生まれる昼 Ⅱ

 丁寧に整備された芸術的な草原と雲一つない青空が相まって、憔悴した私の心に清風を届けてくれる。門を越える前の孤独などとうに忘れてしまっているわけだから、人の心は本当に些細なきっかけで化けるものだ。

 自虐を鼻で笑い、草原を越える。到着した。

 次の瞬間には皆が私の登場に気付いて様子を窺ってくるに違いない。そう読み、いかにも聖職者らしい慈しみのありそうな笑顔を急造してみた。

 しかし、そんな大人の社交辞令などお構いなしに三人の子供がこちらへ向かって駆けてきた。

 先頭を走る快活そうな男の子が、私にぶつかる直前で体をくるりと回転させて躱した。

「ごめんなさい司教さま! あと、ごきげんよう!」

 大声で言い残し、草原へ走っていった。後ろの二人は彼とは違い、私の前で立ち止まると、礼儀正しく頭を下げてから挨拶をしてくれた。

「ごきげんよう、司教さま」

「ご、ごきげんよう! ごめんなさい、あの子、お行儀が悪くて……」

 もう一人の男の子はさっきの彼とは対照的に落ち着いている。最後の女の子は面倒見が良いのか、あるいは日頃から苦労させられているのか、草原を駆ける彼に代わって詫びを入れてきた。

「二人ともごきげんよう。それと、構いません。目に見えて元気だと分かるのはとても安心できるものです」

 おそらくまだ十歳ほどであろう初対面の子供たちへ、司教役として接するならこれくらいの物腰が無難かと手探りで対応してみた。

 男の子は再度頭を下げてから羊を追い回している彼の後を追った。女の子の方は顔を赤らめて身を揺らしているが、私たちの様子を窺っていた大人たちのうち一人がこちらに近づいてくると、逃げるように男の子たちに続いた。

 ここがどれだけ美しく恵まれた土地であっても、あの子たちの興味を引くものはそう多くないように思える。無駄がないということは、それだけ娯楽が少ないことを意味するから。

 あれほど元気な子供たちならば、いずれそれぞれの夢を見つけて都会を目指す時が来るだろう。そうなった場合、彼らは両親よりも私のような聖職者に本心からの相談を持ち掛けてくることもあるはず。

 私はその時、聖職者として、主の代弁者として、彼らに的確な指導ができるのだろうか。

 そも、私には言葉を授かるべき存在が始めから……。

 近づいてきた大人の足取りはやけにスローモーションだった。

 その者は顔が大分やつれていながらも厳格な雰囲気を醸し出す、背筋がしっかりと伸びた老翁だった。 先程まで賑やかだった周囲の人々が談笑を止めて我々に注目していることから、この街の重鎮のような存在だろうか?

「よくぞ……よくぞ参られた! 新たなる神の声、私たちの神官よ」

 僅かに興奮を見せた後、老翁はまるで時間の流れまで遅くしたかと錯覚する鈍さで私に頭を下げられた。

 司教とはこれほど敬われるものだったかと困惑してしまい、言葉を返せぬまま顔を上げられるのを待ってしまった。

「私の名はバヨク。古くからこの街の代表として様々な問題への応対やら管理やらを請け負っております。責任者と言い換えてもよいが……生憎、皆からはがいおうと呼ばれております故、どうかお見知り置きを」

「こちらこそ、バヨクさん。美しい草原と荘厳な山々の間にあるこの街は、各民家にも決まって十字架が掲げられており、主への信心深さがよく伝わりますね」

 いきなり過剰に褒めてしまっただろうか。

 しかし、バヨクさんの口元は妖しくニヤけていた。皺が深いため仕方のないことだが、その形相は悪鬼のように怖ろしく感じる。

 この場の空気から読み取れるように、バヨクさんはやはりこの街で頼りにされている存在で間違いないようだ。

 そうなると新たな司教となるべく招かれた私には当然の疑問が生じる。長い付き合いになるであろう老成に、早速それを確かめることにした。

「ところでバヨクさん。着いて早々で申し訳ありませんが、お尋ねしたいことがあります」

「嗚呼……私のことは街翁とお呼びくだされ。神の声に対して非礼は重々承知ですが、以前の司教様もそう呼んでくださった故……」

「そう、でしたか。それでは街翁殿……」

 どうも、このご老人には調子を狂わされてしまう……。お互いのペースに違いがある場合、若い方が年老いている方に翻弄されてしまうのはあまりにもベター。

 それと、私のことを『神の声』と称するのも気になる。我々のような聖職者には様々な呼び名があるが、神の声と呼ばれたのは初めてだ。告解室での私たちの役割から来た名だろうか?

「既にご存じのようですが、私はこの街の教会で司教役となるべくやってきた者です。この街の、いわゆる教会の外で起きた厄介事なども私が対処する所存なのですが、前司教と街翁殿はどのように役割を分担されたのでしょう?」

「外のことなど心配には及びません。貴方様はどうぞ、存分に教会の務めを。それこそが神の声の本懐でしょう。これより貴方様が負う責務と比べれば外の問題など些事も些事。我々のみで十分に事足ります故」

 老成の返答は私の問いとあまり嚙み合っていないが、教会関係者の職務について理解があるのは話が早い。

 ただ、街を一見すれば分かるように住民の多くが信徒であることから、神官としての権威を持つ私が前に出た方が迅速に事が運ぶのではないかと思えるが……。

「なるほど。これまでは貴方が支柱となってこの街を治めてこられたのですね。私としても感謝すべきことです。ただ、まずは教会にて同業から諸々の事情を確認してきてもよろしいでしょうか? 次第によってはそちらを手伝う時間も作れるかもしれませんので」

「しかし、貴方様がそこまでせずとも……」

「私としても望むところです。教会に籠るばかりでは暇になるのも目に見えていますし、主も皆と共に在れと仰るはずです」

「ふむ……」

 らしい言葉を並べ続けたので、てっきり感心される気になっていたが、街翁殿はまだ不満気な様子。表情に影が濃くなった。来たばかりにしては慎みが足りなかったか、喋り過ぎを悔いた。

「では、どうぞ教会へ。彼女たちも貴方様の到着を待ちかねていることでしょう。教会は広場を越えた先でございます」

 街翁殿は渋々納得して身を退けた。同時に私たちの会話を立ち聞きしていた者から、教会手前の噴水広場に集う者たちまで、順に道を開けて進路を示してくれた。私は街翁・バヨクに一礼してから皆の招待に甘んじた。

 噴水広場への間、すれ違う人たちと軽い挨拶を交わしていく。中には私に対して真の神を見たかのような感涙に咽び、跪く者までいた。職業柄、稀にある光景だがつい驚愕してしまった。

 私には、何だか助けを乞うようにも見えた。

 それにしても、やはりこの街の信仰は根強い。司教の立場からすると、それだけ宗教の理解者が多いということで営業妨害が減り助かるわけだが、その分だけ私の疑惑は段々と大きくなっていく。


 ――何故、得体の知れない『神』とやらにそこまで縋れるのか、と……。


 神の代弁者となり、悩める者たちに適切な助言を送ることになる私にとって拙い思考だ。

 これまで一度たりとも疑うことなく神の僕を全うしてきたはずなのに、なぜ今更そのような邪心が芽生えたのか。

 これ以上は本当に危険だと分かっている。それなのに……。

 生涯で一度もそれについて深く考えたことはなく、ただ黙して主に尽くしてきた私には信念がない。この身は些細なきっかけでどちらにも転がっていくのだと、つい先程思い知ったばかりだろうに。

 不意に頭痛が襲ってきた。倒れるほどではないが眩暈もついてくる。

  皆は私の急変に気付いていないようだし、ここはやり過ごそう。すぐに回復するはずだ。

 幸い噴水広場を抜けて教会へ至るまでの道は無人。教会周辺に人影がないというのも妙なことだが、今の私には都合が良い。

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