第九話

 部屋に物音一つ立たない時間が過ぎる。

 例によって天野さんの表情からは何も捉えられない。驚いた顔をするわけでもないし、私から距離を取るでもない。

 表面を掬いとるように、飄々と私の瞳を見つめていた。


「何か言ってよ」


 せめて、なにか一言くらい欲しい。


 「彼女がいる」と伝えた相手の反応はたいてい二つ。相手を傷つけまいと平静を装うか、とことん私を否定するか。

 どちらも私のことを普通だと受け入れることはない。

 同性と付き合うというのはそういう事だ。まだまだ世間の目は厳しいと心底思う。


 だから天野さんに伝える必要なんてなかった。

 天野さんはどういう反応をするのか、試すような行為をするべきじゃない。


 後悔するのは私なのに。


「だからどうした、としか」


 冷静な天野さんの声は驚くほど軽い。

 目だけが私を捉えていて、どうでもいいような顔をする。


「は? いや私女の子と付き合ってたんだよ? 女なのに。気持ち悪いとかないわけ?」


 天野さんも恋愛対象に入ってるかもしれないんだよ、とは言わなかった。

 本当に入っている訳では無いが、同性が好きだと伝えれば、相手は自意識過剰になるのは身に染みている。

 自分も狙われているんじゃないかって、勝手に思い上がる人の方が多いことも知っている。


 私にだって選ぶ権利はあるし、そんなやつ好きになるわけないんだけど。


「……末原さん、私がどんな仕事しているか覚えてる?」

「仕事? あ」


 天野さんのバイト先を思い出して、はっとした。彼女にさせたかった顔を私がしてどうする。

 一番重要なことを。天野望と出会ったきっかけをすっかりと忘れていた。


 握っていたペンを落としそうになる。

 呆れたように表情を変える天野さんから視線をずらした。


「……レズ風俗だっけ」

「そう」


 風俗で働いていることは覚えていたけれど、女の子だけを扱っているお店だということは忘れていた。最初に受けた衝撃をこんなにすっかり頭から抜け落ちることなんてあるのだろうか。


 あるか、私だし。


「あまりお店のこと深く追求してこないのは助かるけど、忘れられてるのも癪」

「それは、ごめん」


 無意識にでた言葉に、どうして謝っているんだっけと思う。謝罪しなければならないほど悪い事をした覚えは無いのだけど。


 それに忘れていた方が天野さんのためになったのではないか。……違う。どういう経緯かは知る上ないが、天野さん自身があのお店で働きたいと思っている可能性もある。

 少なくとも私みたいな人間には慣れているという意味で、きっと偏見なんて持っていないんだろう。

 確信なんてものはないけれど、天野さんの表情から汲み取る限り、いくらか信用があった。


 無表情に戻った天野さんは私の謝罪に首を振る。そんなことじゃ許さないとでもいうように言葉を続ける。


「そうやって忘れるなら」


 天野さんの気配が近づいて、急に目の前が暗くなった。

 目隠しをされたのかと疑って、覆われているそれに指先を伸ばせば温かく柔らかい。手のひらの体温だと分かると、なんだなんだと目が回った。


「私のこと、この身体に覚えさせてあげようか?」


 耳元で吐息混じりの天野さんの声がする。寒くもないのにぞわりと鳥肌が立った。

 一瞬、何を言われたのか分からず反応が遅れる。冗談だと分かっているのに言葉を失う。自然と息をするのも忘れ、酸素が足りず意識が飛びそうだった。


「どういう、意味」


 私と天野さんとの距離は気配で感じ取るしかない。目を塞がれているせいで感覚が研ぎ澄まされている気がした。


 色々と言いたいことはある。

 天野さんとのこういった距離感はおかしい。この行為にどんな意味があるかも測れないから怖い。今も何を考えているか分からないから、私は臆病になる。


 そんな私を見て面白がっているのかもしれない天野さんが口を開くのを感じ取った。


「口で説明できるようなことじゃない」


 鳥肌が治まらない腕を指先で撫でられる。やめてと言いたいのに声が出ない。

 声で示せないのなら身体で行動するしかなかった。


 見えない感覚の中で腕を遠慮気味に伸ばす。触れた先が天野さんの腕だと確信して振り払う。


「痛い」

「嘘つき。そんなに力入れてないじゃん」


 視界が開いた先ではいつも無表情の天野さんが少しだけ笑っていた。まるでお店で話すときのようなその顔に胸の辺りが締め付けられる。

 何を考えているのか分からないのも困るけど、他の人にも向ける表情も気に入らない。


 今私が求めているのはのぞみさんではなく、天野さんなのだから。


「……別に求めてるとかそんなんじゃないけどさ」

「なに?」

「なんでもなーい。変なこと言わなくていいから早く勉強教えてよ」


 胸にかかるもやを引っ剥がしてペンを握る。天野さんも私をからかうのに飽きたのだろうか、「分からないとこあったら声かけて」と参考書を眺めていた。


 向かい側に座る天野さんのまつ毛が長い。

 見た目はいいのになあ、とため息をついて数学のプリントと睨むが、分からない所しかない。


 すぐに声をかけるのも嫌で、適当に数式を書いてみる。ぐちゃぐちゃの文字式はデタラメで、誰かさんの頭の中を表しているみたいだった。

 やっぱり一人じゃ解けなくてなんだかなぁと思う。どれだけ悩んでも結局、天野さんが必要らしい。


「分からないなら素直に聞きなよ」


 そう言って天野さんが少しだけ笑う。


「……分かるし」


 私の気に入らない笑顔に口が尖る。

 その作り笑顔をいつか崩せたら。


 微妙なこの距離に名前がつけられると信じて。

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