司る夕 Ⅰ

 目を覚ました私の視界は真っ赤に燃えていた。

 仰天して起き上がると、それが窓から射す斜陽だと分かったので息を整えられた。

 それにしても、夕焼けにしてはオレンジ色が弱い。血を連想させる強烈な紅は、眺め続けると不安定な気持ちになる。

 とにかく、暖炉が爆発したわけでも、窓から火炎瓶を投げられたわけでもないと分かり一安心だ。ここで火事など起きようものなら、同時に聖堂まで火が広がって取り返しのつかない責任問題となる。初日で追放、あるいは広場で見せしめの処刑にされかねない。

 入眠前に何を考えていたかは覚えていないが、少し仮眠を取るだけのつもりがうっかり夕刻まで眠ってしまったようだ。

「これは善くない」

 部屋を出たらマイアに意識の低さを叱られるのは覚悟しよう。オルカさんもきっと今頃呆れているに違いない。マイアはともかく、オルカさんに侮蔑されるのはかなり堪えそうだ。

 元の服装に戻し、気持ち急いでリビングへ出る。

 すると、丸テーブルにガラス製のティーセットが置いてあるのが目に留まった。

 誰かが気を利かせて用意してくれたのだろう。ポットの中身は紅茶のようで、燃えるような紅より遠慮した薄いレッドだ。ほのかに林檎の香りもすることから手の込んだ一品と分かる。

 私はおもむろにそれをカップに注ぎ、口へ運んだ。

「これは……」

 美味しい。紅茶に精通しているわけでは全くないが、これまで口にしたどの紅茶よりも優れた味わいに他ならず感嘆した。

 これはハマる。荒んだ心が浄化されるようだ。

 一杯飲み切ってから聖堂に出ようと、紅茶の味を呑気に堪能していると、遠くの方、具体的にはこの部屋の天井を越えた外から……。

 

 カーン、カーン、カーン。

 

 銅同士のぶつかる音が聞こえて、私は更なる失態を重ねたことに気付く。

「まさか……」

 当然、今のは夕刻を告げる鐘の音である。

 メヘルブに住まう誰もが教会の頂点に設置された十字架を見据え、教会内にいる者は聖堂の十字架へ向けて祈りを捧げる時間を意味している。

 というのに、司教たる私は紅茶が半分残るカップを片手に佇み、祈りを捧げもせず鐘が鳴り終わるのを待つだけの体たらくだった。

「本当に、善くない」

 誰も見ていないプライベート空間とはいえ、内陣の真横に位置するこの場所で私は、祈祷よりも喉を潤すことを優先した。

 黙っていればバレることもないだろうが、罪悪感が苦しい。あとで夕刻の祈祷はしっかりやったのかとマイアに問われた際、私は嘘を吐いてしまうのだろうか。

 諸々をはっきりさせないまま、私はカップを空にしてから聖堂へ出た。


「きゃっ」

 説教台が僅かに覗けるくらいまで扉のハンドルを引いたところ、驚く声が聞こえた。

 オルカさんが、私と同じく聖堂側からハンドルを押そうとしていたようだ。

「オルカさん! これは失礼を……」

「いえ、私こそ……。調子はいかがですか?」

「それはもうおかげ様で。むしろ休み過ぎてごめんなさいというか……それより……」

 目の前のオルカさんに気を取られたが、聖堂の空気は昼間と違い、夜の闇に対応した照明のもと、多くの人が集まっていた。

 オルカさんの隣で怠そうに腕を組むマイア。向かいの扉付近で同じように並ぶ二人の新しいシスター。

 会衆席にはメヘルブの住民がそれぞれ適当な位置に座してこちらの様子を窺っている。昼間、草原へ駆けていった子供たちも後方の椅子を仲睦まじく共用しているのが見えた。 

 夕刻分の祈りは先程済ませたはず。あとは陽が昇るまで自由に過ごすだけだろうに、彼らがこの時間、この場所を訪れたのは何故か。

 街翁がいないことから、メヘルブの住民全員が出席しているわけではないようだが……。

「オルカさん、これは?」

「えっと――」

「神父、挨拶だよ挨拶」

 オルカさんが教えてくれそうだったのに、マイアの無遠慮さが遮った。

 マイアは首に巻いたストラを外していて、雑に折り畳んだそれを私に投げて寄越した。

「顔合わせはもう済んでるだろうが、これも決まりでな。新しい司教は初日最後の祈りが終わった後、ここで連中に挨拶するのさ」

「ああ、それで……」

「面倒なら今から廃止にしてもいいぞ。一日三度の祈りと違ってこいつは絶対じゃないからな。来ない奴もいるし、私も眠いし。司教権限の使い所だ」

 祈祷より紅茶を選んだ司教に棘が刺さる。

 全員揃っていないのはそういうことだったのか。ほとんどの者は既に私の顔を知っているし、夜を迎える時まで皆の自由を強引に奪うこともないだろう。強制力のない緩い決まりには快く頷けるが……。

「いえ、せっかく集まっていただいたのですからやりますよ。皆さんに大切なことを伝えるのにも丁度いいですし」

「うん? 何のことだ?」

「貴女がくれたものでしょう?」

 意味が分からない様子のマイアと、意味が分かって微笑むオルカさんをそれぞれ一瞥して、預かったストラを肩に掛けた。 

 向かいのシスター達は……一方は混ざりたそうに、もう一方はつまらなそうにこちらのやり取りを見ていた。

 ところであの二人、年齢差はあれ、白つるばみ色の髪だけでなく、はっきりとした目元までよく似ているような……。

 十字を切って壇上に上がり、説教台の前に立つ。皆の視線がより熱烈に感じられる。

 注目される役割には慣れている。緊張はあれ、慌てることはない。

 深呼吸するとすぐ楽になった。これまでの怪奇現象と違い、同じ人間が相手ならどれだけの数で来られても臆することはない。

「親愛なるメヘルブの皆様、まずは夕刻の祈り、お見事でした。主も皆様の敬虔さを常日頃から見ておられます。

 主に代わり、私こそが皆様の営みに微笑みと安寧を与える新たなる司教、名をカイルと申します。

 しかし、私のことは司教でなく、どうか神父として気兼ねなくお付き合いいただくことを所望します。主が皆様と共に在るように、神官たる私も皆様に寄り添う善き隣人であることをここに誓いましょう」

 挨拶を終えると、拍手喝采の代わりに皆の祈りが私へ向けられた。

 オルカさんも、他のシスターたちも、子供たちも、全員が架空の存在ではなく確かな私へ平伏している。

 その光景に、聖職者ともあろう私が不覚にも優越感に溺れかけた。街翁の言っていた神の声とは、正しく今の私のことであろうか。

「それでは皆様、此度はこれまで。どうか良い夜を過ごし、より良い明日をお迎えください」

 思いつく限りのそれらしい言葉を並べて幕を引く。一仕事終えたので、夕食をいただこうかと説教台を離れるが……。

 子供たちは早々に離席し、入口から見て右手前の扉を開いた。

 その先に何があるのか気になるところだが、それ以上に気になるのが他の大人たちだ。祈りの際には誰もが充実した表情だったのに、まるで薬の効能が切れたように不安気な顔に切り替わっていた。

「カイル様、とても素晴らしかったです」

「あ、ありがとう、オルカさん。いえ、それより……」

 皆はどうしたのかと聞こうとしたが、皆と違い安定している今のオルカさんを昼間みたく不安がらせるのは避けるべきだと判断し、急ブレーキを踏んで言葉を選び変えた。

「ええと、そうだ。すみませんでした、オルカさん。まさかあそこまで本格的に寝るつもりは……」

「余程お疲れだったのですね。私も何度か扉をノックしたのですが……」

「そうでしたか。こちらから案内を頼んだというのに、こうも失態を重ねてしまっては主もお怒りかも知れませんね」

 誰も指摘してこないが、メヘルブに来てからの私は酷い有り様だ。

 司教の務めを果たす以前に、これでは祈ることさえ許されないのではないかというほどの怠けぶりだ。私こそが最も神の御面を汚してしまっている。

 陽が昇っているうちに把握できたはずの教会の構図や、告解室の謎についても結局知らないままだというのに……今一番の不安といえば、空腹により腹の虫が聖堂に鳴り響くことへの恐れに他ならないのだから。

「ごめんなさい。やはり起こした方が善かったでしょうか? 寝室は勿論、リビングにも無断で入るわけにはいかないと思いまして……」

「おや? それでは、あの紅茶はオルカさんが用意してくれたものではないのですか?」

「紅茶ですか? 私はリビングにも行かなかったので分かりませんが、そのようなものが?」

「はい。てっきりオルカさんが娯楽として持ってきてくれたものとばかり。とても美味でしたよ。まだ残っていますので、よろしければ」

「まあ。でしたら夕食の後にでも。子供たちにも分けてあげたいのですが、よろしいですか?」

 勿論です、と答えた。同時に子供たちの向かった先が食堂と分かった

 話の流れに任せてオルカさんと共に食堂への移動を開始する。

 その頃には硬直していた大人たちも何かを諦めたように次々と教会を去り、最後の一人がいなくなると、聖堂の灯りが独りでに消えた。


 ……………………。

 ……誰もいなくなったはずの真っ暗な広間。

 風の音が聞こえるほどの静けさの中、彼女の瞳はワインよりも生々しい真紅の輝きを放ち、先程まで神父が立っていた説教台を照らしていた。

「いよいよ始まるね。今回はどう転がっても面白くなるに決まってる」

 赤い女がそう言うと、まるで赤子に触れるような優しい手つきで説教台を撫でた。それから薄く残る彼の指紋をベロベロと舐めた。

 いつの間にか、あるはずもない蝋燭の灯が内陣を燃き尽くすように沢山ばら撒かれていた。一本たりとも碌に立たず倒れている。これでは火災を免れない。

 もし、この時の彼女の微笑みを目撃した者がいたのなら、とてもじゃないがこれをシスターなどとは思うまい。

 悪魔の使いか、または我々の信じる神とは、我々が知らないだけで初めから悪魔のようなものだったのではないか、といった戦慄に心を呑まれ、ありったけの吐瀉物でメヘルブを彩ることでしょう。

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