モーニング・シスターズ Ⅱ
食堂に入ると、既にクウラさんが朝食の調理に取り掛かっており、男の子たちがテーブル拭きや水の用意を手伝っていた。
「皆さん、おはようございます。良い朝ですね」
「神父さま、オルカさん、おはよう!」
「おはようございます」
まず私から朝の挨拶をすると、男の子たちも昨日と変わらない調子で返してくれた。
私の後で扉を閉めたオルカさんは、子供たち相手でも丁寧に頭を下げて挨拶を交わした。
私たちは変わらない。しかし、彼女だけは明らかに様子が違った。
「あっ、お、おはようー……カイル君、オルカも。よ、良い朝ですぅ……かなー」
歯切れが悪い。クウラさん相手であればこちらも畏まった礼儀は要らなかったか。
司教の立場からして、子供たちの見ている場では示しをつけなければならないが、神父として親しまれるためにはもう少し緩い姿勢でも良いのだろうか。
悩むところだ。付き合い方をはっきりさせないまま新しい一日を始めてしまった私の些細なミスだった。
「クウラさん、構いません」
「そ、そうだったね。うん、でも、ちょっとね……」
包丁のように鱗が眩しい魚の首を、右手に持った包丁で切り落とすタイミングだった。首と尻尾を外してから提供してくれるのだろう。
それにしても、クウラさんは何だか言葉を詰まらせている。
この空気は昨日で慣れた。隠し事があるのだ。
「手伝いは要りますか?」
「ううん、私一人で大丈夫。他のもすぐ出来るから。それより……」
何を隠しているのか?
真っ直ぐ聞くのも気が引けるため遠慮したが、クウラさんが私の背後に控えるオルカさんにのみ目線を送ったのを確認して、客人にもそろそろ真実を教えてやる頃合いか、と相談するような意図があるのを察した。
「クウラさん、まさか……」
「うん。前の司教さんからまだ日も経ってないのにねぇ」
何も知らない私を置いて、全てを知るシスター同士が通じ合っている。
それはきっと、もう起きてしまったことなのだろう。
前司教が亡くなって、その後継者として私はここに来た。
そして、この場所で私たちと共に朝食を摂るべき者が足りていない。
「クウラさん」
故に私から問わねばならない。
このメヘルブに蔓延る幾多の謎。あるいは掟。それと向き合うために、自ら。
「あの子はどこですか?」
名前を問い、そのようなものは無いと当たり前に答えた女の子。悲劇の只中にいるかもしれない彼女に呼び名が無いなんてあんまりだと、事ここに至りようやく思い知らされる。
「あの子はメヘルブの掟を破っちゃったの。だからここにはいられないの」
「あの子はどこですか?」
「子供だからね、仕方ないよ。ついうっかりね。でも男の子たちはまだ影響を受けてないだろうし、まだ大丈夫かな」
「シスター・クウラ!」
流石にくどい。苛立って声を上げると、着席して朝食を待っている男の子たちが固まった。気まずいムードにしてしまった自覚はあるが、それ故にもう引き下がることはできない。
「カイル様……」
無回答のクウラさんに代わり、オルカさんが私の相手をする。
彼女の瞳は涙が零れるのを我慢して潤んでいた。お互いの目線が合わさった途端、とてつもない罪悪感に駆られた。
「あの子はもう遅いのです」
「遅い、とはどういう意味でしょうか?」
オルカさんは男の子たちに聞こえないよう私の傍に寄って小声で喋り始めた。全く回りくどい……辛うじて舌打ちを堪えた。
「クウラさんの言う通り、掟を破ってしまった者には主より罰が下されます。そして、その罰は決して拭うことのできない業として、その者の体に刻まれるのが定めです」
オルカさんは涙を堪えながらその場で祈りを捧げた。
あの子に向けたものなら良いが、それが突拍子もなく出てきた主とやらに向けられたものであるならば、その頬を引っ叩いて目蓋に溜めた水分を吹かせてやりたいところだ。
「だからそういうのはいいので真実を見せてくださいよ」
「勿論です。貴方様にはそれを知る権利がありますから」
苛立ちを隠せない私の態度をとっくに理解しているこの道化は、私と目を合わせるのが怖くなったようで俯き怯えている。
私はこの女性のことを良く思っているし、常に幸福であってほしいと願ったはずなのに、神への忠心が見て取れると途端に嫌な女に思えて仕方ない。
どうして人の心とはこんなにも一貫しておらず、複雑なのだろうか。彼女の幸福を望む私こそが、正に彼女を不幸へ貶めている。私では彼女の拠り所にはなれないのだろうか。
「あー、二人とも、ちょっと……」
戦線を離脱していたクウラさんが包丁を片手に私たちを見かねて口を挟んだ。既に四匹の頭と尻尾を分断しており、残るはあと一匹というところだった。
「あの子のことは後にしてさ、先に食べよ?」
「そんな悠長な……」
「いいんだよ、悠長で。焦ってもどうにもならないし。だからマイアさんも昨日のうちから説明しなかったんだからさ」
「それは……」
何だか気が抜けるが、その通りかもしれない。
私も昨日のうちから説明は明日で構わないとのんびり構えていたわけで、事が起きた今になってから取り乱すなど八つ当たりに等しい。
こうなってはもう、私の方から引くしかないようだ。
「分かりましたよ。では、朝食をいただいたらすぐに」
「うん、約束する。だからそんなに怒っちゃ駄目だよ」
母親に癇癪を宥められた子供のような私は、溜め息をついて昨日と同じ丸テーブルの椅子に腰を下ろした。
次いで、オルカさんも私の対面に座った。
……非常に気まずい。ウィンプルを外して膝に置いた彼女の顔を覗けない。
クウラさんが用意してくれた食事を一斉に食べ始める。何気ないこの行為を楽しいものと思い込み、豊かな時間を共有する。やることは同じだ。簡単なことだ。
違うのは、あの女の子だけがこの空間にいないということ。
「オルカさんは平気なのですか?」
何も知らない私は、何も知らないことを免罪符にオルカさんを何度も傷付けるのだった。
「主はきっと、私たちを正しくお導きになるはずです」
相手の目を見れないのはお互い様だが、オルカさんが今とても辛そうなことだけは揺れる声音で分かってしまう。
原因は昨日まで共に生活していた女の子の身に起きた『何か』によるものではなく、無知な私の、おそらく筋違いな圧力を受けても反論できない根底の優しさによるものであり、つまり全て私が悪いのだ。
「はーい、おまたせ。あ、きみ! 神父さんにお水入れてあげてー」
調理を終えたクウラさんが品々を皿に分けてからトレーに乗せると、一番最初に私のところに持ってきてくれた。
落ち着いた男の子がコップに水を注いでくれる様子を見て、シスターたちだけでなく子供たちにも気を遣わせてしまったのだと痛感した。昨日はトレーより先にコップが置かれていたからだ。
男の子たちの「いただきます」に続く。クウラさんは鍋を水につけてから遅れて着席した。
正方形テーブルに座る三人は何も構わず、各々食べたいものから順に口へ運んでいく。
「クウラさん、今日は何をするんですかー?」
「今日は教会の内と外を綺麗にしまーす」
「えー! 遊びに行く時間ないじゃん!」
クウラさんと男の子が食べながら談笑し、気を利かせてくれた男の子は無口ながらも煩わしいとは思わず、二人の会話を傾聴しているように見えた。
あれこそが食事風景の良い在り様だ。こちらのように皿とフォークが静かにぶつかり、配慮しているつもりの咀嚼音さえ聞こえてしまう緊迫した空気である必要はない。
「そうだねー、今日からはこれまで以上に時間が掛かるようになっちゃうしねー。マイアさんとヤエも手を貸してくれるといいんだけど」
「ヤエはともかくマイアは一回も掃除手伝ってくれたことないじゃん!」
「あははー! 本当だ! こりゃ私も楽できなさそうだぞー……」
私もあのようにオルカさんと愉快なコミュニケーションを取れたらいいのになぁ。
オルカさんとの会話は、穏便に済む代わりに私が内心で悪く考えてしまう場合と、先程のように衝突してしまう場合とがあり、必ず余計な負債を負う結果となる。
彼女の美貌に惚れ込んでいるうちはまだセーフだろうが、この先もこのように噛み合わないままの関係が続いていくようなら、きっと私たちはこうして同じテーブルを共有することもできなくなるだろう。
それは、娯楽を持たない私により退屈な日々の到来を意味するバッドエンドに他ならず、そうなったら私は彼女を……どうするのだろう?
嗚呼……早く真実を見せてくれ。一晩も雑にやり過ごされた分のツケを早急に払ってもらわないとストレスが溜まる一方じゃないか。
目を細めて覗う私に気付かぬまま、食事に没頭する羊のオルカさん。
まつ毛が長い。頬も、唇も、たるみなく潤っている。初見から惹かれた銀色の長髪は芸術的なまでに一本一本が曲がることなく真っ直ぐ垂れている。
へぇ、物を口に含む際に目を閉じる癖があるんだ。
食事と片付けを終えると、先程までこの空間を共有していた他の四人全員が掃除用具を持って出て行ってしまった。
それでも私は一人にはならなかった。オルカさんとクウラさんの両シスターに代わって、赤髪のシスターが案内役として食堂にやってきたからだ。
「オルカに優しくご案内されたかったか? それともクウラの方が好きになったか? まあ、短期間とはいえあいつらにやられちまうのも無理ねぇよ。あいつら、ファン多いし」
このように朝から絶好調のマイアさま。
シスターたちからは何故か慕われているようだが、男の子からサボり魔呼ばわりされると怒って彼の首を絞めに掛かるものだから、やはり駄目なタイプの聖職者で確定らしい。
「なぜ貴女が来たのか当ててみせましょう」
「うん?」
「掃除より案内の方が疲れない。あるいは掃除が嫌いだから。そんなところでしょう?」
「正解! よく分かってんじゃん……って、あのガキが言いふらしたのか?」
溜め息で肯定した。そのような話を耳にしただけです、と答えたところで何の報酬もなく、仮に何か貰ったとしても結局こいつが全部かっさらいそうなので無視して先の話をしよう。
「聞きましたよ。あの女の子に天罰が下ったとか」
「ああ、そうだ。早速見に行こうぜ」
「え? 彼女は寝室にいるのでしょう?」
「は? いるわけねぇだろ。というか、居させられない。うちの連中は慣れたもんだろうが、ガキ共が見たら神を否定しかねないからな」
神を否定する?
それは確かに我々からしたら異端扱いとなる悪事だが、神なんて本当はいないのではないかと幼心に思うのは仕方がないことではないか。
私こそ本心でそのようなものはどこにも存在しないと断定しているのだから。
「ただまあ、いきなりアレを見るよりか、先に臭いを嗅いでおいた方が賢明かもなぁ。ほら、入れよ。クセになるなよ?」
マイアが女の子の寝室を開けると、私は彼女にキャソックを引っ張られて無理やりそこに押し込められる。抗う必要もないので身を委ねてみると、その異変にすぐ気付かされた。
本当に部屋には誰もいなかった。
部屋には二段ベッドが四つ。つまり八つのベッドがあるわけだが、そのどれにもシーツや布団が備えられていない。せめてあの子の分くらいはあって当然のはずだが、ここにはまるで昨日から人が使っていた痕跡がないのだ。
そして、それ以上の違和感。マイアも言っていた臭いだ。
これは酷い。長く嗅いではいられない。嗅ぎ続けたら発狂してしまいそうな腐臭が漂っている。
実際に体験することなど普通に生きていればあり得ないが、まるで大きく育った害虫の死骸が臓器を散乱させたまま部屋中にぎっしり敷き詰められているような、そんな光景が想像できてしまい吐きそうになる。
「窓が開けてある。換気中か。クウラは流石だなぁ。午前中に内部を掃除させて、午後の外掃除が始まる前に閉めればバレることはないもんな」
マイアは至って余裕だ。彼女たちにとって、そしておそらくメヘルブの人々にとっても、この異変は珍しいことではないのか。
何も知らないのは、私と、大人たちによって真実を隠蔽されている哀れな子供たちだけ。
「あの子はどこですか?」
「ああ、行こう。まだ生きてるよ」
クウラさんには濁された女の子の居場所を問うてみると、マイアはあっさり応じてくれた。
見た通りもう何もない寝室の扉を閉め、そのまま長く居座った食堂を離れて聖堂に出る。
あの女の子は今、どこで何をしているのですか?
聖堂には数十人の参拝客が来ていたので、向こうがこちらに気付いたタイミングで軽く頭を下げた。私に気付かず熱心に祈りを捧げている者もいる。
広間の後方では、オルカさんが箒で床を掃き、男の子たちが会衆席を雑巾で磨いていた。
クウラさんの姿は見当たらない。別の場所を担当しているのだろうか?
老婆の信徒と何気ない世間話をしていると、女の子が見当たらないがどこか、と聞かれて困ってしまった。
私に代わってマイアが「今晩かもしれない」と、よく分からない返答をした。私には理解できなかったが、老婆にはそれだけで全て伝わったらしく、より熱心に祈祷に励んだ。
私たちが向かうのは最後の扉。
入口から見て左手前が告解室。左奥が私の部屋。右手前が食堂兼子供たちの生活空間。
そして、残された右奥の部屋こそが……!
「おーい、カイルくーん!」
女の子が待つ場所へ繋がっているようで、先程の異臭を思い出して動悸が速くなる。……そんな私の名を呼ぶ女性の声がした。場違いな大ボリュームで。
神聖な場所に相応しくない大声の主は、もちろん彼女だった。
「カイル君、ちょっといい? ごめんマイアさん、カイル君借ります!」
こちらへ駆けてきたクウラさんは、慌てた様子というより、良いタイミングで私を見つけたことを嬉々としている感じだった。
陰鬱に悩むばかりのこれまでにはなかった、何気ない平穏な日常の一幕のように思えて心地良かった。
「何だよクウラ。これからDV神父に現実を見せてやるところなのに」
「DV……ってどういう意味? じゃなくて、カイル君! 昨日着た服とかシーツとか毛布とか持ってきて! 丁度みんなのも干してるところだから、一緒にやっちゃう!」
クウラさんが聖堂にいなかったのは、教会の外で洗濯・乾燥に注力していたからだった。確かに彼女からすれば、私が物騒な気配のする右奥の部屋に入る直前だったのは都合が良かったのだろう。
しかし、クウラさんには悪いが、今の私の最優先は……。
「すみません、クウラさん。洗濯は有り難いのですが、今は――」
「別に構わないぞ。こっちの用事はすぐに済むことだしな。洗い物は寝室の窓から外に移ったクウラに放ればいいだけだ」
助けを求めてマイアに目線を送ったのだが、今回はそうも行かなかった。
女の子は逃げも隠れもしない。だから、効率良くみんなの洗い物をまとめて片付ける方を優先すべきだと、二人はそう考えているらしい。
「やれ、急いでも仕方ない、ですか?」
「そうだ。もう手遅れだしな」
「そうそう! じゃあ私、外で待つから!」
クウラさんは聖堂でもお構いなしの疾走で大扉を越えていった。
その無遠慮を目の当たりにする皆も彼女に対して何か不満がある様子は見受けられないので、彼女を取り巻く日常はこうして成り立っているのだと新たに発見した。
揺れる彼女の結び髪が去る最後の瞬間まで見届けていた男性が数名。例のファンたちか。
彼らの気持ちも分からなくはない。クウラさんといると純粋に楽しく、決まってその場が賑やかになるのだから好意を抱くのも当然と言える。
無論、オルカさんの魅力も彼女に引けを取らないが、そのようなことを言葉で表しては、この不法者に弄られるのが目に見えているため止めておこう。
「あいつ、マナー悪いよなぁ」
「窓を行き来しなくて安心しましたよ」
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