/8 トーチリリー 恋の痛み


〔ちりりと胸を灼いた

その痛みが心を与えた

その痛みだけで生きていけた〕






初めて彼女を認識した時、ただ漠然と綺麗だと思った。

ひとめぼれよりも簡単に、そう思ったのだ。


狭間の街には祝福は降り注がない。

狭間の街は所詮谷の底だ。


ごきりと音が鳴ってつってしまいそうなほど見上げた先にある国から落ちる光は谷の底を明るくはしてくれない。柔らかな青、ふわふわした白、きらきらした赤、澄み渡るような橙、彩り満ちた色は街には無縁だ。

谷の底に累積したガラクタたちと掠め取ったスクラップを組み立ててできた、機械城のような建造集合体が狭間の街の骨組みだからだ。

横たわる橋くらいしか空を遮るものがない谷の底は、祝福の代わりに野晒しに秋と冬には埃雪、春と夏には爛雨を与えられた。だから秘密基地みたいな骨組みに窮鼠色のガワをパッチワークみたいにつなげてツギハギにして被せて、屋根にした。


だから街はメタリックで機械的、硬質的な赤錆色に鉄色に灰色、そう言う色で満ち満ちている。ぴかぴかの新品なんて勿体無いし存在しない、どうせ錆びれるのだから。

合理的といえばそうで、淋しい印象が拭えないといえばそう。


そんな訳で、狭間の街は随分と殺風景…無機質的、といえばいのだろうか。白と黒の濃淡で表現されたみたいな姿をしていた。


狭間の街、という機構が既に形を作っていた頃。ひとりの女が谷の底に落ちてきた。赤毛が鮮やかな女はまるでどこぞのお嬢様と言わんばかりの格好をしていたが、その癖に、瞳はひどく荒んで他者を排斥せんとばかりに鋭かった。

その頃にはすっかりと頭上で行われていたふたつの国の争いは和平を迎えていたので、世は混迷期というやつだった。唐突と星が降るように戦争が終わったので、当然といえば当然だ。

国々では軍人や騎士は書類の山に追われるようになり、倫理と道徳、加えて人道が叫び出されていた。なので戦時中は爛雨と埃雪と同じように定期的にどさどさと捨てられていたものがストップし、死体が落ちてくることもなくなれば、人間が降ってくることもまま珍しかったので、女の存在はあっという間にしらしめられた。


戦時中から谷の底にいた“自分”はと言うと自ら逃げ出し放棄したために国の悲壮さも彼女の苦労もとんと想像すらできなかった。なにせこの時点で、“自分”は5年ほど谷の底に根を張っていたので。

ただ、漠然とやはり戦争が和平を迎えたところで幸福になれる訳ではないのだなと言うことだけはわかった。

女は戦争中に降ってきた者らと同じように世を疎んだ目をしていたので。


ここで“自分”は女に心配の念を抱いた。

狭間の街という機構が形になっていたとはいえ、谷の底の治安は悪かったので。最悪ではない。ただ、死にきれない者らが陰った様相で物盗りを企てたり、発散するように手足を振り回す荒くれなどが当時はいたのだ。(今?今は、てんでない。なにせ狭間の街は完成した。街の治安を見出すものは総じて”国戻し“だ。)



結論から言えば”自分“の心配は要らぬ物入りだった。寧ろ、烏滸がましいまである。

女はやはり、その成りが小綺麗だったことや大人しくたおやかな顔つきをしていることもあってか、そうそうと下衆い目をした男どもに絡まれた。体を近づけられ、卑猥な言葉で近づいた。こういう人種はどこにでもいるが、谷の底ではそれに対して自己解決が求められる。何せ、谷の底、なので。


助ける義理はなく、義務もない。善人ではなく、正義心情もない。

ただ気にかけていたというのもあるし、見かけてしまったというのもあるし、放っておくのも目覚めが悪いというのもあって、まぁ一度くらいはビギナーズラックで助けてあげてもいいだろうなどと独りごちて助けようとしたのだが。


ああ、これは、今でも鮮明に思い出せるし今でも新鮮に爆笑できる。

女はやはり凪いた目をしていた。絡まれている最中というのに怯えた様子も微塵も見せないので、男どもはそれを受領などと受け入れたらしく腰に手を寄せた。

その時である。

「触らないでください。貴方に私は不相応ですよ。あぁ、もちろん。貴方が私に相応しくない…という意味です。…聞こえてませんね。」

女は。そう、どこぞのお嬢さまのようで暴力とはまるで無縁だったそうな女は。丁寧な言葉で殴り、男の急所を(何処とは言わない、ただ男は当分排泄が辛かっただろう)躊躇なく尖った靴の爪先で蹴り上げた。

まず最初に腰に手を寄せた男の急所を蹴り上げ、呆然としている卑猥な言葉を吐いた男の鼻を殴ってから踵を脳天に落とし、女の胸に下卑た視線を送っていた男の目に砂埃を被せ臍から急所にかけて蹴り飛ばした。見事な体捌きだった。何かしらの武術をしていたのか、洗練された、的確に人体の急所を突いた動きだった。


ぷるぷると震えてうずくまる男共を見下ろす女の様に、”自分“はとうとう耐えきれなくなって腹を抱えて大爆笑した。涙が出るほど、体制こそ男共と同じように蹲って喉が引き攣るほど笑った。突然爆笑する”自分“にぎょっとする女がたいそう引いた目をしていたが、それすら面白くなって笑い転げた。

息を詰まらせながらもようやく治めた”自分“に怪訝な表情でいながらも、形だけに「大丈夫ですか」とそっけなく声をかけるので、また笑いが込み上げそうで大変だった。


その日から”自分“は、うざったらしいほど女に絡みに行った。何もかもに無関心です、と言わんばかりの態度をとる女は無視が下手だったのでかわいかった。懲りずに懲りずに話しかければとうとうと折れて、話せば話すほどつっけんどんな仕草は女を守るための鎧だと気づいた。

国で何があったのかは知らないし、”自分“も話はしなかった。ただ、谷の底に落ちてくるだけのことはあって、疎んだ瞳も彼女の本心に違いない。ただくだらない話を繰り返すたびに、女の鎧が剥がれていく様は嬉しかった。

ちょっとばかりの我儘ならば許されるようになって、気障ったらしく「君の料理が食べてみたいな」と言えばむつかしい顔をして、翌日に卵とトマトのサンドイッチを作ってきてくれた。プロの腕前などでは決してなく、ところどころ焦げついていたがいちばん美味しかった。

まず笑顔が綺麗だ。口元を手で隠して花が咲いたように笑うのだ。仕草の節々が上品で、節々が大雑把なのもいい。これで好戦的で子供っぽくて負けん気が強いというものかわいい。意外と初らしくちょっとばかり揶揄ってやれば髪に負けじと頬を真っ赤に染めるのでやめられない。


女はいつだってきらきらとしていた。綺麗だなぁと思っていた。

その事実は彼女自身の手によって証明された。



街の骨組みには使えないくらいの余ったパーツや使い終わったジャンク品、ハギレ、欠片。そういうものはどうしたって使えないので、最終的には処分される。捨てられた街で捨てられるもの。

きっかけは街の子供たち……正確には、いつもツインテールを跳ねさせて天真爛漫という言葉がぴったりの少女が本の中でしか見たことのない”花“に興味を持ったことだった。その当時は未だ国への行き来がまだ試運転で不便だったのと、そもそも国から街に花を持ち込んだところですぐに朽ちてしまうこともあったのでどうしたものかと思っていたところ。

捨てられた街で捨てられるもの、びぃどろやステンドガラスの欠片、星の刺繍のレースにアンティークの歯車、そういうパーツたちを縫い合わせ、張り合わせ、組み合わせ、女はその手で”花“を生み出した。


「ロップちゃんが本当に見たいのとは全然違うし、大したものじゃないけど…」

自信なさげに差し出す姿はいっそ滑稽だった。


大したものじゃない?

こんなに美しくて綺麗なものが?


子供たちの瞳を見てみなよ。瞳の中で星が瞬いてる。

子供たちだけじゃない。大人たちも。みな。


狭間の街、ひいては谷の底には花どころか植物ひとつ芽吹かない。空から降り頻る雨も雪も生命を育むことはなく、蝕むことしかできないからだ。裂け目から這い出る太太とした樹木も、数又にも別れた焦げ色の枝も、その実態は植物の化石に過ぎない。


ガラクタの集積場、廃墟を積み上げたみたいな機械城、狭間の街には彩りがない。当然と言えば当然で、合理的と言えば合理的で、淋しいといえば淋しい。

そこに、一輪、美しくて綺麗な花なんて差し出されてみろ。


女がみなから”花屋“と呼ばれるようになったのは必然だった。



さて。”自分“はというと感動していた。瞳に涙の膜が張るほど、目を閉じれば脳裏に煌めいて離れてくれないほど。

綺麗なひとは、綺麗なものを生み出すのだ、と。ロマンチックにもそんなことを思った。

女はというと”花屋“と呼ばれるようになって、棘の鎧が必要なくなるくらいには心がほぐれていった。多分、彼女からすれば”趣味“なだけだった”花“を目を輝かせてねだる子供たちの影響もあったのだろう。

なので花が咲くような笑顔はいつからか”自分“の特権ではなくなっていた。否、別に、”自分“のなどと所有欲を抱くのは可笑しいのだけれども、安堵と共にどろりとした感情が湧いたのは事実だ。


荒んだ態度も、疎んだ瞳も、続けるには心が疲弊していく。だから、女が息をつけるようになったのは紛れもなくいいことなのだが。”自分“以外にその笑顔を見せていると、時折わぁっと間に割り込んでやって隠してやりたいなどという衝動に駆られた。もちろん”自分“にそんなものを指図する資格はない。駆られただけなので許してほしい。


衝動を抑え込んでいると今度は、頬も耳も首も真っ赤にさせて林檎みたいな顔をする彼女に優越感が頭を支配しはじめた。やっぱり彼女は初で、ちょっとばかりの悪戯心で顔を寄せたりするとそういう顔をした。この距離を許すのも、こんなに真っ赤な顔になるのも”自分“だけ。そう思うと胸を掻きむしって叫びたくなった。

初めて作ってくれたサンドイッチが食べたいなぁ、と強請れば許されて、ほとんど毎日用意してくれた時には自慢したくてたまらなくなった。否、した。街の兄役の青年に生ぬるい目線をもらってからはやめたけど。


彼女は、なんていうか、反則みたいな存在だった。

だって可愛いのと綺麗とかっこいいが全部揃った姫騎士みたいな子なんだよ。

思い上がりでもなくいっとう”自分“に心を許してくれている様をありありと見せてくれて、特別みたいにしてくれるから、もうたまらなかった。


だからいつだって”自分“は卑怯で彼女に顔を寄せたり、髪を撫ぜたり、形が違っていればあの日の男共のように嫌悪されて蹴り飛ばされるだろうことを、そうじゃないのをいい事に擦り寄って、甘えて甘えて甘えた。彼女が突き離さないから、なんて言い訳すらして。

どうせ思いを告げる覚悟もないくせに。


「あー……もう、なんであの子あんなに可愛いくせに綺麗なんだよ…」


胸の辺りのジャージを皺がつくほど握りしめて蹲る。むずむずとした皮膚の下を走る甘い痛みに耐えられなくなったのだ。

ほんの少し前には格好つけて軟派な台詞を吐いていたのと同一人物とは思えないほどみっともはいへたれた整備士の顔は、ちょうどうずくまって悶えているどこぞの花屋と同じ色をしていた。ちょうど、彼女の髪と同じ色を。

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