司る夕 Ⅲ
「そっかー、マイアさんもオルカもまだ説明してなかったのかー。それじゃあ仕方ないよねー。あ、いや、仕方ないですよねー……」
子供たちはトレーを台所に運ぶと、すぐさま男女で分かれ浴室に移った。食後に今日一日の疲れを洗い流すのがみんなのルーティンのよう。
「私は何がいけなかったのでしょう?」
子供たちのいなくなった食堂は自然に私とクウラさんの二人きりとなる。私がテーブルを拭き終えたタイミングで、丁度クウラさんも食器を洗い終えた。達人の手際だった。
そんな彼女と並び、今は皿磨きを手伝いつつ反省会を開いている。
「うーん、やっぱり子供たちの前で他の子供はどうしたのかって聞いたところじゃない? あれには私もビックリしたし、流石のオルカでもああなるよねー」
「何故それを聞いてはならなかったのですか?」
「何故って……そりゃあ、ねぇ……」
クウラさんまで口ごもってしまった。
これでは埒が明かない。宝箱を見つけたのに開ける鍵を持っておらず、他の者たちは鍵を所持しているのにそれを私に貸してくれないような仲間外れの気分。……少し苛立ってきている。
「では、このタイミングでクウラさんに同じ質問をしたとして、貴女は答えてくれますか?」
「答えることはできるよ。神父さん以外の皆は全員、生まれてからずっとここで生きてきたんだもん。この街の事情なら、先日の告解室で起きた事件のことから、羊飼いのお爺ちゃんが一日に飲むお酒の量まで大体のことは分かるよ」
「そうですか。では、メヘルブの子供たちについてご説明を、シスター・クウラ」
「えっとぉ……」
やれ、結局教えてもらえないのか……。
これ以上この不毛なやり取りを続けても徒労に終わりそうだから止めにしよう。
最も気になる疑問に靄をかけられてやるせない。思わず皿を割りそうになるほどの憤りに駆られるが、ギリギリで己を律して踏み留まった。……私とはこれほど気の短い男だっただろうか?
「はぁ……よろしい。こちらが引きましょう。明日にはオルカさんやマイアから諸々のことを教えてもらえるはずですし、この靄は酒の肴に使えそうです」
「おっ! 神父さんイケる口? だったら私の家にあるお酒分けてあげるよ! ワインがいい? それともウイスキー?」
酒というワードのみで重たい空気が一変した。
クウラさんが、それこそ子供のような期待の眼差しを私に向けてくる。それほどまでに飲み仲間を欲していたのだろうか?
「ワインが好きです。家に揃っているということは、クウラさんも相当に嗜むのですか?」
「もちろんかなり……あ、いや、父さんがお酒好きでね……でしてぇ。その影響で私も……」
砕けた口調を慌てて訂正するクウラさん。初めの会話からずっとこの調子なので、そろそろ指摘しておこうか。
「クウラさん」
「何でしょう、神父さん……様?」
クウラさんの頬が紅潮していく。言葉遣いのミスを連発していることが恥ずかしくなってきたようだ。
まさか私の指摘に怯えているわけではないだろうが、私としてはむしろ……。
「構いません」
「何と」
「聖職者としてはいただけないことですが、構いません。丁寧な言葉遣いを心掛ける姿勢は全く正しいことです。しかし、それが苦しいようなら貴女らしい話し方でも良しとしましょう」
指摘するのは言葉遣いではなく、ぎこちない態度の方だ。
私自身が神父として気さくに接してほしいと望んでいるのだから、他の者も多少はルーズになっても良いに決まっている。長い付き合いになる以上、私としてもその方が楽だ。
ただ一つ、主への絶対なる信仰。それだけが不動であれば後は自分らしく在っても構わないと、これまでの経験を通じてずっと感じてきたことなのだから。
「い、いいの? 確かに助かるけど、私これでもシスターですだよ?」
「今日からこの教会の長は私ということになりましたから。それに、皆もとうに気付いているのでは? 貴女と……あと、あの赤いの。シスターなのは外見だけだと」
「ウッ!」
少し厳しい言葉で仕掛けてみたら図星だった。
ただ、マイアとは違い改善する気はあったようだから、これ以上弄ると虐めになってしまうのでここまで。
「でも、でも、神様は許してくれるかな?」
「え? ああ……」
そこを不安に感じるあたり、彼女もやはり精神的には聖職者なのだろう。
上目遣いで許しを乞うように怯える姿は姉というより妹のように思える愛らしさだ。
「それこそ神のみぞ知る事情でしょうが、少なくとも神官たる私は許します。今後、より励むようならば、主も貴女の自然さこそを愛することでしょう」
極めて自由な方針変更である。主よ、我々はこのように都合主義で動くのです。
「そ……そっか、そっか! なら大丈夫……かな? でもこれ、本当に大丈夫かな。念のため今から告解室行っとく?」
クウラさんがこれほど神を畏怖しているのが意外たった。
持ち前の付き合いやすさや、マイアと同様にウィンプルを被らない姿勢からして、今さっき私がはっきり言ったように、役職としてシスターをやっている印象が強かったからだ。
「我々で告解室を貸し切るわけにはいかないでしょう。それに、今は閉鎖中とのことですが?」
「あ、それは知ってるんだね。みんなにはしばらく懺悔を断ってるけど、私たちなら別に入ってもいいんじゃない?」
「それは確かにそうですね。マイアに後で教えてやると言われたまま忘れていましたが、私の立場なら押し通せる話でした」
「でしょ? まあでも、今はちょっと間が悪いかも。そろそろ子供たちが戻ってくるよ。誰かが朝まで面倒を見ることになってるんだけど、今日は私の番なんだー。……ということで」
皿磨きもようやく終わり、次は食器を引き出しに仕舞う作業かなと先輩を窺うと、彼女は自分の仕事をやり遂げたと言うように素早くエプロンを外した。
「家からワインたくさん持ってくるから! それまで片付けと子供たちの相手よろしくー!」
クウラさんは台所を離れて後輩に後の面倒を投げた。
やはり基本は自由人。仕事は程々に、というのが彼女の流儀なのだろう。あるいはアルコールに飢えているだけか……。
「やれ、奔放な……」
「ねぇ」
食堂を出るクウラさんより去り際の一言があるようだ。
しかし、その声音は達観した大人の女性らしく、さっきまで丁寧口調に苦闘していた彼女の喋りなのかと疑うほど神妙に取れた。
「さっきのさ、神様は許すか分からないけど私は許しますって話。ちょっと危なかったかもね。神父さんといっても、前の司教さんの件もあるしさ」
「クウラさん?」
彼女の起伏について行けない。クウラさんが私に何を伝えたいのかが全く読めない。
「でも、ありがとう! 今が大丈夫ってことは今後も大丈夫ってことだろうから、とにかくこれからもよろしくね! ……カイル君って呼ぶね!」
去り際、友愛のシスターは反則技を置いて出ていった。
感謝の言葉。唐突な名前呼び。不思議と儚く見えた最後の笑顔。
しかし、私はそれらより前の発言が気になった。
危なかった、とは?
まさか、自由であれと彼女に望む私を神が叱るとでも?
私の立場と前司教の件。本来は安全とされるものから悲劇は起こると?
クウラさんからは神を怖れる様子がよく窺えた。仮に前司教の死が神の裁きだと解釈しているのなら、それは行き過ぎた妄想である。
事故死とは、この世の中に存在する確かな要因により生じる生者限定の問題であり、神なるものは一切そこに起因しない。
例えば、前司教は聖職者にあるまじき神を愚弄するような行いに奔走したとする。
それを知ったマイア、オルカさん、クウラさん、最後のシスター、果てはメヘルブの住民たちが、彼を司教失格だとして蔑み、非難する。それは次第に苛烈さを増し、彼を追い詰める結果となった。
さて、今の例に神が欠片でも関与していただろうか?
神とはあくまで、人間の集まる世界に後から作られた架空の救世主だ。我々の前には現れない。存在が確認されていない。
――神は罰を与えられない。
誰かが神を愚弄したところで、その者を追い詰めるのは神ではない。
神を信じる者。神の否定を許せない者。即ち、同じ人間のみに限られる。
――神は我々の前に出てこられない。
神を信じるのは善いことだろう。勝手に縋って、勝手に救われた気になっていればいい。それで安心できるのなら、これから先の人生に待ち受ける幾多の苦難と向き合うための精神安定剤にはなるはずだ。実に素晴らしいポジティブ思考と言える。
だが、怖れる必要がどこにある?
万が一、本当に神が実在していたとしても、人の営みには決して介入してこないのだから、恐怖など意味を成す感想にはならないではないか。
どう捉え、どう扱っても問題ない。ただ神を信じる連中に嫌われたくないから、信じているフリをしているだけだろうが!
聖職者も! 信徒共も! どいつも! こいつも!
「神父様?」
「えっ」
背後から聞こえた弱々しい声に間抜けな声で反応すると、今にも泣き出しそうな女の子が佇んでいた。
いつの間にか食器の片付けも終盤に差し掛かっており、私はいつここまで作業を進めたのかとまた新たに謎が生まれてしまったわけだが、幸い各食器の収納場所は間違えていないようで安心した。
「神父様……大丈夫ですか? 何回も呼んだのに向いてくれなかったよ?」
「そうでしたか……。すみません、どうやら自分でもよく分からないほど集中していたようです」
「うん、そうなんだ……。でもね、でもね……」
結局、女の子は泣いてしまった。
それでも鼻を啜って必死に嗚咽を我慢している様子で、この子は強いのだなと、何だか私にはない勇気を見せてもらえた気になった。
「はい。何でしょうか?」
そんな彼女の不安がこれ以上増してしまわないように、できる限り甘い声で向き合ってみたのだが……。
「神父様のお顔、凄く怒ってて怖いの……」
彼女にそう言われて、私はようやく自分の頭が凄まじい熱を帯びていることに気付いた。
眼球が零れ落ちてしまうのではないかというほど目蓋が開かれていて、その分だけ眼球が大きく見えてしまうのだから、これは誰がどう見ても怖ろしい怪物そのものに違いない。
「ごめんなさい……。驚かせてしまいましたね。どうやら度を超えて集中していたようだ」
私は必死に平静を取り戻すよう心掛けた。顔を元に戻すことを意識するなんて初めてだ。
私自身は平静のつもりだった。傍から見れば異常な憤りを堪えているように見えたのだろうが、常軌を逸したつもりは全くないのだ。
「それで、どうされましたか?」
「うん。誰かに絵本を読んでほしかったの。白い鳩さんが子供たちにいっぱいのプレゼントをあげるお話」
「それは素敵なお話のようですね。クウラさんがもうすぐ戻ってくるはずですが、それまで私がお話しましょうか?」
「えっ? ……えー! そんなこといいの? でも、ええと……」
時間を費やすのに都合が良いと思い絵本の読み手に志願したのだが、女の子は思いもよらぬ反応を示した。初対面の時と同様、モジモジとする仕草にはどのような意味が?
「無理にとは言いません。片付けもこれで終わりですから、手が空いて暇になるところなのですよ」
そう言って最後に残ったスプーンを仕舞い、引き出しを閉じた。
シスターの誰かに読んでもらいたい希望があるなら別に構わない。それならクウラさんが戻るまで、のんびり物思いにふけるのも悪くはないだろう。絵本に付き合うのもいいが、今日の経験を頭の中で整理する時間も欲しい。
「ふ、ふぅん。でも、やっぱりいいです。お疲れのところなのに……め、面倒でしょうから!」
「面倒だなんてそんな」
「いいんですー!」
女の子が寝室へ駆けていく。
色々と気を遣ってくれているようだが、強く拒絶された感じも否めないため、思わず呼び止めてしまった。
「もし、貴女!」
女の子は私の声量が急に大きくなったことで肩を跳ねらせて驚愕した。
彼女を呼び止めたのは他でもない。肝心なことを確認していなかったからだ。
「ごめんなさいね。夕食も共にしたというのに、まだお名前を聞いておりませんでした」
この女の子の名前。
昼間に一度会ってからもう何度も聞く機会を逃して、この夜まで時間を掛けてしまった、些細だけど大切な問題だ。『面倒見の良い女の子』では親睦が深まる気もしない。
彼女の後で男の子たちにも問わねばならない。浴室から出てきたタイミングで、と思っていたが、寝室から二人の話し声……主に快活な男の子の声が聞こえる。いつの間に浴室を出てこの部屋を通過したのか。
「お名前? 絵本のですか?」
「え? いや、貴女のお名前を」
「……え? 神父様?」
……この空気は何だ?
私は何か女の子に困ることを聞いただろうか?
名前を教えてほしいと問うたのだから、彼女は自分の名前を答えるだけでいいはず。
子供だろうと何だろうと、最低限のコミュニケーション能力があれば成立する問答のはずなのに、このように行き詰ってしまったのは何故か。
まさか、私のように名前を忘れたわけでもないだろうにと、そういえば今の自分はかなり拙い状況下に置かれていたのだったと思い出すところ……。
女の子の不意打ちが私の隙を突き、会心の一撃となった。
「神父様、私に名前なんてありませんよ」
「……は?」
忘れたわけでもなく、ましてや大人をからかっているわけでもない無表情。
初めから私に名前など無いと。女の子はそれが当たり前のように言い切って寝室へ消えた。
シスターたちが動揺した子供たちに関する諸々。オルカさんが即座に青ざめ、クウラさんが濁したメヘルブの不都合。何も知らない私は裸足でその泥沼に踏み込んでしまったようだ。
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