砕ける夜 Ⅱ
祈祷を終えたオルカさんは、大声を上げたことを謝罪して教会を出た。
去り際の表情は切羽詰まった様子で、私が望む麗しの笑顔とは反対のものとなっていた。
「カイル様、どうか今宵はもうお部屋で休まれてください。それと、先程のようなことは決して……」
「ええ、あれは司教としてもよくありませんでした。以後は弁えますとも」
「いえ、そのような立場の問題ではなく……とにかくお気をつけください」
オルカさんはまだ納得していないようだが、いよいよ私に呆れてしまったのか、一礼して教会を去っていった。その平伏の姿勢が私に向けたものなのか、主へ向けたものかは分からなかった。
それほど私の発言が気になるのなら、具体的に何が悪いのかを説明すればいいだろうに。小さくなっていくシスターの背中を見て思わず……。
「面倒な女だな」
不意にそんな言葉を零した。
「……え?」
自分の口から吐いたものとは思えないオルカさんへの失言。これはいけないと思い、片手で口元を覆った。
神への侮蔑より、彼女への侮蔑の方があってはならないことだからだ。
「何だか謝ってばかりだ。お互いに」
昼間の聖堂で初めて顔を合わせて以降、私はずっとオルカさんのことを気にしている。男女の深い関係にはなれないが、少なからず彼女の魅力に惹かれているのは事実だ。二人だけの時間を共有できたのは若い心を焦らされるものだった。
それなのに、オルカさんとの会話はどれも上辺だけのように思えて虚しい。彼女は常に本音で私の相手をしてくれているだろうに、コミュニケーションが成立した手応えを得られない。
冗談でも神を疑ってはならない。
私の立場からすれば当然のことだが、その失態によりオルカさんがあれ程まで取り乱してしまうのは、果たして当然の反応なのだろうか?
オルカさんも等しく吸い込まれるように通過した石像の道。羊頭人たちは闇夜の中でより不気味さを増している。
ふと、その先にある噴水の音も聞こえなくなるほどの酷い頭痛に苛まれた。
こいつらはどうしても合わない。いずれ慣れるとも思えない。これから街に向かい、教会に帰るたびにあの道を通らなければならないのか、と考えるだけで気が狂いそうになる。マイアにこんな弱みを知られた日には軟弱にも程があると弄られそうだ。
いや、むしろ気にかけてくれるのか。あの女性は。
羊頭人たちから逃げるように早足で聖堂内に戻り、教会の扉を閉ざした。
クウラさんに就寝前の挨拶を、と思い食堂の扉をノックしたのだが、返事はなかった。
彼女も仮眠を取っているのか。そういえば女の子が絵本を読んでほしいと言っていたから、今は寝室にいるのかもしれない。
返事がないだけで、別に詮索は必要ないだろう。
聖堂を後にして自室へ。
オルカさんと違って今日最後の祈祷などはせず、内陣に置かれた聖なる置物たちにさえ何の関心も示さぬまま素通りすると……。
私の部屋から赤い眼を煌めかせる女性が出てきた。
外に漏れ出たばかりの瑞々しい血のような赤色。その眼の輝きは自然も化学も遠く及ばない超越的な造物に思えて、こちらからは目を離すことさえ叶わないほどの支配力があった。
端的に言って羊頭人の石像が不快に感じるものならば、この赤い瞳はより直接的に私を不幸に貶めるシンプルな脅威の具現だ。
「……マイア?」
怖い。
態度は最悪だが、根は本物のシスター。頼りになる人。怖い。
ワインを寄越せと窓から侵入してきた。怖い。はしたないけど親しみやすい良き隣人。怖い。怖い。
この一日目において最も心を許し、オルカさん以上に分かり合えているような気になれた女性。 怖過ぎる。
「ヒヒヒヒ……ヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒ」
そんな彼女が不気味な笑い声と共にこっちへ向かってくる。
嫌だ。来ないでくれ。笑わないでくれ。
笑うなら、これまで私を弄って愉快そうにしていた時のものがいい。
そんな、そんな気持ちの悪い笑い方はやめてほしい。もっと人らしくあってほしい。
間違ってもそんな……。
「ヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒ」
手を、脚を、羽をもがれて痙攣する弱虫を観察して悦に浸るような、そんな下郎の尊顔を私に向けるな!
パン! 渇いた音が聖堂に鳴る。
それほど大きな音でもない。オルカさんが私を注意した際の声量はこれ以上だったと思い返し、彼女のように慎ましいシスターは日頃そう声を張る機会もないのかなとぼんやり考えると、私を脅かす恐怖はもう去ったのだと遅く理解した。
「……ごめんなさい」
マイアは何も言わない。いくら普段の言動があのように暴力的とはいえ、乱暴を受けることに慣れた女性のはずはない。赤く腫れた頬だけでなく、心まで踏み躙ってしまっただろうか。
私はシスター・マイアの頬を思い切り叩いた。
聖職者が、ましてや聖域にて誰かに手をあげるなど絶対に許されない所業である。並の聖職者が並の環境でこのような暴行に及んだのなら、今すぐ跪き、己が主に懺悔するところだろう。
しかし、そのようなことよりも優先すべき事柄がある。
マイアの瞳は元の焦げ茶色に戻っているが、先程の狂気は一体何だったのか。
気味の悪い笑い声と壊れた形相が頭から離れず残像として脳裏にこびり付いている。マイアの顔を見るのが、怖い。
「マイア、今のは……」
「うん? まあ、酔っ払っただけかな」
「そんな馬鹿な……」
「気にすんなよ。私もお前にぶたれたの気にしないからさ」
「いや気にするわ! あの赤い眼! あの笑い方はどういうことですか! とてもシスターやってる者の様相ではありませんでしたよ!」
「うるせぇなぁ。せっかくの静かな夜に騒ぐなよ調教神父。こんなもんで喚いてたらこの先やってらんねぇぞ」
「なっ」
気にしていないと言いながら、やはり叩かれたことを気にしている彼女に対してこれ以上強く押すことはできない。
それに今は調教神父などというめちゃくちゃなあだ名がメヘルブ中に広まってしまうことの方が怖ろしく思えてならない。
「安心しろ。ビンタの件は黙秘しといてやる。正当防衛ってやつだしな。んで、眼と笑いの方は……」
結局教えてくれるのか。酔いが残っているのかは分からないが、親切さは健在らしい。当然のようにこちらの心を読むのは勘弁してほしいが……。
「今は話さなくてもいいだろ。ここで説明するよりもその方が理解しやすいだろうし、何せ――」
――明日になったら嫌でも思い知ることになる。もう確定してるからな。
マイアは私の耳元でそう呟いた。
先程のこともあるためマイアの顔が近付くとつい身構えてしまうが、それ以上彼女からは何もなく、こちらの心を弄ぶように意地悪な笑みを浮かべて去っていった。
ただ、教会の扉は黒鉄の錠で堅く閉ざされているため、マイアにそこを通過する術はない。扉の前に立ってようやくそれに気が付いたようだ。
「おーい、これ開けてくれー」
溜め息を吐いて、今度は私の方から彼女へ歩み寄った。
部屋に戻った途端に疲労の蓄積を痛感した。教会を閉めるだけのはずが、思いのほか時間を使った。
謎がまた増えてしまった。
オルカさんの信仰心。これは聖職者の鑑といえばそれまでなのだが、私には何だか過剰なレベルに思えて気になる。
クウラさん。食堂の扉をノックしても返事がなかったが、これは間が悪かっただけだろう。特別気にする必要はない……はず。
一番の疑問はマイアだ。今でもあの変貌をはっきりと覚えている。
この世のものとは思えない鮮血の赤い瞳と、それこそ人外のような不気味な笑い声。思えばあれは、マイアの地声だっただろうか?
いくら疲れていても、脳裏にあれが残留し続けるようでは碌に眠れる気がしない。明日になれば分かるというシスターの導きに従って、今日という日を早々に終わらせたいものだが、これは長い戦いになりそうだ。
情けないことに、マイアのせいで浴室で無防備な格好になるのも怖ろしくなってしまい、リビングで立ち尽くしている有り様だ。
いっそこのまま陽が昇るまで待っていようかな……。無知のまま考えるよりもその方が今の私に適している。
これまでを振り返ると、私はメヘルブの地に足を踏み入れて以降……いや、もしかしたらそれより前の段階からずっと得体の知れない何かに翻弄されているような気がしてならない。
これまでの不可解な現象の数々は、不思議だとか不気味だといった程度で左程取り乱すほどのものではなかったからまだマシに思える。
しかし、あれは駄目だ。あれはいけない。このままでは目を覚ましている間、私はずっとあれに怯えることになってしまう。明日、どのような事情を知ったとしても、あれだけは受け入れられる気がしない。
人智を越えたものを許容することなど私にはできない。
ならば寝てしまおう。寝てる間はあの恐怖から確実に逃れることができる。体を洗うのは明日の朝でもいい。何だ、簡単な話じゃないか!
私はそのような発想により途端に気を楽にすると、棒立ちのまま硬直していたのが嘘のように軽快な足取りで寝室へ向かった。
私の思考がマイアの恐怖から解放されたことにより、ようやくその異変を認識することができたのだ。
「あれ? 無い……」
部屋に戻った時点で気付くことだろうに、私はずっとそれを見落としていたのか。
テーブルの上に並べたワインレッドが全て無くなっている。中身だけでなく、ボトルそのものが消えて無くなっているのだ。
部屋を見渡したところでどこにも転がっておらず、誰が用意したのか不明な紅茶セットだけが手を付けた様子もなく残されているのが切ない。
「まさか、また……」
おかしい。仮にマイアが全て飲み干したとしても、何故ボトルまで消えるのか。
帰り際の彼女が手ぶらだったことから、メヘルブご自慢のあり得ない現象が私の部屋でも発生してしまったのだと違和感に駆られた。
「ま、明日でいいですね!」
しかし、いよいよまともに悩むのも飽きてしまい、私は構わず安らぎの待つ寝室のハンドルに触れた。
一人で考えたところで答えなんて出るはずがないのだし、明日になれば嫌でも分からせられるのでしょうから。焦らない、焦らない。
――ここまでの私はあまりにも無知で、奔放で、救いがない低俗の役者に映っているはずです。いかがでしょう?
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