生まれる昼 Ⅴ

「これはまた何とも分かりやすいというか、歴代の司教たちはこれでよくやってこれたなというか……」

 扉の先は渡り廊下も何もなく、私の部屋に直接繋がっていたのだから驚きだ。

 聖職者が教会に寝泊まることも私の常識では珍しくないが、よりにもよって聖堂の真横……しかも扉を開けたらすぐ十字架を拝められる地点が今後の安息所になるとは思いもよらなかった。

「フフ、驚かれましたか? いくら司教さ……いえ、神父様と言っても、その、やっぱり近いですものね?」

「我儘は言えませんけどね。権限があるとはいえ私もここでは新人ですし、郷に従うこととしますよ」

「いかがでしょう。事前に最低限のものは用意したつもりですが、何か足りないもの等はありませんか?」

 入ってすぐのリビングは広く、窓辺には木製の丸テーブルに同じ木製の椅子が二つ向かい合わせに置かれ、衣類等が収納されているはずの箪笥、果ては大の大人でも丸まれば入れそうなサイズの暖炉も備わっている。

 プライベートルームとしては十分に成立している。だが……。

「そうですねぇ、強いて言うなら娯楽が足りないかな」

「娯楽ですか?」

「ええ。ワイン、本、あとは楽器とか。そういったものが無ければ退屈してしまいそうです」

「まあ」

 これから司教をやっていく者がよく嘆けると、立場を弁えていない自覚はある。

 だが私には、聖職者というのはあくまで役割であり、自分だけの時間くらいは自分が楽しめることに使いたい意志があった。……心からの聖職者に、私はなれないからだ。

「幻滅しますか? 私がそれでは他の者に示しがつかないと」

「いいえ。私たちにも等しく趣味に費やす時間があっても善いと思いますよ。カイル様のように重責を負う方であれば尚のこと」

「え?」

 意外な返答だった。

 先程の見事な祈祷や、おしとやかな振る舞いから察するに、彼女は目を覚ましている間ずっと主や皆のために励むのだろうと、勝手な印象を抱いていたからだ。

「そうですか……。ちなみにオルカさんの趣味を伺っても?」

「私の家には娯楽と呼べるものなど特に無いのですが……聖堂にパイプオルガンが置いてあったでしょう? あれを弾いている時は心が穏やかになりますね」

「あの綺麗なパイプオルガン! オルカさんがあれを演奏している姿は容易に想像できますし、きっと美しい音色を奏でるのでしょうね」

「あら、カイル様ったら褒め上手」

 浮足立ちながらも率直な感想を述べたが、今のは少しナンパのようだった。少しばかりオルカさんを困らせてしまったようだ……。

「いえ、失礼……。娯楽についてはそう急く必要もないので一先ず後回しで構いません。オルカさん、ありがとうございます」

「私は何も。扉を開けてすぐにお部屋があるのですから説明は不要と思うかもしれませんが、新しい方に教会内を案内するのが決まりですので」

「なるほど。では他の場所についても後で教えていただければと思います。こう見えて未知の探索は一人では不安なもので」

「フフ、カイル様はとても落ち着いていらっしゃるように見えますよ。けど、はい。案内役も喜んで」

 オルカさんに教会の案内をしてもらう運びが決まった。マイアより私の質問に的確な回答をくれるだろうし、私としてもオルカさんがいい。

「有り難い。では一度横になったら聖堂に戻ります。オルカさんも所用を済ませてからで構いませんので、後ほど掛け合いましょう」

「はい。それでは、失礼しました」

 オルカさんは微笑み、頭を下げてから部屋を出た。

 彼女と共有していたこの空間で一人になると、ようやく疲れを実感した。

 さて、休もう。

 入口から右側に二つの扉。奥の方を開いた結果、見事にベッドの用意された部屋を引き当てた。つまり手前が浴室だろう。

 ベッド脇に置かれた椅子にキャソックを丸めて放り、革靴を脱ぎ捨て、クラジーマンの第一・第二ボタンを外しながらベッドに移った。

 ようやく一息つけることになり、これまでの出来事を赤子なりに振り返ってみることにした。 

 私は長旅を経て辺境に到着。しかし、旅の中で見てきたものを何も思い出せず、貰った手紙も紛失する始末。気付けばメヘルブの正門前に佇む状態でいた。

 失われた足跡と、魔法のように自動で開いた赤い門。この身に起きた怪奇現象を、理屈では説明できない怪奇現象のままにして、その先の美しい街へ歩を進めることにした。

 メヘルブに住まう人々と簡単な挨拶を交わして教会へ向かう。印象に残ったのは街翁と呼ばれる重鎮のバヨクさんだけだ。私と彼が話す間、誰も近付いてこなかったのは、それだけ彼の言動に価値があるからに違いない。

 街の中央にある噴水広場を抜けると、羊頭人の石像が教会への道を示しており、私はその石像に何故かとても不快な気分になる。

 その道を無視するわけにもいかず、仕方なく誘導されると、入口目前で仕事をサボっていたシスターに出会う。

 そのマイアに名前を問われるが答えることができず、自分の名前を失っていることにようやく気が付いた。 自分はこの世の何者でもない、というような絶望に陥り、それを察したマイアに休めと言われて教会の中へ。

 普通だと感じた聖堂を眺めていると、最前席で見事な祈祷を行っていたオルカさんに聖職者の真髄を見る。 ……そんなことがあってはならないが、私は彼女の所作に見惚れてしまい、時折浮かべる不安気な顔がどうにも嫌で、彼女には常に笑顔でいてほしいと願うようになっていた。

 その不安の一因、私も気になっている告解室の謎。死した前司教が絡んでいるとマイアが言っていただけに不吉な予感がしてならない。休憩を終えたらオルカさんによる教会案内より先に事件のことをマイアに教えてもらおう。

 そして、内陣の真横にあるこの部屋に着いた。十分に物が揃っているというのに、私は娯楽を求め、オルカさんもそれを理解してくれた。完璧な聖職者にはなれないと白状し、オルカさんも同じだと疎通が叶った瞬間でもある。

 ザッと振り返ればこのようなものだったか。

 正門からこのベッドに辿り着くまで様々な出会いと発見があったが、まだマイアとオルカさん以外の同業者と対面していないのだから新入りは大変だ。

 私はきっと、この街のことをまだ一割も把握していない。各土地特有の暗黙の了解があり、それを把握しない以上はまだ街の一員ではなく客人に過ぎないはず。道程はまだまだこれからである。

 何より肝心な問題は、自分自身のこと。

 私は聖職者で、手紙を貰いこの街の司教となるべく都会を離れた。それは確かに覚えている。

 だが、私には他に何がある?

  マイアは私に仮の名前を与えてくれて、要所で私に気を利かせてくれている。

 オルカさんは嫌な顔一つせず、おそらくは真心で私に教会の案内をしてくれるのだろう。

 それなのに、私は?

 私は他の聖職者に優しくされるばかりのくせに、生まれてきたばかりの赤子同然だと自覚しているくせに、何も優れていない私がこの教会を指揮する長で良いのだろうか?

 今の私は聖職者であり、聖職者でしかない。

 聖堂の十字架を見据える前、マイアに尋問された時みたく心が弱り、無意識に両手で顔を覆った。

 きっと、きっとこれは、時間が解決してくれることのはず。私に欠けているもの全て、この先に待ち受ける出会いの中に答えがあるに違いない。

 あの自動の開門も、この街の信仰も、必ず繋がりがあるはず。

 聖職者としての更なる自己覚知のため、神が与えた試練に他ならないのだ、きっと。

 私は……聖職者としての面目を保つために……個人の心を守るために……そのような都合の良い解釈をもって一時の憂鬱を逃れ…………。

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