生まれる昼 Ⅲ

 広場を抜け、教会へ真っ直ぐ進む道の前に立つ。

 台座の上に、羊の顔をした人型の石像が直立している。それが左側に九つ、右側に八つ。数の均衡が取れていないまま並び、教会への道標となっている。

 悩める人のことを迷える羊と比喩することがあるが、この石像は正にその例えを用いたというのか。この街の人々にとっては見慣れたものだろうが、あまりにも皮肉なデザインに胸が痒くなるほどの不快感を覚えた。

 これを造ったメヘルブの先人たちから「教会までは必ずこの道を通れ」と言われているわけだが、一応、これを無視しても教会の入口へ行けるだけのゆとりはある。

 ただ、私の挙動に注目する皆の視線が背中に刺さるため、今はこの陰気な道を通るしかない。

 新しい環境が全て自分に合うはずがない。いくつかは目を瞑ろう。忙しくなってくれば石像のデザインなど気にしなくなるはず。

 その頃にはここで暮らす上での要領も得ていることだろう。諦めて先人たちの歴史に倣うことにした。

 教会の扉を目前とするところ、右列の石像は左列より一つ少ないため、その分早く見送ることになる。左右で数が違うことに何か意味があるのかと考えていたため……。

「おい」

「うわぁ!」

 右列最後の石像、その下部に座り、もたれ掛かっている女性がいるなど想定していなかった私は、不意打ちを受けて情けない声を漏らした。

「失礼な男だなぁ。私はウワァではなくマイアだ。石像の数が気になるようだが、お前が知るにはまだ段階が早過ぎるぞ」

 ワインのように熟したセミロングの赤髪が目立つ、中性的な顔立ちで口の悪いこの女性はマイアというらしい。

 信じ難いことに、彼女はシスターと見受けられるネイビーカラーの修道服を着用しており、本来なら私のような男性聖職者が肩に掛けるストラと呼ばれる碧色の長帯を首に巻いていた。

 それが目に留まり、まさか私より身分の高い御方なのか、と急に緊張感が高まった。

「まさか、貴女は……」

「ああ、お前に手紙を出したのはこの私だ。来てくれてありがとうね。二度と故郷に帰れると思うな」

 都会の大聖堂に勤めていた私が辺境を訪れるきっかけとなった同業者からの救援要請。あの手紙を寄越した相手がこのシスターだったとは!

 街翁みたく貫禄のある大御所からの要請だとばかり思い込んでいたから戸惑いを隠せない。それと、他にも気になる発言がいくつかあった気もするが……まず第一に、どうしても確かめておきたいことがあった。

「えっと、貴女はここのシスターでよろしいのですね?」

「どう見てもそうだろう」

「それはストラですね? もしや私より高い位におられる方でしたか? まさか教皇などでは……」

「ノー。私は司教のお前より下だぞ。ただ、他のシスター共より、その、歴が長くてな。お前が来るまでは私の天下だったんだよ、チッ!」

 最も清廉とされる格好で、とんでもない悪態をつくシスター様の迫力に圧倒されてしまう。

 しかし、ここで尻込みしてしまうと正しく立場が入れ替わってしまう恐れがある。臆せずここで何をしていたのかを聞いてみようとするが……。

「質問が山ほど溜まってるんだろ? それならまず中に入れよ。ここでダラダラ話しても効率悪いし、教会の中身とか他のシスターとか紹介しつつお前の質問にも答えてやる」

 よっこいしょと言って気怠そうに立ち上がると、ついて来いと言わんばかりに顎で私を誘った。

 これほど粗い聖職者は珍しく、完全にペースを奪われてしまっているが、同時にこのようなシスターが実在するものなのかと、かつてない新鮮な体験だ。

 石像に対する不満はシスター・マイアの豪快さにより吹き飛んでいた。

「分かりましたよ、シスター・マイア。それでは案内をお願いしますね」

「私らのことは呼び捨てで構わんぞ、司教さま。一々シスターって付けるの疲れるだろうし、こっちも聞いててウザいし」

「そうですか。では私のことも司教でなく神父と格下げてお呼びください」

「んー。って、そうだった」

「どうされましたか?」

 彼女は教会の扉に触れたところで何かに気付き立ち止まり、振り返って私の瞳の奥を覗いた。

 同時に、私もこれまで皆に伝え忘れていた当たり前のことを思い出した。

「お前、名前は?」

 マイアは何気なくその当たり前を尋ねてきた。

 私はどうして事ここに至るまで、こんな大切なことを失念していたのか。

 当たり前にあるものだからこそ見落とやすい。……果たしてそういうものだっただろうか?

 しかし、彼女の何気ない問いが私の胸を強く締め付けた。……そも、始めから決定的に何かが欠けているような……。

「私は......」

 私は忘れていた自らの名前を思い出して、彼女にしっかりと伝えて、それで、名前を、私の、名前を、思い出して、なまえ、しっかりと、伝えなければ…………ならないのに………………。

 私には、思い出せる名前が無かった。

 それどころか……その……私とは、何ですか?

 聖職者。神父。それは一体……いつから?

「私は……あれ? 私は……誰だろう?」

 前髪をクシャリと掴み、致命的な欠陥に焦燥する私は額に大粒の汗を溜めていた。

 赤髪のシスターはそんな私に何も言ってこない。私はそんな彼女の瞳を覗き返せない。自分の名前すら分からない迷える子羊だというのに、確かに名前を持つ自立した者と向き合ってしまうのがとても怖ろしく感じるのだ。

 

 ――この時、彼女が私をどのような眼差しで見つめていたかは知る由もない。

 

 これでは子羊どころか、生まれたばかりでこれから親に名前をいただく赤子と同じではないか。二十七歳の自分がそんな状態に陥っていることがとても惨めで、大人たちと同じ空間を共有していることが恥ずかしくてならない。

 隣人。営み。あれほど温もりを期待していた者たちが今や脅威以外の何者でもない。これではすぐに捨てられてしまう……。

 そのように独りで弱っていく私を見かねて、ようやくシスターが口を開いた。

「お前、何か体調悪いだろ? 名前も思い出せないとかよっぽどだぞ」

「すみません……。どうやらかなり疲れているのかも……」

「まずはベッドで寝るか? ここでの昼寝も悪くないが、ガキ共に見つかるとまたサボってんのかって噛みつかれるしな。自室の方がいいだろう。とりあえず入るぞ」

「ええ、案内を……お願いします……」

 長旅の疲労。門前での怪奇現象。慣れない街の空気。不快な石像群。思い出せない自分自身。

 様々なネガティブに苛まれながら、私は彼女の提案に甘んじて、まずは自室を目指すことにした。気持ちの整理は一度休んでからにしよう。

「肩、使うか?」

「平気です」

 ようやく目的の教会に辿り着いたというのに、あまりにも自分がみっともない。初日からこれでは同業者たちへの信用はマイナスからのスタートになりそうだ。

 何とか自力で立って歩いているが、心を蝕む違和感を振り払う術を何も持ち得ていないことが非常にもどかしく、鬱陶しくもあった。

「お前の部屋は聖堂の左奥だ。とにかく入るぞ」

 シスターらしく気を遣ってくれていたはずのマイアだが、やはりシスターらしからぬ大胆さで教会の大扉を蹴り開ける。

 そして、聖堂最奥の壁面に貼られた、鳩や果実などが彫られたステンドグラスを背に不敵な笑みを浮かべて言った。

「ようこそ、名前を失くした神父さま。まるで世界に存在していないかのような辺境の麓街、メヘルブが誇り、君臨する神の腸へ。大いなる主とその下僕たちがお前の到来を心より歓迎してやるよ」

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