していたはずの腐肉は……今朝と比べて更に惨たらしい格好へと零落していた。

 

 独房の床に真紅のカーペットが敷かれていた。

 それは、まだ何も知らない幼い命の生きた証だった。

 床一面を血で染め上げているだけではない。彼女が今際の際まで大切にしていた絵本にも濃厚な紅が沁み込んでおり、表紙の白い鳩などまるで惨殺されたかのようなスプラッターと化していた。

「こ、れは……」

 そして、肝心の女の子だが……これはもう、とても直視できたものじゃない。

 全身を赤い瞳に蝕まれた、女の子だったもの。

 その瞳の半分くらいは尚も健在で、相変わらず命が宿っているかのように目蓋を開閉しながら奥の角膜をギョロギョロさせており虫酸が走る。

 しかし、もう半分はハンマーか何かで潰されたように破壊済みで、正しく死んだように機能を終了していた。

「まさか……自分で?」

 推理は簡単だった。女の子は壁から伝う鎖手錠で両手を拘束されており、この部屋の扉にも窓にも決して届かないように拘束されている。

 それは同時に、彼女があの状態でもある程度なら行動が可能だということを意味している。

 例えば、その場で身を顧みず大袈裟に地団太を踏んだり、着地を考慮せずに体を跳ねらせたり、あとは背後の壁に頭や体を衝突させるなど……最低限、それくらいのことを実行できるゆとりはあったはず。壁面までもが赤黒く塗られているのが証拠だ。

 そのように女の子は知恵を絞り、自らを戒める凄惨な呪いに抗ったのだ。

 何だかそれは、私も共に嫌悪する悪神に対して、聖戦の火蓋を切るような決断にも思えて尊敬の念を抱いてしまう。

 ところで、その自傷行為には果たして何か価値があるのだろうか?

「貴女……貴女! 起きてますか! カイルです!」

 独房で初めてまともに声を発せられた。

 故にこそ、彼女一人に向けた特別な記号が何も無いというのは、寂しいことだとつくづく思う。

 一応、私はまだ冷静だ。冷静に思考を凝らせている。何がどうなっているのかはまだ分からないが、まだ分からないという序論を理解できている。まだ取り乱していない。

 女の子からの返事はない。疲れて眠っているのか、それとも私が来たことに気付いていないのか。耳が悪くなるとマイアが言っていたし、もっと傍に寄らないと駄目か。

 今朝は踏み出せなかったその一歩も、今の私には造作もないこと。赤子ながら成長したものだと、大粒の汗を流して苦笑する。

 第一歩目を踏み出したところ……。


「その子は主が与えてくださった試練から目を背けたのです」


 いつの間にそこにいたのか。私の背後に立つ愚か者が女の子に代わって答えた。

「オルカさん?」

「カイル様、子供たちを置いて出掛けられては困ります」

「オルカさん、いま何て言いましたか?」

「ですから、子供たちを――」

「そっちじゃなくて、こっちの子です」

 今のは私の冗談を真似したつもりなのか?

 だとしたら全く面白くない。間が最悪だ。ユーモアのセンスがない。

 憤る私の横を通り、シスターは女の子だったものに歩み寄る。

 そうだ。私が駄目なら代わりに貴女が声を届けてあげればいい。絵本を読み聞かせてあげてほしい。 その方がきっとこの子も安心できるはずだから。

「まだ動いている眼もありますけど、本体が完全に終わっていますね。これだけ沢山の眼を破壊してしまっては、仮に精神が保たれていたとしても出血多量による死は免れません。残念ですが、このまま祭壇へ運びましょう」

「オルカさん、どうしてそんなに平気なのですか?」

「……え?」

 可哀想に、この者もメヘルブの掟に染まってしまっている。

 今の質問が理解できないのか。若い女らしく首を傾げる仕草が今ではとても下劣に映り、サイコパスなのかと畏怖を感じた。

「女の子は自殺したのですね?」

「その通りです。こうなっては仕方のないことですが」

「そうですか。それで? どうしてそんなに平気なのですか?」

「ごめんなさい、カイル様。質問の意味が……」

 ……そうか。こういう世界で生きてきたら、そうなってしまうのだな。

 何だ。私は生まれてまだ間もないから、他者より断然劣っている自身を悲観していたが、こいつらよりずっとまともじゃないか。

 普通、昨日まで共に生活していた隣人がこのように悲惨な死を遂げれば心を痛め、ネガティブ思考に陥ることは避けられない。お前のように平然としていられるはずがない。

 悲哀に陥る時間と、そこから立ち直るまでの早さは人それぞれだろうが、少なくとも隣人との別れを惜しいと感じるのは誰だって同じのはず。

 だというのに、こいつらは……こいつは!

「カイル様? えっと……」

 羊が怯えている。私の圧迫に。目の前の惨状ではなく。

「オルカさん、私は女の子が亡くなってとても悲しいです。貴女はどうですか?」

「は、はい。私も悲しく思います。子供が天罰を受けて、成人せずに命を落とすことは珍しいことではありません。よくある些事です。それでも、あの子と過ごした日々はかけがえのないものですし、あの子が好きだった絵本のお話が私も好きでしたから……」

「些、事……」

 私はただ、こんな世界は間違っている……と、言葉にできなくても表現くらいはしてほしかっただけなのに。

 以前から感じていた私とこれの間にある絶対的な亀裂が、私たちを絶対に分かり合わせないよう阻み続けている。

 つまり、私の方はもうとっくに我慢の限界だった。

「絵本ならそこにあります」

「え? あら、これではもう読めませんね」

『これ』呼ばわりされた絵本を手に取った。手が汚れようと構うものか。

 命がページまで浸かり、絵も文章も塗り潰されていた。今にも破けてしまいそうだが、彼女が短い生涯の中で『心の拠り所』とした大切な一冊である以上、簡単に処分するわけにはいかない代物に他ならない。

「オルカさん、貴女の気持ちは分かりました。ですが、やはりこれは疑うべきことではありませんか? ただ一度だけ神を否定しただけでこのような末路を辿る羽目になるなんて」

 見るに堪える異常者より、看取るべきだった幼いものを憐れみ、奮う。

「カイル様……それは主の威光に背く考えです」

「私のような部外者に天罰は下りません。それくらい貴女なら知っていることでしょう? 貴女だってメヘルブの仕組みを熟知しているのだから」

「それは……そうですけど……」

 私が一歩近付くと、彼女は一歩後ろに下がる。

 私の方が歩幅が広い分、すぐに追いつく。そうして壁際に追い込んで逃げられなくしてやるのだ。

「天罰が、神が怖ろしいのは仕方のないことです。保証のある私ですら万が一を想像して吐きそうになる。けど、もっとあるでしょう? こんな場所に生まれてきてしまった不運を、隣人が理不尽な目に遭うことを嘆く術が!」

 とても無茶なことを言っている。彼女だってずっとこの掟に苦しんできたはずなのに、私は安全圏から「お前は間違っている」と叱責しているわけなのだから、話の通じないクレーマーも同然だ。

 それでも伝えなくてはならない。教えてあげなければならない。この街の異常さを。普通はもっと違うのだということを……!

 これも稚拙な私の無力な叫びなのか?

 私たち人類が超越者の傀儡として踊らされるのが許せないだけなのか?

 私は、この教会の司教としてではなく、ただ私の内から溢れる願望のままにメヘルブの迷える羊たちを正しく導きたくて……。

「貴女は知っていますか? 神を否定したら呪われるなんてここだけの話なのですよ。この街だけが畜生の手によって狂わされているだけで、他所の世界では神に対する冒涜なんて別に大して――」


「私ぃ、天罰が理不尽だなんて思ってませんよぉ」


「……あ?」

 今、壁際に追い込んだ羊の貌が蕩けなかったか?

「……何だって?」

「カイル様の仰る通り、私はこのメヘルブで生を受け、今日まで生き永らえてきました。幼い頃の私は友達を作ることを禁じられていましたから、両親以外の人とは碌に話をしたこともありませんでした。両親に家から出ることを禁じられていたのです。今と違って、昔は誰もがこの街の掟を嘆いていたから、そんな異端な人たちと会わないように私を守ってくれていたのですね。そうして家に籠る間に私と同じ子供たちはみんな、みんな、みんな、みんな、みんな……死にました。天罰を受けて。主に反して」

 今も心傷が残っているはずの過ぎた惨劇。

 それを彼女は、声を幼くしながら愉快に語り始めた。

 それこそ子供に絵本を読み聞かせるように甘く、穏やかに。あやすように。

「でも、それは仕方のないことです。主を、神様を怒らせちゃいけません。私たちが全面的に悪いのです。せっかく生まれてくることを許してもらったのに、罰だけは勘弁だなんて、そんなの自由過ぎます!」

「……自由でいいじゃないですか。それに私たちが生きているのはあんなゴミのおかげではなく、先人たちの歴史の積み重ねによる恩恵でしょう? 神なんて最初から必要がない」

 彼女の変貌ぶりが私の怒りに拍車をかける。気付けば修道服の胸倉を掴んでいた。

 しかし彼女は、まるで人が入れ替わったかのように怯える素振りも見せなくなり、ブーツの踵を宙に浮かせたまま尚も戯言を並べ続けるらしい。

「カイル様、貴方はもう客人ではないのです! たとえ主が貴方を罰しなくても、皆が貴方をお手本にするのですから、善き神官として正しい振る舞いをしていただかないと!」

「うるせぇよ。何言ってんだよ、さっきからずっと。気色悪い」

 常々感じていたことだ。

 マイアとヤエさん以外、皆が等しく手遅れの奴隷なのかもしれないが、中でもこいつの敬虔さは際立って鬱陶しかった。

 あんなものを信仰しているのが信じられない。認められない。許せない。壊したい。

 同じ聖職者だから当然、共にいる時間も長くなる。今までも。そして、このままではこれからも。

 だから、こいつよりきもいやつはもっとほかにいるのかもしれないし、じつはこいつはこれでまだまともなほうなのかもしれないが、それでも……。

 

 この狂った玩具箱の中で、今後とも末永くこいつと一緒にお祈りごっこをやらされるなんて死んでも御免だね。

 

「いけませんカイル様! 貴方様ともあろう御方がそのような言葉遣いを! 子供たちが真似をしたら悪い大人になってしまいますよ! もう……メェッ!」

 シスター様からお叱りをいただく間際、その首を絞めることにした。何だか動物の鳴き声みたいだったなぁ。

「ぁ……おっ! ……かっ! ……っ」

 左手に絵本を持っているから仕方ないが、こっちは右手のみで女の首を絞めることになった。

 女は両手で懸命に私の手をどけようとするが、加わる力は見た目通りの軟弱さで相手にならない。あまりに繊細な命だ。これでは本当に殺してしまうぞ。

 迫る死の予感を忌み、必死で生に縋る女の苦悶を愉しむ。

 すると、突如として視界が真っ赤に燃えた。血で塗装された地面など比べ物にならない業火に包まれていた。


「ヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒ!」


 窓の外だ。

 私たち神の傀儡が、狂い、乱れ、壊れていくその過程を……まるでお目当てのデザートにありつく幼児のように蕩けた嗤い貌でご堪能されている我らの神さまがそこにいらっしゃった。

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