1日目

生まれる昼 Ⅰ

 ある都市の、ある大聖堂で、神父の役を務める私の元に一通の手紙が届いた。

 それは、このような都会とは欠片も縁のない、遠い麓街の教会より直々の救援要請だった。

 手紙の内容は大きく分けて二つ。

 その教会の司教が不慮の事故により亡くなったこと。そして、その者に代わる新たな司教役に私を任命したいとのこと。後はそれらをベターな挨拶文が挟むのみだった。

 便箋を入れた封筒には地図も入っており、ここから件の麓街へ最短で向かうための経路が記されてあった。……地図は手紙を読む前まで封筒に入っていなかったはずだが。

 司教が事故死に至った経緯や、なぜ私なのかなど、世が世なら今この場から質問攻めできたやもしれないが、そういった手段のない場所に生まれ落ちたのでやるせない。

 考えるだけ無駄なことだと諦め、無警戒で手紙を開いた己の浅ましさを呪った。

 聖職者の性か、あるいはこれも主の導きかと信じて、私は便箋と地図を封筒に戻し、それをキャソックの内ポケットに仕舞うと、同業や知人への挨拶すらも省いてここを飛び出した。 

 この時の私は、まるで自らの意志を持たない傀儡のようで、身も心も他者の意思により操られているかのように、一切の躊躇いもなく、件の麓街へ真っ直ぐに歩を進めたのだった。

 ……そのような過去があったような気がしたが、少なくともこの私に旅の記憶など一切ない。


 鮮やかな青天が厳かな山々に侵食を受けて台無しとなっている。

 なんて、斜めな感想と共に目的地のすぐ傍まで来た。不思議とあっという間だったような気がする。

 本来なら荘厳な絶景には感動を覚えて然る場面かもしれないが、今では空も山もずっと私の視界を支配し、脳にこびり付いた鬱陶しいものでしかないため、長旅の苦労が呼び起こされて両脚の重みが増すばかりだ。

 このような自然の景色などより、ランプの灯りに頼る薄暗い部屋でワイン片手に天井のシミをボーっと眺めている方がよっぽど贅沢ではないかと思うほど、身も心も疲弊していた。

 他に誰もいない道路で独り怒る私は、気付けば巨大な門の前に立っていた。

 おそらくこれが件の麓街へ通じる入口に違いないのだろうが、私はいつの間にここへ辿り着いたのだろうか?

 麓街は巨大なコンクリートの壁に覆われているようだ。入場にはこの門を通るか、遠くに聳え立つ山々から下っていくしかなさそう。無論、後者は論外だが。

 外側に門番はおらず、内側にも人の気配はない。これが正門のはずだが、最近これが開閉したような痕跡すら見当たらず、鮮血のような赤色の門には傷一つない。

 何というか、ここは寂しい。この先に人の営みがあるはずなのに、世界中の人間はみんな別の星に引っ越し済みで、もう地上には自分しか残っていないのではないかという不安に駆られてしまうくらい、人の心を充実させるための要素が取り除かれている。

 今更ながら地図を確認してみようと思い、キャソックの内ポケットに手を突っ込むと……。

「あれ?」

 腑抜けた声が自分の口から漏れ出た。そういえば、久々に言葉を発したのだったか。

「封筒……地図は?」

 都市を出発した時、確かに仕舞ったはずの封筒が無くなっている。

 内ポケットには何も入っていなかった。便箋もない。どこかで落としただろうか?

 しかし、この格好で落とすなど滅多にないだろう。私がキャソックを脱ぐのは就寝時のみ。あとは、当然だが体を洗う時くらいなものだ。

 これを脱ぐタイミングなど一度もなかったし、ましてや懐から物が落ちたのならその時に分かるはずだ。いくら何でもうっかりという話ではないように思えてならない。

 

 ――そも、そのような旅路が本当にあったのならば。

 

 ここが目的地に相違ないとしても、手紙には私の名前入りで司教が亡くなったと書かれているため、拾った者の扱いが悪ければ、私にも司教殺害の容疑がかかり強制送還させられてしまう。その果て、より厄介な事態に陥るのも明らかで、正しく話にならない。

 流石にそうはならないだろうが、そうなるのではないかと考えてしまうと、それを未然に防がねばならないと焦る気持ちになってくる。

 しかし、どうにか冷静に……。焦燥で熱を帯びる私の頭は、これまでの旅路で封筒を失くす結果になるような出来事の有無を思い出す。

 同時に私も体を正門から背けて、これまで歩んできた道程を振り返った。

 そこで、あり得ないものを見た。

「これは……何故?」

 理解できない現象が私の目の前で、あるいは私の身に起こっている。

「足跡が無い……」

 在って当然のものが、無い。

 先程の、地上には自分しかいないのでは……といった安い妄想を容易く上回る不可解な現実に心が揺れる。

 辺りは土の上を砂利で覆った道路のため、正門に至るまでの道程には、私がここまで歩んできた足跡がなければおかしい。

 なのに足跡など一つも無く、私の履く黒い革靴も新品そのもののように一切汚れていないのだ。陽の光に照らされてテカるほどに。

 現在進行形で私を襲う怪奇現象により、岩のように固い頭を恐る恐る足元へ向けた。

 そこには確かに革靴の裏面と同じデザインの足跡が二つあった。異変に気付かないまま麓街の正門を呆然と見つめていた数秒前の私の足跡だ。

 それが確認できてようやく安堵した。僅かでも私の存在が世界に許されているように思えたからだ。

 文字通り路頭に迷っていると、背後からゴオオオオッという鈍い音が鳴り響き、消耗し過ぎの私の脳味噌を激しく震撼させた。

 それでも、この頭痛こそが私にとって救済のお告げに他ならないと思えるほどの僥倖だった。 正門が開いたのだ。

 つまり、門の内側に誰かがいるということ。孤独に打ちひしがれる私に手を差し伸べる隣人が現れる瞬間が、もう間もなくまで迫っていることを意味している。

 まるで意中の相手がそこにいるかのように、嬉々として体を半回転させて門の先を窺った。

「……いない?」

 そこには相変わらず誰も待っていなかった。

 開門してすぐにその場を離れたわけでもないだろうに、門は人力を介さず自動で開く仕組みになっているとでもいうのか。

 私をこの世から抹消するように無くなった足跡と、逆に私の生存を認め、誘うように開かれた赤い門。

 何か、人智を超えたものに翻弄されているのだろうかと邪推してしまう。 それこそ、我々が信仰・服従する偉大なる主のような超越的存在に……。

 神とは人々を正しく導くものであり、決して我々を弄ぶような真似などしないに決まっている。これ以上の疑いは聖職者であり、ましてやこの先の教会で司教を務める私には許されない異端の思想となる。不要な考えは疾く放棄しなくてはならない。


 ――神が、本当に人々の解釈する通りの聖者ならば。


 私はあと一歩で門を越えるところまで進むと、その向こうに待ち受ける世界を眺めて感嘆し、全身に鳥肌が立った。

 コンクリートの壁に隠されているのが勿体ないほどの見事な風景だ。世界遺産だって狙えるほどに。

 目の前には陽射しに照らされる広大な草原が広がっており、羊たちが放牧されている。私の存在を感知して鳴き声を上げる者もいれば、構わず寝たままの者まで様々。

 その向こうには同サイズの民家が疎らに並んでおり、目を凝らすと人の姿もチラホラと確認できた。街の中央には噴水も見える。

 最奥には、先端に十字架が掲げられた鉛筆型の塔が見える。あれが教会だと確信すると、旅路を間違ていたわけではなかったのだと分かり息が零れた。先程までの不安から一先ず解放され、翼が生えたかのように心身が軽くなった。

 自分以外の生命が在る。人の営みがある。

 そんな当たり前のことにこれほど心救われるとは、自分でも意外なほどに参っていたのだろう。

 失われた手紙と足跡。それらも珍道中のネタになると思えるほどの余裕が生まれた。無論、不安を煽る内容のため、同業者に相談する程度で済ませるべきだが。

「行こうか」

 孤独な旅の影響か、あるいはこのような辺境に人の営みがあったことへの衝撃か。今の私はどうにも人の温もりに飢えてしまっているようだ。

 教会を目指しながら、すれ違った人々に挨拶を。私の来訪は知らされていることのはずだが、新しい司教がやってくるなど珍しいはずだろうから、教会へ到着する前に皆から囲まれるのを覚悟しなくては。

 などと、懲りず楽観しながら私は、始まりの一歩を踏み出した。


 ――今すぐ引き返せ。


 教会の運営。迷える者たちへの助力。あとはこの街の治安維持などか……。これまで以上にやることが多そうで大変だ。責任を負う立場になるのだから、気の休まる時間も限られてくるだろう。


 ――もう戻れなくなる。


 それでも、人の営みに貢献できることは素晴らしい善行に決まっている。意義があるに違いない。


 ――大切なものを失うくらいなら……。


 ただ、『司教』などと仰々しい銘で呼ばれるのは永遠に慣れなさそうだから、私のことは『神父』として扱ってもらうよう事前に伝えておかなければ。神官の立場とはいえ、腹を割って打ち明け合える仲の方が私には好ましい。

 

 ――何も望まず孤独でいた方がマシだ。


 門を越えて草原を進む。

 羊が過ごしやすいように整備された草原は、人間にとっても快適な歩き心地だった。 それだけでこの街の人々は優しい善人ばかりなのだろうと思えるほどに。

 不思議な気分だ。本当に体が軽い。早く、一歩でも早く、私もあの輪の一員になりたいという気持ちが絶えない。

 歩を進めると、各民家の扉の隣に十字架が刻まれているのが見えた。遠くからだと、教会の頂点に刺す十字架が、それらの中心に君臨しているようにも取れる景観から、きっと誰もが敬虔なる信徒に違いないのだと感心させられる。


 ――『神』が何かも分からないというのに。


 背後で再び鈍い音が響いた。離れていく正門は開いた時と同様、閉じる時も自動でその役目を全うしたようだ。

 別に気にする必要もないだろう。目視せず音で閉門を確認して街へ向かった。


 ――自分が何者かも分からないというのに。


 後にその門が使われることはなかったという。だって、この街には内と外を分かつ門など始めから存在しないのだから。

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