第十話

 試験前の金曜日は、何もせずとも過ぎゆく日と違って特別感がある。

 試験本番まで残りの金曜日は、今日を除けばあと一回しか来ない。勤勉な学生にとって今日という日はどれほど貴重で、重みがあるのか。その感覚も分からず、私は高校二年生をやっていた。

 中学生の頃なんかはもう少し学生らしかったかもしれない。学んで生きる。読んで字のごとく、今よりは勉強にも身が入っていた。


 年を重ねて、出来ることは増えているはずなのに。

 後先考える知恵をつけたら、後先の結果が怖くなった。


 だから私は諦めることを先に学んだ――学業も、友達も、恋愛も、人生も。


 格好悪い。良いように言っているだけで、面倒くさいことから逃げているだけだ。


 そんなんだから私は――


「赤点ばっか」


 昨日と同じ部屋に天野さんの声が浮かんで、三色ボールペンが机に転がる。落ちてしまうのではないかと思ったが、端の方でぴたりと止まった。

 狭い机の上には五枚の過去問と丸の少ない解答用紙がゴミのように置いてあった。


「特に数学が酷い」

「なんてったって数学教師のお墨付きだからね」

「墨じゃなくて顔に泥でも塗られてんじゃないの」


 墨も泥も不快感は変わらないんだけど。

 天野さんは頭こそ抱えないものの、あからさまに眉間に皺を寄せている。易々と勉強を教える許可したことを悔やんでいるのかもしれない。


 相変わらず天野さんの部屋は無機質で面白みがない。昨日と変わらない麦茶とクーラーの涼しさがあるだけだった。


「今までの試験はどうしてたの……」

「勉強せずとも受けさせてはくれるでしょ」

「留年とか考えないの?」

「え、そこまで酷い?」


 別に私は不良というわけではないのだ。やりたくないことをやらなかったらこうなっただけで。両親も厳しい方だし、留年なんて聞いたら張り手が飛んできそうだ。

 私にだって赤点をぎりぎり回避できるくらいの勉強量はある。


「じゃあちゃんと勉強したら良いのに」

「だから天野さんに教えてもらってるんでしょ」

「それ、聞きたかったんだけど」


 天野さんが改まったような表情を見せる。


「どうして私に教わろうなんて思ったの?」

「クラスで一番成績が良いから」


 空き教室で前にも一度答えたことと全く同じ言葉を口にする。

 あまり深堀されたくない話題だった。自分でもよく分かっていない事を人に説明するのは難しい。


「だけど今まで話した事もない人間に教わろうなんて考える? 大山さんと仲いいんだったらあの子に聞けば良いのに」

「桜には純がいるし……もう良いでしょ別に。次は何を解けばいいの」


 歯切れの悪い回答を残して、手元の解答用紙を回収する。

 一応、間違えたところは全て天野さんから教わった。もう一度同じ問題を解けばなかなか良い点を取れる自信もある。

 悔しいが、流石クラス内トップ。頭も良ければ人に教えるスキルにも長けていた。


「……そうやってすぐ話題逸らすよね」


 天野さんは目を細めながら数学の問題集を開く。そのまま気怠そうに「ここから解いて」と一問目を指差した。

 素直にペンを握って考えてみると先ほど教えてもらった公式が頭に浮かぶ。問題の下にすらすらと途中式が走って、解答まで辿り着く。ここまで悩むことなく解けると楽しいとさえも思えてきた。


 それから言われた部分を順調に解いていき、気が付けば外は薄暗くなっていた。

 勉強に熱中するときがくるなんて、私も偉いもんだ。


「そろそろ帰らなきゃ」


 時計を見上げれば十八時を超えたことを示している。

 門限はないが、あまりにも遅くなりすぎると夕飯抜きなんてこともざらにあった。


 私はミニテーブルの上の麦茶を一気に飲み干して参考書の類いを片付ける。

 最後に筆箱を鞄の中にしまい立ち上がろうとしたときだった。


「今日、泊まっていく?」


 天野さんの言葉に身体の動きが止まる。頭が痺れたような感覚が走って、一瞬何を言われたのか分からなかった。


「へ?」

「明日学校休みだし、末原さんこのままだと赤点を回避するのに精一杯」

「……赤点じゃなければ何だって良いんだけど」

「だめ。教えてるうちに楽しくなってきちゃった。いけるところまで目指そうよ」


 面倒くさいことになってきた。

 確かに私は少しでも天野さんとの時間が増えれば良いと思ってはいたが、なにも四六時中一緒にいたいわけではない。

 友人付き合いの少ない私にとってお泊まりというイベントは嬉しいものではなく、緊張の対象だった。


「えー、まあ、うーん……」

「そんなに嫌ならいいけど」


 いざそう言われると後ろ髪を引かれる思いがする。天野さんからのせっかくの申し出を蹴るのももったいない気もするし。

 ただのお泊まりに深い意味を持たせようとするからいけないのだ。

 これはただのお泊まり。友達イベントのようなもの。気負うことなんて何一つない。


「……分かった。お母さんに連絡するから待ってて」


 スマホを取り出して廊下に出る。慣れた手つきで母親に電話をかけ、今日は帰らない旨を伝えた。珍しい娘の電話に母親は驚いた様子だった。

 何か悪いことをしたから帰ってこないのかと心配されたことに少し傷つく。母親が疑うくらい娘の交流関係は乏しいのだろうか。


「おまたせ。許可もらったから」

「良かった。とりあえずご飯食べる?」


 自分のお腹と相談して頷く。天野さんは立ち上がって冷蔵庫の中身を物色し始めた。


「なにか手伝おうか」


 他人の家で自由に動くわけにもいかないからサポート役に回ることになる。素直な気持ちを言えば動きづらい。でも手持ち無沙汰なままなのも気持ちが悪かった。


「じゃあ、机の上を綺麗にしてくれる?」


 冷蔵庫から卵を取り出した天野さんが言う。

 布巾を受け取って机を拭き上げればすることがすぐになくなった。流し台で布巾を綺麗にした後、天野さんを見つめることしか出来ない。


「末原さんって料理とかできる?」

「まったく」

「だろうね」


 髪を一本に束ねた天野さんが「座ってて」と私を追い払う。


 何かしたいという気持ちは強かったが、私の行動で晩ご飯が消えることも考えられる。そうなるとおとなしく座っていることしか出来なかった。


 やることのない私の視線は自然と天野さんの後ろ姿に釘付けとなる。ポニーテールにまとめられた髪型のせいでいつもより首筋が露わとなっていた。

 白く滑らかなうなじはこんなときでも色っぽいと感じる。何を考えているんだと頭を振っても視線は動かなかった。


「何作ってるの?」


 せめて思考くらいは別のことを考えようと、彼女に話しかける。

 料理中に話しかけられることを嫌う人もいるが、天野さんは卵を割りながら答えてくれた。


「オムライス。米は炊いてあるから、簡単に……末原さんってアレルギーとかある?」

「特にない」


 返事をすると部屋には料理の音だけが響く。


 勝手に気まずいと感じて何か話題を探したが、私達の間には共通して盛り上がれるものがなかった。天野さんに聞きたいことはいっぱいあるはずなのに口から出ることはない。

 こういうとき、私達ってどんな関係なのだろうと思う。少なくとも仲の良い友達ではない。友達ですらないのではないか。


 ベッドに寄りかかって天井を見上げる。

 家庭教師と生徒。

 今はこんなところだろうか。風俗嬢と客よりはましだろう。


 床に積み上げられている参考書を手に取って、ページをめくる。所々に書いてある天野さんの字はとても綺麗で、読みやすい。問題なんて一切目に入ることなく天野さんの字だけを読んでいた。後ろの方まで一枚ずつめくっていると、炒め物の音が聞こえてくる。


 気になって横を向くと、フライパンの上で小さく刻まれたソーセージやピーマン、にんじんが踊っていた。天野さんはフライパンを器用に振っていく。最終的には塩コショウを振った白ご飯と混ぜて、炒飯のようなものができあがっていた。


「天野さんの家ではケチャップライスじゃないんだね」


 皿にご飯を盛る天野さんに話しかける。

 私の家ではケチャップと鶏肉を混ぜたご飯がベースになっていた。レストランで食べるオムライスもそんなイメージが多い。

 料理をしない私のイメージなんてたいしたことないんだろうけど。


「卵の上にもケチャップかけるのにご飯にも混ぜてたらおかしくない?」


 そういうものだろか。

 まあ、確かに分からないこともない。

 別に文句もないから良いのだけれど。


「あとは卵焼くだけだから飲み物とか用意してくれる? 勝手に冷蔵庫開けて良いから」

「うん」


 冷蔵庫を開けて麦茶のペットボトルを取り出す。他人の家の冷蔵庫を開けるのはなんだか新鮮だった。小さい頃から両親に他人の冷蔵庫は勝手に開けちゃだめと注意されてきたからだろうか。

 冷蔵庫ってプライベートな領域の気もするし。


 新しいコップに麦茶を注いでいるうちに天野さんが完成したオムライスを運んでくれる。インスタントのスープも隣に並んで立派な晩ご飯になった。

 こういうのを間近に見ると、自分も料理を覚えてみようかとなる。結局は面倒さが先行して行動に移すことはないのだろうけど。誰か自分以外に作ってあげたい相手でも出来れば変わるのだろうか。


「じゃあ、いただきます」

「いただきます」


 天野さんの向かい側で両手を丁寧に合わせる。

 お互い、ケチャップで文字を書くとかそういった面白みはない。いたって普通にケチャップをかけて、私は黄色い絨毯にスプーンを刺した。一口分を取り、口に運ぶ。

 まず塩コショウの味が舌先に乗り、後からケチャップが追いかけてくる。ゆっくりと噛めば食材の歯ごたえが伝わってきた。

 頬の内側の余韻を受けて、感心する。


「どう?」


 そんな私を天野さんは自分の分も手を付けず見ていた。私の口から出る感想を心待ちにでもするように求めている。


「美味しい。すごく」

「ほんと」

「本当に美味しい」


 グルメリポーターでもない私はテレビに映るあの人たちのように上手くは言えないけれど、心の底から美味しいと思ったのは本当だ。

 私の言葉をどこまで受け入れたのかは分からないが、天野さんは安堵したようにオムライスを食べ始める。


「天野さんって料理とか結構するの?」

「まあ、一人暮らしだから人並みには」

「そっか」


 もう一口、もう一口となっているうちに会話がなくなる。元から少ない口数も減り、黙々と手を動かす。

 天野さんはご飯を食べる姿勢や仕草も綺麗だった。


 近くで見て実感する。生まれたときからそうだったのだろうか。それともご両親からの教育の賜なのか。その両親は今どこにいるのか。

 娘があんな店で働いていても文句を言わない両親。他界しているのかもしれないし、絶縁しているのかもしれない。天野さんに聞けない多くの中の一つだ。知らないから想像するしかない。その想像力も乏しいから、無粋な考えしか浮かばない。


 本人に聞けば良いのに、聞くのが怖い。

 天野さんを知りたいと思っているのに、知るのが怖い。


「食べ終わったらまた勉強?」

「うん。次は理科」

「理科嫌い」

「末原さん、理系弱いよね」

「文系もからっきしだけどね」


 数学みたいに確定している解答を求めることに苦手意識がある。国語の「作者の気持ちを考えなさい」のように、受取手によって感じ方が異なる方が選択肢も曖昧な気がして答えやすい。それでも試験だから一つの答えを求めさせるんだろうけど、部分点くらいはもらえるからいい。


「ごちそうさま」


 コーンスープも飲み干してもう一度両手を合わせる。

 使った分の皿を流し台まで持って行き、黄色いスポンジを握った。


「洗い物は私がするから」

「ありがとう」


 天野さんの分も受け取って不器用ながらも終わらせる。洗い物くらいは出来ることに少し安心した。


「やっぱり勉強前にお風呂済ませちゃおうか」

「分かった。天野さん先入ってきてよ。待ってるから」


 タオルで濡れた手を拭い言う。

 他人のお風呂を借りることも初めてだ。私くらいになると心の準備がいる。

 イメージトレーニングでもしておくから、先に天野さんから入ってきて欲しい。


「一緒に入っちゃおうか」


 天野さんはさも当然とでも言い放った。

 だから反応も遅れたし、分かりやすく動揺もした。


 普通、友達も家に泊まりに来たらお風呂まで一蓮托生なのだろうか。

 そうか、そうか。私が世間知らずなだけで一般的には普通のことだったのか。

 なんて。


 ……んなわけあるか!

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失恋中、レズ風俗に出会った話。 @misakanon02

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