砕ける夜 Ⅰ
クウラさんがワインボトルを六本も抱えて戻ってきた。それほど沢山はいただけないと遠慮したのだが、「記念に」という父君からの伝言に弱り、結局全て私の自室へ置くことになった。
酒を愛するクウラさんも今宵は子供たちを見るからと遠慮するので、食後のお口直しとしてみんなと分けるつもりだった紅茶を勧めたのだが、喉が渇いていないと断られてしまった。
キッチンの引き出しには存在感のある大鍋が入っていた。その裏に隠すよう置かれていたウイスキーのボトルは一体何なのだろう……。
「紅茶の作り手は分からず終いですか」
クウラさんと別れて自室に戻った私は、リビングの椅子に腰掛け、丸テーブルに密集するワインレッドたちと、それらを相手に孤独の戦いを強いられた紅茶のコントラストを楽しむ。
酒を飲みたい気分だったので、私の手にはもちろん開栓したボトルが握られている。
メヘルブでの一日目が終わろうとしている。
とはいえ、私が今日のうちにやった司教らしい務めなど何もない。周りに迷惑を掛けてばかり、分からないことだらけで散々な一日だった。
大きく溜め息を吐いて、ボトルから流れるアルコールを一気に摂取した。
「これはイケる!」
ワインは葡萄の味が強く引き立てられており、ウイスキーと比べてかなり飲みやすい。
何本も続けて手を伸ばしてしまいそうだが、一人で座したままの飲酒など味気ないと感じ、おもむろに立ち上がった。
想定外に長くなった昼寝から目を覚ました時、斜陽に焼き尽くされるような錯覚を味わったが、この時間は見事な月光と、それにより際立つ自然の景観に癒される。
あまりにも美しい光景がそこにあるため、窓越しにこれを見ているようでは勿体ないと思い、早々に間の隔たりを外した。
夜風が優しく私の肌に触れ、寂れた心にさえ清風を届かせてくれているように感じた。
何者でもない私と、何もなかった部屋。
それを虚しいと捉えるのではなく、あるがまま、それも善しとすべし。窓の先に映る世界がそのように告げておられるような気がして、多幸に満たされ……。
「なに耽ってんだよ。年寄りか」
「うわぁ!」
窓の外……というより、その真下から赤いシスターの声がした。
相変わらず暴言を飛ばしてくるなぁ……なんて悠然に躱すこともできず、驚きのあまり間抜けな反応をしてしまった。ボトルの中身が大きく跳ねて僅かばかり床に零れた。
「ハハハ! 情けない声!」
「シスター・マイア……いつからそこに? いえ、何故そこに?」
マイアは腹を抱えて笑ったまま立ち上がると、瞳と同じ焦げ茶色のロングブーツより奥の生肌が露出するのも構わず、窓枠を跨いでこちらへ侵入してきた。
「街の酒場を出た後、家に帰る途中でクウラを見かけてな。両手いっぱいにワインを持っていたから、お前か祭壇のどっちかにやるもんだと思ったんだよ。見事に的中した」
「何が的中ですか。アルコール依存症ならここよりまず診療所へ行きなさい。修道服で大胆な行動をされては神聖な教会が汚れます」
……私もキャソックを着たまま一杯やっていたため強気にはなれないが、司教のプライベート空間に窓から不審者がやってきた事実だけでもこの言い争いに勝てる気になっていた。
「うるせぇなぁ。いいよ、理屈なんて。ここには私とお前しかいないんだし、出入りも見られないようにすりゃあいいんだから」
「こんな夜更けに聖職者の男女が酒を酌み交わすわけにはいきませんよ。隠し事はいずれバレます。私がバラします。妙な噂になってからでは遅いのです。あと何で入口から堂々と来なかったのか答えなさいよ」
マイアは私の説教を碌に聞かず、勝手にワインの栓を開けた。
大義名分はこちらにアリ。上手くいけば、このすっとぼけシスターの蛮行を世に訴えてメヘルブから追放させることも可能かもしれない。
……あれ? でもこれ、目撃者がいないと私がこいつを部屋に招いたって疑われないか?
「何故って、仕方ないだろ? この時間、教会の扉には内側から鍵が掛かる。クウラが戻ってから閉めたんだろ?」
「扉の……鍵?」
思いもよらぬ不意打ちに私の正論はあっけなく何処かへ葬り去られた。
それは、教会内で夜を過ごす者に与えられた大切な業務で、つまりは私の見落としに他ならなかった。
「まさか開けっ放しか? まあ、別に教会を荒らすような輩はいないし、いたら死刑確定だし、それほど気にすることでもないけどな。お前も教会の仕事が長いなら分かることだろ?」
「そうですか……。いえ、忘れていました……」
「へぇ、見栄張らないんだ。さすが司教さま、もとい神父さま。神の腸で嘘は吐けないか」
マイアは私の失態をワインと合わせて愉しんでいるご様子。相当の酒豪のようで、もう中身が半分以下に減っている。
「ぷはっ! うん、嫌いじゃないよ、そういうところ」
「何を仰る。昼からずっとこのようにミスしてばかりです。せめて一つくらいは今日のうちに挽回しておきたいので、鍵の在り処を教えてもらえますか?」
「鍵なら箪笥の一番上の段だ」
彼女の言う通りに引き出しの取っ手を引いた。
すると、ジャラジャラとうるさい音を鳴らして幾つも鍵が出てきた。衣類を仕舞うのが主な用途の箪笥には余りある量だ。
別の扉に使う鍵もここにまとめられているようだが、部屋を暗くしたままだからよく見えない。その中でも異彩を放つ黒鉄の大きな鍵が目に留まったので、それを取って見せると、マイアは空になったボトルを咥えたまま頷いた。これが教会の入口の鍵だ。
「ところで、鍵を閉めるのは我々の誰でも良いのですか?」
「いや、一番偉い奴がやることになってる。決まりでね」
「では、昨日までは貴女が?」
「そうだね」
「……あらかじめ説明しておいてください」
「そうだね。いや、仕方ないだろ。お前全然起きてこないんだから。おかげでこの街のこと全く説明できなかったじゃねぇか」
それを言われてしまうと弱い。仮眠を取るにしても、いざとなったら叩き起こしてください、と頼んでおくべきだっただろうか。オルカさんだけでなく、マイアにも多大な迷惑を掛けていたことを今更知った。
「それは全くその通りですね……。ところで、村ではなく街なのですよね?」
「そうだよ。それも先人たちの、ね」
「決まり、ですか。なるほど……。マイア、よろしければ鍵を閉めた後、改めてお話をさせていただけませんか? 疑問が溜まりに溜まって破裂しそうなのです」
「えっ、これからか? 今はなぁ……」
「また……」
オルカさんとクウラさんが私の問いに対して見せた、あの鈍い反応と同じものだ。つい呆れて溜め息が漏れてしまった。
マイアでもそのようになるのか。まるで私に何かを知られないよう皆が裏で結託しているようにも思えて気分が悪い。いい加減うんざりだ。
「あの、皆さん私に何か隠していませんか? 秘密くらい誰にでもあるでしょうけど、司教をやっていくために必要な情報くらいは教えてもらわないと」
「はぁ? 元はといえばお前が……いや、仕方ないか。お前はそうだもんな」
「マイア?」
今のは何か、私自身が知らない、私の肝心な部分を知っているような含みがあるように感じた。
「とにかく、細かいことは明日でいいだろう。告解室を閉じてる以上、街の連中も私たちの時間を食うことはないだろうし、愛しのオルカ様に手取り足取り教えてもらえばいい。ほら、さっさと行けよ不届き者」
「だ……誰が愛しの! こら、押すんじゃない!」
軽い腕力に押されて部屋を追い出される形となった。
私がオルカさんを僅かながら意識していることがバレていたとは……。
マイアの勘は畏怖すべき鋭さらしい。大雑把なようで周りがよく見えているのは知っていたが、私にとって都合の悪い使われ方をされては厄介な事この上ない。
少なくとも、今日のところは彼女に一撃も見舞うこと叶わず完敗を喫したわけなのだから。
聖堂は既に消灯済み。それを承知で懐中電灯を置いてきた。天窓から射す月明かりと、その恩恵を受けるステンドグラスの色彩で視界を確保できるのを昼間の所感で分かっていたからだ。
夜の聖堂に革靴の足音だけが響く。昼も夕も当たり前に静かな場所だが、夜はまた特殊な静けさがある。
まるで、ここには誰も存在していないように思えてくる。私自身も。
そして、彼女すらも。
入口を目指して進むつもりだったが、それ以上に優先すべきことができた。内陣から入口へ伸びるレッドカーペットをまだ踏まず、会衆席の最前列、説教台の前で立ち止まった。
彼女の定位置だ。
「オルカさん」
「はい、カイル様」
彼女の方は扉が開く音や革靴の音でこちらの登場に気付いていたはずだが、私の方は天然と人智の灯りがなければ、それらに包まれ、静かに祈りを捧げている彼女を見逃していたかもしれない。
流石の自然さだが、今回は天然が私に味方をしてくれた。
「顔色が良くなったように見えます」
「ご心配をお掛けしました。おかげでこの通り」
お互いのシルエットは把握できても、顔色までは覗けない。
それでもシスターを喜ばせるため冗談を仕掛けてみると、彼女は私に合わせてくれたのか、優しく微笑み乗ってくれた。
「良かった。貴女は笑っている方がいい」
「え?」
「あ、いえ、気にされず……」
私のことは気にせず祈祷を続けてもらって構わない、と言いたかったのだが、オルカさんは両手の指を組んだままジッと私を見つめて黙ってしまった。そうなるのか……。
「オルカさん、私はまだメヘルブのあらゆる事情を理解したわけではないのですが、今日はもうよいので、可能なら明日にでも案内を頼めますか?」
「勿論そのつもりです。あの時は子供たちがいたので答えられませんでしたが、明日にはちゃんと説明をいたします。教会だけでなく、この街のことも」
オルカさんは懸命に笑顔を作ってくれているようだが、この話題になるとどうしても憂いの面を隠し切れないよう。
これでは同じことの繰り返しだ。後は明日の私に託して今は引こう。
「よろしくお願いします。午前中にでも。他のことはクウラさんたちに任せて時間を作ってもらえれば有り難い」
「そうですね。では、マイアさん、クウラさん、ヤエさんに、それぞれ私の方からお伝えしておきましょう。フフ、明日もきっと善い一日になるでしょう」
本来なら私がすべき連絡事項を代わりにやってくれるというオルカさん。祈祷を終えて立ち上がると、今日の務めを全て果たしたことへの充実感が見受けられ、そんな彼女を天の光がより神々しく演出した。
同じ聖職者でありながら、肩書きを持つだけの私では到底及ばない領域に彼女はいるのだと見上げてしまう。月光がそのままオルカさんを遠くへ奪い去ってしまうのではないかと誤解してしまうほどの儚さを感じて束の間、決別の美を目の当たりにした。
オルカさんは私に一礼し、内陣から真っ直ぐ出口へ歩く。彼女が退場した後で教会を閉めるためその背中を追うと、不意にオルカさんが立ち止まるので、急ブレーキで衝突を避けた。
「あっ、カイル様。ごめんなさい……」
「おっと、何でしょう?」
お互いの顔と顔が再び接近する。向こうは左程気にしていないようだが、こっちは鼓動が早くなり敵わない。平静を装うのも一苦労だ。
「夕食を途中で止めた後、一度家に帰ったのですが、私はいつも夕食後にその日最後の祈祷を行うのが習慣で、慌てて教会へ戻ってきてしまったのです。鍵が閉まっていたら諦めるつもりでしたが、開いていたので……申し訳ありません」
「何も謝ることはないでしょう。主も貴女の敬虔さを評しておられるはず。それより、鍵を開けっ放しにしていた私こそ皆に謝罪しなければなりません。万が一のことがあれば大変です」
要するに、私が入口を閉め忘れていたからオルカさんは入場できた。このように陽が沈んだ時間に照明も点けず無断で祈祷を行っていたことに罪悪感を覚えたため、こうして私に告解してきたということか。
「あら、万が一というのは?」
「え? そうですね、愚かにも聖堂を荒らす者や食料泥棒などでしょうか。極めて低い確率でその手の輩が現れるかも、なんてね」
適当に悪党の例を並べてからオルカさんの横を抜く。
丁度肩が並んだタイミングで彼女の俯く様子が窺えたので、この女性はやはり清廉な分だけ繊細なのだろうと勘繰ってしまった。
「カイル様、その心配には及びません」
「ええ、例えばの話です。告解室に駆け込む者いれど、教会で迷惑行為に及ぶ者などそうはいないはずです」
「当然です」
逆転して私の後に続くオルカさんの声音がその時だけ不気味に思えた。
勿論です、と返ってくる予想だったので、当然です、と強気な言葉が食い気味に脳天を突いてきたため、流石に振り返った。
「だって、皆が大いなる主を信じて朝・昼・夕と、最低でも一日三度は祈りを捧げるのです。誰も主に反する行為など出来るはずがありません。そのようなことをしてしまえば……」
「罰が下りますね。もっとも、その事後処理も、懺悔を聞くのも主ではなく我々の務めなのですがね」
「カイル様、そのように仰ってはなりません。いくらカイル様が……」
「そも、神なる者は姿形のない偶像に過ぎません。実際に人が犯した罪を許し、適した罰を与えるのは結局のところ私たち――」
「カイル様!」
私たちしかいない静夜の聖堂に、シスター・オルカの声が響いた。
ピアノのように優しいと感じた喉からこれほどの轟音が出てくるとは思いもよらず、まるで怖い大人に叱られた子供みたく私は動けなくなった。
「オルカ……さん?」
「危険です……いえ、それ以前に神を疑う発言は例えでもあってはいけません。どうか、主への信仰を怠らない善き聖職者を全うされてください」
今のオルカさんは、何だか自分たちでは到底抗いようのない大いなる者に怯え、許しを乞う罪人のように映る。
オルカさんはその場で膝を突き、最奥の十字架に向けて暫し祈祷を行っていた。
敬虔さ故に神への侮蔑を見過ごせなかったのか。私は彼女の知らない一面を知り、そしてまたも無為に貶してしまったようだ。
疑うも何も、そんな胡散臭い妄想など始めから真に受けるはずがないだろうに。
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