2日目

モーニング・シスターズ Ⅰ

 新しい朝を始めるために漆黒の空から陽が昇り始めている。寝室の窓から街の様子までは見えないが、きっと皆はまだ夢の中にいるのだろう。

 しかし、司教の私は誰よりも早く活動を開始して朝の祈りに備えなければならない。

 朝・昼・夕の鐘の音に従い、メヘルブに住まう全人類が主へ祈りを捧げる。

 時計のないこの街ではその鐘の音を基準に時間を判別し、それを目安に行動を決める。ちなみに、三六五日を一年と定める日付の概念が存在することから、それぞれ自分が何歳で、誕生日がいつかも一応は把握しているらしい。

 寝室を出てリビングへ。

 喉が渇いたので、おもむろに例の紅茶をカップに入れて飲む。

 一晩置いてもなお美味い。それだけ優れた品だからか、寝室より大きいリビングの窓から見える夜明けの空が味を引き立てているのか。

 昨晩などは恐怖から逃れるため急ぎ毛布に包まる始末だったというのに、今ではこうして優雅に朝を迎えられているのだから、全く私の心は軽くて転がりやすい。

 もうずっとそんな自虐を繰り返している。

「そうだ」

 明日になれば分かると諦めて放置した問題が多々ある。数々の怪奇現象や、この紅茶の作り手にしてもそうだが、まず先に対処すべきことがあった。

「体を洗わないと」

 就寝前に洗うつもりだったが叶わず、そのまま朝までベッドで過ごした体は、ベタベタしていて心地が悪い。快眠とはいえ多く汗をかいたようだ。早くこの不快感を洗い流したい。

 飲み切ったカップを丸テーブルに戻し、箪笥から新しいクラジーマンとズボンを取り出して浴室の扉を開いた。

 必ずしも就寝前に体を洗う決まりはない。日の出を眺めながらモーニングティーをいただき、その後で体を清潔にする方が一日の始め方としては上質だろう。濡れが残る体を乾かしながらティータイムを再開する楽しみも待っているのだし。

 そのような贅沢を考えながら、まずは脱衣所で裸になり、洗い場に入る。

 しかし、狭い空間で無防備な格好になった途端、不意にこの世がとても怖ろしく思えてしまい、マイアのあの不気味な笑い声が聞こえてくるような錯覚に陥るものだから慌ててシャワーの蛇口を捻った。

 勢い良く脳天を刺すシャワーの音が例のヒヒヒ声を潰してくれる。

 水流は熱湯になるまでしばらく時間を要するらしくまだ冷たい。私の体は酷い風邪でも患ったかのように激しく震える始末。

 それでも、この方が安心できた。

 視界に何かを映すのが怖い。目蓋を開いた時か、あるいは背後を窺った次の瞬間にもあの赤い怪物がそこに立っているのではないか、と悪い想像を止められない。

 私は備え付けの石鹸を握り、碌に泡立てることもせずそのまま全身を擦ると、熱湯が出てくるより先にその僅かな泡を洗い流して試練を脱した。

 リビングに戻る。下は履いたが上は裸。理想通りの格好だ。

 私はそれこそ己が主に縋るかのような必死さでポットの中身をカップに移すと、強引にそれを口の奥に流し込んだ。今の私にとって、この紅茶こそが心の拠り所なのだ。

「はぁっ!」

 酒のように品性なく、品性ある紅茶を大胆に飲み干すと気が紛れた。少なくとも先程までの全身の震えは治まっている。……マイアの恐怖は脳裏にこびり付いたままだが。

 雑だったが、とにかく体を洗う作業は済んだ。

 私は新しいクラジーマンの上にストラを掛けたままのキャソックを重ねた。着終わったものはどこで洗濯するのか分からないため、一先ずここに置いておこう。

 そろそろ教会の大扉を開けに行こうか。まだ早過ぎる時間帯かもしれないが、中に私とクウラさんがいるのだから問題はないはず。

 夜間は用心として閉めているが、本来は時間を定めず自由に祈りを捧げられるようになっているのが、主と信徒の関係としては自然な形だ。主は私たちをいつ何時でも歓迎してくれるはずだから。


 眩い朝日がステンドグラスの光度を高める。カラフルな輝きが伸びて聖堂はより幻想的な空間となっていた。

 神秘に等しいこの芸術を独り占めできるのならば、司教の役も早起きも悪くない。

 一変して満ち足りた気分のまま教会の錠を解いた。

 まだ誰もいないだろうし、羊頭人の石像が目に映るのは嫌だ。

 しかし、この時間、ここから見える景色はどのようなものか、という客人目線の好奇心が忌避より先を行ってしまった。

 そして、すぐにそうして良かったと思える結果になった。

「オルカさん」

 マイアが昼寝に使っていた石像、今朝はオルカさんがそれに背中を預けていた。

 シスターの瞳は遠くの空を見つめており、そこから消えて居なくなってしまいそうな切なさを醸し出しているように思えた。確か昨夜も似たような感想を抱いたか。

「あら、カイル様。おはようございます」

 少し時間を置いて振り向いてくれた。

 ウィンプルを被っていてもなお覗ける柔らかな銀髪は今日も健在。昨夜は不穏なまま別れてしまったが、向こうはあまり気にしていないようで安心した。

「おはようございます。早起きなのですね」

「フフ、カイル様こそ。よくお休みになられましたか?」

「え、ええ。お陰様で」

 そう、昨夜だ。

 オルカさんとここで別れた後、私を襲ったあの恐怖体験をつい先程まで引きずっていたわけだが、一応、よくお休みになられたのは間違いないので嘘にはならない。

「それにしても、もうこちらに来られていたとは。朝の鐘もまだ鳴っていないはずですが」

「はい。その日最初の祈りは聖堂でと、そう決めているのです」

 私はこの街の誰よりも早く起きた気になっていたが、もしかしたら彼女の方がより早く活動を始めていたのかもしれない。彼女の敬虔さは疑う余地もない聖職者の鑑であり、私のように肩書きだけの男とは比較にもならないのだから。

「それは素晴らしい。同時に反省してしまいます。本来であれば私が貴女に慕われる振る舞いをすべきだというのに、昨夜は貴女にも我らが主にも非礼を……」

「い、いえ! 私の方こそあのように取り乱す真似をして、本当に……」

 ごめんなさい、とオルカさんが口にする寸前で掌を見せて制した。

 向こうは気にしていなかっただろうに、わざわざそれを蒸し返してしまうのだから、結局引きずっているのは私だけなのだ。

「オルカさん、入りましょう」

「はい」

 これ以上はもういいだろう。探り合いなどするより、お互いにとって善い一日になるよう願う方がよっぽど有意義だ。

 その意図が伝わってくれたのか、あるいは私の慌ただしい心情が読めたのか、その時のオルカさんは少し悪戯めいた笑みを浮かべていた。

 オルカさんを聖堂に招き入れるタイミングで、羊頭人の石像たちと、その向こう、噴水広場に集まっている数人がこちらへ向けて祈祷や会釈を行っているのが見えた。

 オルカさんに祈祷のルーティンがあるように、彼らにはあの場所で最初の祈りを済ませるこだわりがあるのだろう。

 皆に会釈を返してから教会の扉を閉めた。メヘルブの長い一日が幕を開けようとしている。


 朝の祈祷が終わった後、食堂で朝食をいただきます。

 今日はまず教会の内と外の案内をしますね。

 告解室は、どうしましょうか……。街の案内もしないといけませんね……。子供たちが三人しかいない理由は……。

 鐘の音を待つまでの時間、最前列の長椅子に共に座り、今日これからの予定を確認した。

 すると、やはりオルカさんの表情が段々と曇っていくので、「時間がある時にでもパイプオルガンの演奏を見せてほしい」と急ぎ話題を変えてみたら「勿論、喜んで」と笑顔で快諾してくれた。

 教会内のことだけじゃない。メヘルブ全体のこと。そして、私自身のこと。

 はっきりさせたいことは山ほど溜まっているが、それらの事柄よりオルカさんと共に過ごす時間を平穏に保つことが先決に思えてならないのが私の本音だ。

 おそらく、真実に触れて靄を晴らすことと、それで私が幸せになれるかどうかが全くの別問題だということを承知しているからだろう。

 知らない方が良かった。……そんな結果になるくらいなら、好感が持てる女性との静寂に浸かる方がよっぽど幸福に決まっている。

 しかし、マイアと違い、オルカさんと一緒だと何だか難しく考えてしまう。

 私も含めて彼女の温かさに救われている者は多くいるはずだが、どうにも私と彼女はこの街に存在する掟のようなものが邪魔をするせいで心から分かり合うことが叶わないように思えて寂しい。

 同じ長椅子で肩を並べているのに、肝心なものが、それこそ人間と大いなる者のように寄り添い合えていない気がしてならない。

 そのように、勝手にオルカさんとの距離を感じて落ち込む私にさえ平等にその時を伝えるため、銅たちが衝突した。


 カーン、カーン、カーン。

 

 天上の鐘が鳴り響く。

 祈りを捧げよう。新しい日を迎えられたことに感謝を。

 そして、今日も善き一日になりますようにと『願い』を込めて。

 

 ――架空の存在を自由に信じて、平和を寄越せと勝手に要求するのです。

 

 ここに来て初めて皆と同じように祈祷なる行為を試みたが、やはりこれに意味を見出すことなどできそうになく、組んだ両手の指もすぐ解きそうになった。

 しかし、隣にはその無意味な行為に没頭しているシスターがいるため、不服ながらも祈祷に戻らざるを得なかった。

 初めて彼女の祈りを目の当たりにした際も、今も、主への敬意を全霊で体現するその姿形はやはり麗しい。

 それなのに、その祈りが貴女の人生に善い効果を与えることなどない前提があると、誠意の証明など滑稽かつ不憫でならない。

 貴女の祈りは私たちを感心させるものではあるが、貴女の信じる大いなる存在には決して届かない。

 何故なら我々が主として崇める存在は決して我々の前に姿を現すことはなく、それを生活の中に感じているなどと、根拠のないことをでっち上げてきた過去の同族たちの虚言に、今を生きる私たちが何となく便乗しているに過ぎないのだから。

 そのように考える私は正に聖職者の面を被った異端であり、オルカさんにとっては許せぬ悪者そのものなのだろうか……。

 私の本心がこうとは知らず、彼女は鐘の音が止んだ後も暫し祈祷を続けてから、私に向けていつもの微笑みをくれた。

 それがあらゆる意味で、とても痛ましかった。

 先に立ち上がったオルカさんは、座したままの私を見て不思議そうに首を傾げた後でサラッと手を差し伸べてくれた。

 その手を取った際の私は、貴女に対して上手く笑えていただろうか。

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