/3 カエデ 美しい変化


〔それを幸福ととるのか不幸ととるのかは結局個人の裁量に尽きる

なので老人はそれを幸福とした〕




かつての世界の空はひどく美しかったらしい。


太陽と呼ばれる眩い星があった。

青空と呼ばれる星の外側を映した天幕があった。

星々が入れ替わるための夕暮れがあった。

夜闇を照らす月と呼ばれる輝く星があった。

夜のカーテンに散りばめられた星空があった。

かつての世界の空はそんな風に美しく変化していったのだと、捨てられた街で生き字引だなどと持て囃される老人は知った風に語った。当然のように老人もまた、灰煙色に覆われた空しか見たことはないのだけれど。随分と古い色褪せた写真に映された空は確かに色鮮やかだった。


隠された天蓋の先はそうやって今も美しく変化している。




老人が住み着く古い紙の匂いが充満するそこは居住部屋というよりも研究室のような有様だった。

隙間にすらみっちりと詰められた本棚が壁のほとんどを埋め、ガタついた机の上には開けっぴろげにしたままの分厚い本や小難しい文字が敷き詰められた黄ばんだ紙が散乱していた。

唯一生活感のあったのは、部屋の片隅で後付けのように置かれたソファ。かつて、老人の手足がまだしわくちゃでなかった頃に所有していた物のような、座れば跳ねるほどの弾力性も沈むようなふわふわさはまるでない安っぽく汚れたソファを、老人は結構気に入っていた。


見下ろすと骨と皮ばかりの老人の腿を枕にして眠る幼い少年がいる。

それほど大きくはないソファだが、小柄な少年には十分で全身を伸ばしていた。心地など良くないだろうにぷぅぷぅと変わった寝息を立てては時折何やら口をもごもごさせていた。霞はそれほど美味しいのか、口元が緩んでいる。


ゆったりとした声の老人の長話が良い子守唄になったのならば、幸いだった。

少しばかり腫れてしまった、涙の跡が残る目元を撫で、顔にかかったびろうどの髪をはらってやる。起こさない様にとした優しい手つきだった。

ふ、と影が差した。

少年の寝息につられてしまっていたせいで来客に気が付かなかった。風音と軋んだような音などこの街では通常BGMなのも理由のひとつだろう。


顔を上げると街でリーダーと慕われる少年とも青年とも呼べる男がへにゃへにゃした貫禄のない、いい意味で子供らしい笑顔で立っていた。シーグリーンの瞳がぱちりと瞬く。

「こんにちわ、先生。」

「やぁリーダーくん。」

「やっぱここにいた。ごめん先生、相手してあげてありがと。」

「かまわんよ、こんな老人の長話に付き合ってくれる貴重な子だからね。ところで今日は何の喧嘩をしたのかね。」

知った顔で問えば、リーダーは頬をかいて困り顔で笑うなんて器用なことをした。

「いやぁ、さ。朝にでっかい音あったの聞いた?」

「随分と賑やかだったのは知っているよ。」

「それ。」

「ほう?」

「げーいん。」

出不精が祟って“あった”ことは知っていても“どういった”を知らない老人は首を傾げた。

この老人はある意味で好奇心旺盛な老人で、ある意味で実際感心が薄かった。「何があったんだろう」にはフットワークが軽い癖に「何かあったなぁ」で終われば書物とか人伝とかで大半を満足してしまうクチだ。無関心と関心が完全に表裏一体で存在している。


「カラスがさ、寝惚けて引っ掛けた薬品を鍋にぶちまけちゃったんだってさ。どーんっと。怪我がなかったからよかったけど。ただ、ヒツジがいっぱいいっぱいになっちゃったみたいでさ。」

未だぷぅぷぅと寝息を立てる少年をカラスと呼んだリーダーは、今はここにいないもうひとりの、呼び名にそっくりの髪型をした少年に思いを馳せる。どこか罪悪感を漂わせてもいた。

「最近色々、任せちゃったりとかしてたからさぁ……」

「嗚呼、あの子は真面目だが、だからこそよく溜め込むからね。そういえば。最近の後始末や冬の備えなんかもあったりしたからねぇ。」

「そーそー。それでさ、ヒツジがつい怒鳴っちゃったみたいでさ。」

「なるほど、それで私のところに来た時濡れ鼠の相貌だったわけだね。……起こすかね?」

疑問系のくせに、全然そうじゃない言い方だった。リーダーが肩をすくめる。

「んーや、ひとりぼっちだと思い込んじゃうだろうから探しにきたけど、先生のとこなら安心だしさ。」

全身全霊で安心を手向けるリーダーに、毒気が抜ける。こういうところがリーダーと慕われる所以だ。

手を振って出ていったリーダーは恐らく、いや、確実に、騒動の仲裁…否。未だむにゃむにゃと心地よさげに夢の中にいる少年といつも一緒にいる2人のアフターケアにでも走っていったに違いない、と推測する。


老人はというと、斑目模様みたいな心地だった。

腹を見せて眠る少年も然り。“安心”などと、自分には程遠いだろう感情を手向け剰え信用なんてものを預けるなんて、いっそどうかしているに違いない。


老人には、彼の今に至るまでの“かつて”がある。当然だが。

研究と囲われた非人道に加担した“かつて”がある。他者を他人としてしか括らず、信用も信頼も全て拒んだ“かつて”がある。二枚の舌で他人を利用した“かつて“がある。憶測で人を測って見下した”かつて“がある。それら全ての果てに、今まで踏み躙ってきたモノに縋れど地の底へと落とされた”かつて“がある。


老人の独り言をこぼしかけた口元に自嘲が混じった。それら全ての”かつて“は”先生“と呼んでくれていたはずの誰か達のせいで全て台無しにされた。底に落ちた、と言ってもいい。

物思いに耽っていると膝上の少年が「ぷきゅん」と小動物のようなくしゃみをしたので、ついと老人の顔が綻んだ。


喧しく鬱陶しいと思っていた”かつて“がある。特に誇りもない栄光に執着した”かつて“がある。利用するだけの足がかりにしか思っていなかった”かつて“がある。覚えのない物を背負わされ、縋りついても捨てられてしまった”かつて“がある。


捨てられた谷の底の街にかつて馬鹿にした青年に救われた”かつて“がある。


子供騙しと馬鹿にして目を通しもしなかった童話を暗唱出来るほどに読んだ”かつて“がある。握りしめられた指先に馬鹿みたいに狼狽えた”かつて“がある。自分のためだけに独占した古学を子守唄代わりに唄った”かつて“がある。喧嘩をしたと泣く少年の涙を拭った”かつて“がある。


沢山の”かつて“を孕んだ老人がいる。

偉大な意味を含んでいると思っていたはずのかつてよりも安っぽくて色が散りばめられた”先生“という呼び名を心の底から喜んで受け取った老人がいる。


かつての空のようにこれもまた、愚かしくも美しい変化だろう。

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