第5話

「ありがとうございました。危ない所を助けて頂いて」

 春木は深く頭を下げた。シェルターの中は冷たく、埃っぽい空気に満たされ、時折明滅する天井の白色灯は怪獣の侵攻がまだ続いていることを示していた。

「いくら、怪獣を怖がらないからって、まさかあんなところで立ち止まってるとは思わなかった」

 間一髪で春木の腕を引いてくれたのは、あのドイツ人の女だった。

 彼女のそばには、車椅子に座った老人が黙ったまま備え付けのテレビを見ていた。

「やっぱり、日本になんて来るんじゃなかった……」

 テレビで流れている怪獣災害の中継映像を一瞥し、女は呟く。春木はため息を吐いて、それに頷いた。

「ええ、あなたの言っていたことは正しかった」

 女性は一瞬、春木に視線を送った。

 港区を火の海にして、怪獣は北上を続けていた。慣れ親しんだ、見慣れた風景が今は炎と噴煙の中に沈んでいる。怪獣が一度上陸すれば、こうなることは誰しもが分かっていたはず。しかし、その光景はあまりに新鮮で、到底受け入れることのできない鮮烈な絶望の光景だった。

 シェルター内の人々はそれをただ、信じられない光景として呆然と見つめていた。

「あなたの言っていたことは正しい。日本人は怪獣に対する感覚が麻痺してるんです。もっと、人々は恐怖し、間近な死に気づくべきなんです……もっと意識して、もっと対策を……」

 妻の舞子が藍を連れ、毛布をもって戻ってきた。

「舞子。これで分かった。やっぱり、僕たちはこんな場所に暮らすわけにはいかない。君のためにも、そして藍のためにも」

 舞子は何か言いたげに下唇を噛んだ。

「やっぱり僕は、僕たちは、怪獣が絶対に出ない場所を探す。どれだけ不便でも、藍が不満だと言っても、死の危険には代えられない」

 藍は泣き腫らした顔で不思議そうに春木を見上げていた。

「藍、怖かったろ? 大丈夫、これが済んだら僕らは――」

 そこまで言いかけて、老人の咳払いが会話を断ち切った。

 それまで沈黙を保っていた車椅子の老人は深呼吸をして、春木の方を振り向いた。水色の目と高い鼻は彼が日本人ではないことを伺わせた。

 彼女の父だ―― 春木は直感した。

「ドレスデンの爆撃があった時、私はまだ5つだった」

「パパ、」

 女性が呆れた声で、眉をしかめた。

「当時の私にとって、戦争とはどこか遠くで起こっていることで、いつ自分が戦火に焼かれて死んでもおかしくない状況にあることなど、意識すらしなかった。

 だが、結果的にドレスデンの爆撃によって多くの人が死に、私も友人と兄二人、そして祖父母を失った。

 私はその時に気づかされた。死はすぐそばにあったのだと。そして、戦争がそれを運んでくるのだと。

 母は私を連れ、爆撃のない田舎へと疎開した。

 戦争が終わった時は嬉しかった。死から解放されたのだと心の底から思った。もうこれで死ぬことはないのだと、ね。

 終戦の翌年、私の母は車に跳ねられて死んだ。私は激しく動揺した。私は分かっていなかったんだ。戦争以外にも人を死に至らしめるものがあるという事をね。

 少しずつ物事が分かっていくようになるにつれて、世の中には死の危険が数多く潜んでいることに気が付いた。いつしか、死の恐怖で寝られなくなり、私は家から出ることも出来なくなった。

 そんな時、私は母親の叔父を伝ってカルフからバイエルンの田舎町へと引っ越すことになった。山の麓にある小さな宿場町で、叔父も登山客向けのバーをやっていたから、ヴェンデルシュタインに昇る登山客がよく訪れていたよ。

雪山では、頻繁に死者が出る。私は不思議でたまらなかった。なぜ、そんな危険な場所へ喜々として登っていくのか。もしか、登山客たちはそこにある死の危険を知らないのではないかと。

 ある時、バーにやって来た登山家の男に私は尋ねた。なぜ、山に登るのかと。

 男は無論、山が好きだからだと答えた。でも、登山は死の危険で溢れている。死ぬのは怖くないのか、と私は男に聞き返した。

 男は、死ぬことは怖い。でも、それよりも死に心を奪われて、自分を見失ってしまう事の方が怖いと言った。

自分にとって死を恐れて山を登らないのは、それこそ死んでいるようなものだから、とね」

 春木は生唾を飲み込んだ。

「その時は分からなかったが、次第に理解できるようになった。

山に登ることも、普通に生きていることも、大差はない。常に死はすぐそばに会って、どんなタイミング、どんな巡りあわせで死んでしまうか分からない。でも、だからと言って悲観することも、恐怖におびえて動揺することもない。

だから、この国の人々の感覚が特別だとも、異常だとも私は思わない。

この国では全ての人々が怪獣と直面する。しかしそれは、死が避けられないという当たり前の事実と同じ。

いつ来るのかは予想できなくとも、いつか必ず訪れることは誰もが知っている。いつかは必ず死ぬ。人々はその不確かさを深層心理の奥で甘受して、生きていくしかない」

 テレビでは、ようやく動き出した自衛隊が怪獣と交戦を始めたことを伝えていた。


「パパ、早く」

 藍に急かされ、春木は慌てて荷物をまとめた。

 玄関口ではすでに靴を履いて準備万端の藍が出発を待ちわびてる。

「じゃ、行ってくるよ」

 声を掛けると、慌てて舞子が走ってくる。

「ちょっと、帽子、帽子! 外暑いから、熱中症だけは気を付けてね」

「はいはい」

 舞子に笑いかけてドアを開けると、目の前には色を変えた公園のイチョウが一面に広がっていた。




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

怪獣のいる風景 諸星モヨヨ @Myoyo_Moroboshi339

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ